訪問 (2)
「あいつにも小柄で可愛い時代があったんですよー。今と違って銀髪もふわふわでしたし。想像出来ます? 一人称も“僕”でつんつんしちゃって。どうしてあんな事になったんでしょうね!?」
「変われば変わるものですね」
ユリウス・ディートリヒは、彼の妻と同じく非常に多弁だった。
初対面時のリヒャルトがいかにも誠実そうに見えたのと対照的に、彼は軽薄な青年といった印象だ。
よどみなく続けられるお喋りに相槌を打ちながら、マリーは壁際の棚に目をやった。
濃いメープル色の棚には、夫妻の収集物らしい数々のカップが並んでいる。
雑多であっても下品ではないそれに、マリーは口元をほころばせた。
小花模様のカップで供された蜂蜜入りの紅茶を一口含む。甘い。
訪客の充足した様子に、家の主は若葉色の目を細めた。
***
「ソフィアなら、さっき砂糖がどうこう言いながら飛び出して行きましたよ。もう時間が無いから諦めろって言おうとしたんですが、止める暇もありませんでした。まあ、じきに帰ってくるでしょう」
それまで俺とお茶でもどうです?
笑顔で投げかけられた誘いを受け、マリーはソフィアの夫である彼と向い合って座っていた。
ソフィアに不義理かもしれないと一瞬悩んだのだが、一旦帰る程の時間もない。
何より、ユリウスの巧みなお喋りは断るという選択肢を失わせていた。
ちら、とマリーは話し相手を伺った。
みずみずしい緑色の目は、好青年らしく楽しげに笑っている。
もっぱらの話題は、ユリウス曰く“親友”のリヒャルトについてだったが、彼の話はマリーにとってかなり意外なものばかりだった。
先ほど挙げられた、“小柄で可愛い”少年時代の話もしかり。
(彼について知らない事ばかり)
マリーの菫色の双眸が微かに下を向く。
その事実を確認すると、何となく苦しくなるのだ。
既に中身を飲み干したらしく、薄い青色のカップを弄びながらユリウスが問うた。
「どうです、家でのリヒャルトは。甘い台詞の一つも言いますか?」
「いえ、全然」
慌てて顔を上げたマリーは即答する。
むしろ嫌味ばかりです。
さすがにその台詞は飲み込んだものの、マリーの答えは青年に笑声を上げさせた。
「でしょうねえ。妙なところで人の三十倍くらい不器用な奴ですからね」
「まあ、でも」とユリウスは執り成すように続けて言った。
手の中の陶器が、テーブルに置かれて軽い音を立てる。
「ほら、あいつもう十年くらい一人暮らしでしょう。学校の寮も入れてですけど。今までずっと意地張ってた男が、今更素直になるのも難しいんじゃないですかね」
「十年、ですか?」
マリーはやや困惑して青年の言葉を繰り返した。
十年前と言えば、リヒャルトはせいぜい十五歳かそこらのはずだが。
首を傾げた少女をよそに、ユリウスがやれやれと首を振る。
「しかし女性に甘い言葉一つ言えないっていうのは、さすがにどうかと思いますね。ローズマリーさん、何なら今からでも俺にしておきませんか」
既婚者にあるまじき発言に、マリーは紫の目をぱちぱちさせる。
癖の強い金髪の青年はそれこそ猫のような笑いを浮かべて、テーブルに置かれたマリーの手に触れた。
マリーは即座に振り払おうとしたが、絡められた指がそれを許さない。
ユリウスが若葉色の双眸に熱っぽさを込める。
「例え親友が一目惚れした相手であっても……いや、だからこそ惹かれてしまう。悪い癖が出てしまいそうに」
「そうね、だから私がしっかり捕まえておかないとね」
マリーがユリウスの聞き捨てならない一言を拾うよりも早く、氷の温度を伴なう声が二人の間に刺さった。
二人同時に動きを止めた瞬間、青年の背後から伸びてきた腕が彼の首に巻き付く。
先ほどまでの態度はどこへやら、ユリウスは青ざめて悲鳴を上げた。
「締まる締まる! 締まってるってソーニャ!!」
「締めてるのよ」
仲睦まじい光景に見えなくもないが、背後の人物──帰宅したソフィアの両腕は間違いなくユリウスの首を締め上げている。
自然と手の力も緩められ、解放されたマリーは立ち上がって後退りした。
見た目以上に力の篭っているらしい腕から逃れたユリウスが、荒い息で抗議する。
「ソーニャ……。何度も言ったけど、“捕まえておく”と“首を締める”は同義じゃないんだ……」
「ごめんなさい、つい忘れてたわ。……やだっ、ごめんなさいマリーさん! 何か変な事をされませんでした!? ご無事!?」
「え、ええ。何事もありませんでした」
咳き込む夫を冷たい目で見つめた後、マリーの唖然とした表情で我に返ったらしく、ソフィアの顔が一気に紅潮した。
以前と変わらない早口で問われ、マリーは軽く目を逸らして答える。
焦りか羞恥か、ソフィアは顔を紅くしたり青くしたりしながら夫の背中を叩いた。
「ほら、さっさと椅子を代わって! いい子だから部屋に戻る!!」
「え、俺の心配なし?」
酷いとぼやきながら、ユリウスは喉をさすって立ち上がる。
客間を出る際に、彼は悪びれない笑顔を作った。
「リヒャルトに飽きたらいつでも言って下さいねー」
「いいから早く行きなさい!」
夫を追い出したソフィアは、頬を紅潮させたままため息をつく。
夫婦のやり取りをやや呆気にとられて見ていたマリーは、そろそろと椅子の位置まで戻った。
半ば感心混じりに呟く。
「ソフィアさんはユリウスさんとお仲がよろしいのですね……」
「そう見えます?」
皮肉とも取られかねない発言に、しかしソフィアは少女のような笑みを浮かべた。
照れと喜びの混じった表情。
マリーは一瞬、それを心底羨ましく思った。
ともすれば忘れてしまいそうな程の、ほんの短い時間。
再び椅子を引いて座りながら、少女は少しだけ悩んだ。
先ほどまで彼女の夫の姿があった席につき、ソフィアは肩をすくめる。
「いつまでたってもああなんです。きっと私が年上だから甘えてるんですね」
「……年上?」
マリーの頭上に疑問符が浮かぶ。
相手が妙な顔をしている事に気づいたのか、蒼氷色の目をした女性は首を傾げた。
「あら、言ってませんでしたか?」
そのままにこりと笑って一言。
「私はケルナーさんやユリウスより、二つ年上ですよ」
マリーはそこで初めて、目の前の女性が自分と十歳違いである事を知った。