いやなひと
「おかえりなさい」
「ただいま」
ちょうど歩いてきたマリーと、帰宅したリヒャルト。
暮夜のほの暗い廊下で、見下す視線と睨み上げる視線がぶつかった。
偽夫婦はこの前の互いの台詞を交換し、目を逸らしたら負けだとばかりに時計の刻みを二十程聴く。
お定まりになりつつあるやり取りは、頃合いよく寄ってきたクライネの鳴き声で断ち切られた。
マリーは腕組みし、流れを再開する。
「夕食はもう済ませましたか?」
「この時間で済ませてると思うのか?」
わざわざこちらの神経を逆撫でするような言い方をする必要があるのだろうか。
噛みつきたい気持ちを何とか押さえ込み、足首にじゃれついてきた黒猫を抱き上げる。
愛らしいクライネの湿った鼻に触れながら、マリーはリヒャルトを見やった。
「じゃあ、私と一緒に食べなさい」
マリーの言葉に、リヒャルトは一瞬怪訝な顔をした。
少し傾いだ制帽を脱ぎ、首を二度三度捻って口を開く。
「悪いな、どうも最近寝不足らしい。幻聴が聞こえた。で、何だって?」
「性格だけでなく耳まで悪いのですか? 一緒に食べましょう、と申し上げたのですが」
にゃあ。
主人に同調するかのように、子猫がどこか小馬鹿にした響きの鳴き声を発した。
冷たい琥珀の目がクライネを捉えたため、マリーは慌てて愛猫を逃がす。
黒猫は振り向きもせず、とっととその場から駆け出した。
リヒャルトはつま先で床を打って苛立ちを示す。
マリーが若干愉快に思いながらそれを見ていると、何か思いついたらしい彼はマリーに向き直った。
「毒殺でもする気か? 何を入れたのか言ってみろ、今なら怒らないから」
「どこまでも無礼な人ですね、あなたは!」
宥めるかのように肩に置かれた両手を、マリーは即座に振り払った。
弾かれた革手袋が間抜けな音を立てる。
リヒャルトは弾みで飛ばされそうになった帽子を器用に捕らえ、指先でくるりと回した。
「冗談だ」と仕切り直すように言って、飴色の視線をこちらへ向ける。
「献立は?」
「……鶏のフリカッセ」
「ああ、惜しいな。三日前に食ったとこ」
「別に、無理して食べて頂かなくても結構ですが」
明らかにからかいの混ざった口調に、マリーは形のいい鼻をつん、と他所へ向けた。
そもそもちょっとした気まぐれで誘っただけだし、彼が辞退するならいつも通り一人で食べればいい。
それだけの話だ。断られたところで傷つきはしない。
そう思っているはずなのに、何故だか心の水面に波紋がたつ。
言いようのない苛立ちでマリーが背を向けると、リヒャルトがわざとらしくため息した。
「食いますよ、後々恨まれそうだから」
「……それならそれで、早く着替えてきて下さい。私はその制服が嫌いです」
「知ってる」
ちらりと振り向き、マリーが言い放つ。
それなりに誇っているであろう軍服を拒否されたリヒャルトは肩をすくめ、階段へと足を運んで行った。
(いちいち余計な事を言わなければいいのに)
マリーは一人唇を尖らせ、踵を返した。
***
「ちょっと塩分過多なんじゃないか」
「加減を間違えましたが何か」
頭上の照明が、クリーム色の光を投げかける食堂。
口にしてからの第一声がそれだったので、マリーは少々落胆を覚えた。
憮然として言い返すと、リヒャルトは気怠げに首を振った。
そして言う。
「まあ、でも美味いな」
不意打ちだったので、マリーは思わず皿へと向けかけていたフォークを止めた。
リヒャルトはといえば、特に興味なさそうに食事を続けている。
何となく反抗したくなって、マリーはゆっくりと口を開いた。
「……塩分過多なんでしょう」
「不味いとは言ってない」
(嫌な人)
内心、小さく舌を出す。
文句を言ったくせに、リヒャルトはそれなりの速さで食べ進めていた。
傍らの水に手を伸ばしながら、マリーはふと思う。
(いつもこれくらい無害ならいいのに)
この時間自体は、決して嫌いではないから。
珍しくマリーはその気持ちを否定しなかった。
気づかれないよう、小さなため息を一つ吐く。
リヒャルトの態度が憎らしかったので、彼の好物だと聞いて作ったのは黙っておく事にした。
***
ほとんど奇跡的な確率で、二人は夕食を済ませてからも同じ部屋に留まっていた。
片付けを終え、紅茶でも飲もうかと薬缶を手にとった時、背後から「マリー」と声がかかった。
振り向くと、リヒャルトはお気にいりらしいクッションを背に敷いて座っている。
「珈琲」
「自分でおやりになったらいかがですか」
「冷たい事言うなよ。夫婦だろ」
「偽物でしょう」
「そう言えばそうだった」
しかし彼は腰を上げる気配がない。
マリーはしぶしぶ、もう一つカップを用意した。
紅茶を淹れたのはせめてもの抵抗だ。
少々手荒に陶器を押し付けると、リヒャルトは銀色の眉宇を寄せて姿勢を正した。
「地味な嫌がらせを」
「何の事でしょう」
マリーはさらりと答え、彼のはす向かいに座った。
白地にバジリコの描かれたカップを手に取り、静かに紅の液体を啜る。
しばしの沈黙の後、今さっきのやりとりを思い返してマリーは久方ぶりの疑問を口にした。
「今更ですが、籍は入れなくていいのですか?」
「いつでも返品出来るように」
(ああ、そうですか。ああ、そうですか!)
目も合わせず返された言葉に、ふつふつと怒りが涌き起こる。
少しでも関係を改善しようかと思った自分が馬鹿だった。
リヒャルトはカップを手にしたまま、手元の書籍に視線を落としている。
久々に“モノ”扱いされた事が悔しかったので、マリーはとある一言を口にする事を決めた。
たまには彼も、少しくらい動揺すればいい。
マリーはそっぽを向き、つとめて意地悪く言った。
「そうはおっしゃいますけど、あなた私に一目惚れしたんですって?」
がしゃん、と大きな音を立てて、リヒャルトの手からカップが滑り落ちた。