迷子 (3)
喉に指を押し当てたまま顎を持ち上げられ、息が詰まった。
強く締めつけられている訳ではないのに、決して深い呼吸は許されない。
貞操云々よりも、まず本能的な恐怖が勝る。
息苦しさから逃れようと足掻くマリーを、リヒャルトはにこにこと眺めていた。
その笑みが一層、マリーを慄然とさせる。
紫の瞳が生理的な涙を滲ませたのを見計らって、リヒャルトは長い指先を喉元から首筋へと滑らせた。
「っは、あ」
ようやく空気を吸い込む事を許されて、マリーは大きく咳き込む。
乾いた呼吸音が高い天井に響いた。
マリーは荒い息のまま、目の前の男を睨みつける。
「……何を、いきなり」
「行儀の悪い猫には躾が必要かと思って」
リヒャルトは悪びれもせずにそう答え、弄ぶかのようにマリーの首筋をなぞり始めた。
硬い指先の冷たさに、背中がぞくりと泡立つ。
(分からない)
この男の考えている事が、本当に分からない。
マリーは顔を強ばらせたまま、悪寒と共に這い回る指を受ける事しか出来なかった。
頬に添えられた左手は、相変わらず力の緩められる気配がない。
リヒャルトを押し退けようにも、たとえ細身ではあっても男性の体というものは重たく、ましてや両肘を脇についてしまった体勢では抗う事は叶わなかった。
マリーが己の無力と屈辱を呪ったその時、長い指がするりとブラウスの襟元から入り込んだ。
身体を固くした少女を押さえつけるかのように、鎖骨をさぐり当てた指は白い肌に浮いた線を強くなぞる。
しばらく沈黙を続けていたリヒャルトが、再び口を開いた。
「なあ」
「……何ですか」
思いのほか軽く発せられた声に、マリーは若干の期待を込めて相手を見上げた。
そして、失望に気力を奪われる。
琥珀色の双眸は笑っていない。
リヒャルトは先程と同じ、静かな微笑を唇だけに浮かべて続けた。
「クライネと揃いの首輪でもしておくか? どこにも行けないように閉じ込めておくか? それとも」
「っつ」
不意に、食い込んだ爪が鎖骨から喉元へと一気に線を引いた。
その唐突な痛みに、マリーは息を呑む。
悲鳴を堪えさせたのは、矜持かそれとも怯えか。
一瞬だけ白く染まった線が、みるみるうちに赤へと転じていった。
リヒャルトは更に残酷な問いを口にする。
「一度躾すれば分かるか?」
選んでいいよ、と猫なで声で言う彼の目は冷たい。
背中を這う恐怖を必死で殺し、マリーは強い語調で拒否を告げる。
「貴方に踏み躙られる位なら、舌を噛んで死にます」
「残念ながら、そういう選択肢は用意してないんだ。そもそも出来ないだろ? 叔父さんは大事だもんな」
笑顔で脅しめいた事を口にされ、マリーは今度こそ押し黙った。
リヒャルトは、マリーの表情が変化するのをおかしそうに眺めている。
自分より小さいものを虐めて楽しむその表情は、
(……子供じみている)
欲しいから攫い、思い通りにならないから押さえつける。
この男がまれに見せる一面は、何かと幼稚なのだ。
そんなものは、怖くない。
それに気づいた時、マリーは矜持を持ってリヒャルトに視線を向けた。
紫水晶の目に、卑下ではなく憐憫を乗せて。
「可哀想な人」
「……何だって?」
今の今まで自分の下で怯えていた少女が発した言葉に、リヒャルトは少し眉根を寄せた。
文字通り目と鼻の先の彼に、マリーは言い放つ。
「こうやって押さえつけておかなければ小娘一人思い通りに出来ない貴方は、可哀想な人だと申し上げました」
キッと睨まれたリヒャルトが、顔から笑みを消す。
けれど、怖いと思う気持ちは既にどこかへと消え去っていた。
これで叱られようが辱められようが別に構わなかった。
自分は思ったままの事を言っただけなのだから。
しかしリヒャルトは予想に反し、マリーの頬と首から手を離した。
ようやく自由を得たマリーは、体を起こして傷ついた肌をさする。
彼はいつも通り、嫌味を言って立ち去るだろうか。
そう思いながら銀髪の男を見やろうとした時、微かな重みがマリーの肩に乗った。
意外さに、マリーはびくりと体を揺らす。
マリーの肩に額を押し当てたまま、リヒャルトが小さな声で言った。
「……かと思った」
ぼそりと発せられた言葉を聞き取れなかったマリーが黙っていると、リヒャルトはかすれた声で続ける。
「逃げたのかと思った」
「……逃げるわけ、ないでしょう。叔父様の事があるのに」
「そうだな」
視界には白銀色をした髪しか映っていないため、その表情は窺えない。
思いのほか力のない言葉に、マリーはたどたどしく答える。
対するリヒャルトもまた、短く答えるだけだった。
そのまま彼はマリーの背中に、両腕を回す。
マリーが僅かに身を縮めた事には気づかない様子で、くぐもった声のまま疲れたように言った。
「いい子だから、あんまり心配させるな」
「……ごめんなさい」
マリーがおずおずと返した言葉は、酷く月並みなものだった。
その言葉が彼なりの心配の顕れなのか、単に自分を束縛しておきたいだけなのか、分からなかったのだ。
自らの口から出た小さな声は、言いつけを破った事に対する謝罪なのか、それとも心配をかけたことに対してのものなのか。
それすらも、マリーには分からなかった。
その体勢のまましばらくして、リヒャルトは上体を起こした。
酷い頭痛に襲われたかのように、閉じた双眸を片手で覆う。
「行っていいぞ」
戸惑ったままのマリーに、座り直したリヒャルトは静かに言う。
マリーは数秒だけ逡巡したが、やや皺が入ってしまったコートを取り上げてその場をそそくさと立ち去った。
出来る限りの早足で、二十三段の階段を上る。
うっすらと埃の積もった手すりにはクライネが丸まっていた。
主人を見つけた猫は、鳴き声を上げてこちらへ擦り寄ってくる。
しなやかな獣を、マリーは強く抱きしめた。