Kleine
遊戯室の前を彷徨く。その動作を、マリーはかれこれ十分近く繰り返していた。
“怖い場所”として体が記憶しているせいか、手首についた枷のような痕はすっかり消えたにも関わらず、しばらくマリーはこの部屋に近づくことを躊躇していた。
それでも何となく惹きつけられてしまうのは、あのピアノが持つ不思議な魔力のようなものだろうか。
(二三曲、二三曲だけ弾いたら戻って寝ましょう)
遊戯室の前で自分にそう言い聞かせ、嫌な記憶を押し殺す。
マリーは樫材の扉をそっと開いた。
***
夜の遊戯室は、すぐに甘い音色で満たされた。指先の動きに合わせ、マリーの長い栗色の髪が揺れる。
この日、マリーが奏でているのは小夜曲だった。
かつて南のリベルタには、男性が恋人の部屋の窓の下で小夜曲を演奏する風習があったと聞く。
その情熱的なやり取りも、クローネの勢力下に置かれてからはすっかり廃れてしまったそうだが。
人も文化も、強引に奪っていくやり方がマリーは気に入らなかった。
(リヒャルトの事も、嫌い)
厭味ったらしい。強引。愛想が無い。猫かぶり。総じて性格が悪い。
つい指先に力が入り、小夜曲は妙に力強さを帯びたものになった。
(……けれど)
ふと、マリーは鍵盤を滑る手を止めた。
音を止めたピアノに代わり、規則正しく動き続ける時計の針が部屋の空気を支配し始める。
(あの目だけは、何故だか嫌いになれない)
飴色の宝石によく似たあの目は、昨夜酷く弱々しい光を伴っていた。
いつも彼の意地の悪い目つきはマリーの反抗心や苛立ちを煽るのだが、怖いと思う事はあっても、どうも嫌う気にはなれないのだ。
それについて考えようとした矢先、背後で物音がした。
予想外の音に、びくりと体を揺らすマリー。
上半身だけでそちらを向くと、右手に籐籠を下げたリヒャルトだった。
「相変わらずお上手で」
「お世辞なら結構です」
記憶と共に蘇った微かな怯えを隠すため、マリーは冷たい答えを返す。
しかしその程度では何の打撃にもならないらしく、リヒャルトはごく当然のようにピアノの傍まで歩み寄ってきた。
籐籠を足元に置き、近くの椅子を引いて座る。
「まあ、そう言うなよ。もう一曲位弾いてくれ。円舞曲なんかどうだ?」
「……あなたも一々嫌味な人ですね。私があえて弾きたがる理由がどこにあるんです?」
「お嬢さんも人聞きが悪い。俺はただ提案しただけだろ?」
「そうですね。あなたは“言ってみただけ”です」
マリーは事務的に答え、ピアノの蓋を閉じた。
リヒャルトがこの場にいるのなら、これ以上長居する理由も別に無い。
(後は部屋で詩集でも読みましょうか)
マリーはそう考えて立ち上がろうとしたが、リヒャルトの左手がそれを阻んだ。
「まだ何か御用ですか?」
「お前にやる」
露骨に嫌な顔をするマリーに、リヒャルトは床に置いた籠を足で押しやった。
憮然とした表情のままそれを取り上げると、籐籠が小さく揺れる。
マリーがその事を不審に思いながら蓋を開くと、
みゃあん。
小さな体に見合わない大きな鳴き声を上げて、真っ黒な毛むくじゃらの生き物が顔を出した。
「……何ですか、これは?」
「見れば分かるだろ、猫だ。レイデンにはいないのか?」
「そういう事を聞いたんじゃありません。どうして猫が入っているのかという意味です」
「もらった」
「誰にです?」
「忘れた」
「嘘をおっしゃい、嘘を!」
子供じみた言葉に、マリーは思わず声を荒げた。
話題になっている仔猫は、構わず籠から飛び出してピアノの蓋を闊歩し始める。
それを横目で見やり、リヒャルトが再び口を開いた。
その目は冷たく、猫に向けられている。
「お前がいらないなら、処分しようか?」
「処分!?」
信じられない言葉にマリーは目を見開いた。
酷く冷たい視線に、言葉など分からない仔猫が怯えたように鳴く。
「何も殺す事はないでしょう!」
「じゃあ捨てるのか?」
「別の方法があるでしょうと言っているんです」
「一人ぼっちなら、いっそ死んだ方がマシかもしれないのにか?」
その残酷な言葉はマリーを黙らせた。
両親を亡くしたばかりの頃、自分自身でそう思う事が少なからずあったからだ。
彼女の場合は、叔父の慰めと庇護で何とか暗い思考の牢から抜け出したのだが。
マリーはぎゅっと唇を噛む。
彼女の内心を知ってか知らずか、リヒャルトは何の遠慮もなく仔猫の首根っこを摘み上げた。
「じゃあ猫には悪いが……」
「ま、待ちなさい! 貰います! 貰いますったら!」
マリーはほとんど悲鳴混じりに言って、怯える子猫をひったくった。
哀れな黒猫は、マリーの腕の中で小さく鳴き声を上げる。
リヒャルトは無感動な目でそれを見、立ち上がった。
「素直にそう言えばいいんだ」
そのまま出て行こうとする彼に、マリーは声をかける。
「この子の名前は何というんです?」
「黒猫だからシュヴァルツェでいいだろ」
「何の捻りも無い素敵な名前ですね」
「じゃあ何だ、ボニファティウスとでも言えば満足か」
リヒャルトが面倒そうに言った台詞に、マリーは率直な感想を口にした。
文句を言われたのが気に入らないのか、リヒャルトがムッとした表情で振り向く。
「黄色の目ですから、ツィトローネなんてどうでしょう」
「お前の感性も似たり寄ったりだな」
マリーの提案を鼻で笑うリヒャルト。
そんな事をされれば、当然マリーの反抗心にも火がつく。
ああでもないこうでもないの口論は、時計の長針と短針が重なるまで続いた。
***
結局、クライネという名前で落ち着いた仔猫を撫でながら、マリーは不機嫌なまま寝台に座っていた。
クライネは機嫌良さそうに喉を鳴らしている。
(全く、無駄な労力を使いました)
膨れながら、漆黒の和毛をくすぐる。
時計に目をやると、日付はすでに変わっている。
マリーはため息しながら灯りを消し、寝台の上掛けをめくった。
クライネは我先にと、その中に潜り込む。
マリーは一瞬毛がつくかもしれないと逡巡したが、一緒に寝かせてやる事にした。
仔猫の柔らかな温もりは、緩やかな眠りの波が招き寄せた。