気まぐれ
「おはよう」
翌朝、マリーは既に出支度を済ませたリヒャルトと一階の廊下で鉢合わせした。
仄かに差し込んだ日光は、いつもよりやや遅い時間を示す時計を照らしている。
素通りしようとしたところで、聞こえるはずのない挨拶を耳にしたマリーは思わず足を止めた。
すぐ左のリヒャルトに、怪訝な顔を向ける。
「……槍でも降らせる気ですか?」
「どういう意味だ」
「額面通りに受け取って下さって結構です。……おはようございます」
「最初から素直にそう答えろよ」
昨日あんな様子だったくせに、しっかり自分よりも早起きしている。
嫌いな相手ながら、その事に対し微かな感心を覚えた。
それに気づかれるのも癪なので、出来るだけ感情を込めずに答えておく。
対するリヒャルトが返してきたのは、いつも通りの高圧的な言葉だった。
朝の瑞々しい空気の中、睨み合いの火花が散る。
先にそれを放棄したのはマリーだった。
視線を逸らし、疲れ気味に口を開く。
「それだけですか? だったらもう行きますが。あなたも遅刻するでしょう」
「ああ、後もう一つ」
「何です……きゃっ!?」
今度こそ行こうとした矢先、リヒャルトが何か思い出したようにマリーを呼び止めた。
若干の苛立ちを覚えながら振り向くと同時に視界を薄色の何かで覆われ、甲高い悲鳴を上げる。
自身の頭まで被さっているそれを慌てて脱ぐと、昨晩居間に置いて行った膝掛けだった。
リヒャルトは長い指でそれを指し、短い礼の言葉を口にした。
「ありがとな」
「……別に。私が放っておいたせいで体調を崩されては、後々寝覚めが悪いからです」
勘違いしないで下さい。
マリーはそれだけ言ってそっぽを向いた。
彼にナイフを向けなかったのは、父に貰った大事な品だから錆び付かせたくなかったから。
ただそれだけの話だ。
決して、あの目に絆された訳ではない。
口をつぐんだままそんな事を考えていると、リヒャルトはこちらを見下すようにして笑った。
「ついでに言わせてもらうが、上着の畳み方が間違ってる」
「……何の事だか分かりませんね。妖精か何かの仕業じゃないですか?」
「紫の目のな」
何を、とそちらを見た時、リヒャルトは既にこちらに背を向けていた。
マリーは一瞬だけ眉宇を寄せ、食堂へと歩き出す。
しばらくあって、玄関の重い扉が開く音がした。
「行ってきます」は聞こえなかった。