迷子 (1)
少なくとも図書室で地図を調べた所までは、確かに正解だったのだ。
寒風吹き荒ぶロルべアの街角で、マリーは一人ため息をついた。
***
「……あ」
少し遅い昼食の片付けをしていた昼下がり、ある事を思い出したマリーは小さく声を上げた。
足元では、喉元に赤いリボンを結んでもらってご機嫌なクライネが一心に皿の牛乳を舐めとっている。
拭き終えた皿を棚に積み直して、マリーはその場の椅子に腰掛けた。
「叔父様に返事を出すのを、すっかり忘れていましたね……」
一人ごちて、頬にかかった後れ毛に触れる。
もうとっくに書き終えてはあるのだが、それをレイデンに送る為には当然、郵便局へ行く必要が生じる。
つまり、リヒャルトに頼み事をしなくてはならない。
マリーは僅かに眉宇を寄せる。
彼の事だから、どうせ余計な言葉でちくちくと刺してくるのだろう。
腹立たしい事この上ないし、借りを作るのも癪に障る。
しかし、『外に出るな』と釘を刺されているのもまた事実だった。
(……もし)
なんの気なしに髪を弄っているうち、マリーはある案を思いついた。
(もし、ばれなかったら?)
さっさと出かけ、さっさと戻ってきてはどうだろう。
それは幾らか狡い行為にも思えたが、そもそも家に引きこもっていろというのも理不尽な話だ。
マリーはテーブルに肘をつき、思案を巡らせる。
食事に満足したのか、黒い仔猫が喉元のリボンを揺らして鳴いた。
それから半時間ほどして、マリーは久しぶりに門より外の空気を吸い込んだ。
***
図書室で地図を調べたマリーは、郵便局がここからそう遠くない場所にある事を知った。
この程度の距離なら、一時間もしない内に戻ってこれるだろう。
当然、リヒャルトが気づくはずもない。
その考えが甘かった。
久々の外の空気を楽しめたのもつかの間、住宅街を出て都心に近づくにつれて、マリーは自分の過ちに気づいた。
予想よりも道のりが長い。と言うよりも、予定していた道順を外れている。
どうやら図書室の地図が発行された後に、区画整理がなされたらしい。
現在いる場所からどう見回しても、郵便局は影も形も無い。
マリーは念入りに巻いたマフラーの端をぎゅっと握り、途方に暮れた。
親切なことに、標識は異邦人に分かりにくい書き方になっている。
かと言って、道行く人に尋ねるような勇気も無い。
そもそもレイデンに居た頃から一人で外出する機会が少なかったので、勝手が分からないのだ。
その上、今いる場所は見知った建物が整然と並ぶ故郷ではなく、ほとんど歩いた事すらないロルべアの町である。
「……まさか十八歳で迷子になるなんて」
銀髪の同居人はおろか、こんな事叔父にも知られたくない。
紫の目をした迷子は、クローネに来て幾度目か分からない嘆息を漏らす。
ようやく郵便徽章を見つけた時には、太陽はいつのまにか角度を変えていた。
局員のクローネ訛りが多分に混ざった言葉を聞き返しては答える事を続け、マリーはようやく手続きを終えた。郵便局員の態度の悪さに憤慨しながら外に出る。
そこからしばらく歩いたところで、マリーはうっすらと青ざめた。
どう見ても、来る時とまるで景色が違うのだ。
当然と言えば当然だった。
ここまで来るだけで精一杯だったのに、帰り道など憶えているはずもない。
再び泣きたい気分になり、マリーは唇を強く噛んだ。
***
住宅街の小道へとたどり着いたのは、空が薄紅と淡紫に変わり始めた頃だった。
葉を落とした針葉樹が連なる道を、急ぎ足で歩く。
数時間前に出た黒い門が視界に入った時、マリーはほっと胸を撫で下ろした。
予定より随分遅くなりはしたが、この時間ならまだリヒャルトは戻っていない。
安堵感のためか、疲れがどっと押し寄せた。
ふらつきそうになりつつ、大きな扉の鍵を開く。
いつもより随分と重く感じる足を引きずりながら居間の前に差し掛かると、扉から出てきたクライネがブーツに擦り寄ってきた。
腰を屈めてそれを撫でてやった時、聞き覚えのある声が扉の隙間から届いた。
「おかえり」
その言葉が孕む氷のような冷たさに、マリーは動きを止めた。
下手な操り人形のように緩慢な動作で、恐る恐る部屋を覗く。
長椅子に足を組んで座ったリヒャルトが、静かにこちらを睨んでいた。