殺意
(ああ、やっぱり)
真夜中に近い頃、開きっぱなしになった居間の扉から光が漏れ出しているのを目にしたマリーはため息をついた。ちゃんと灯りを消したかどうか気になっていたのだ。
さっさと片付けて眠ろうと考え室内に足を踏み入れた時、マリーは驚きに目を丸くした。
粗雑に上着が放り出された長椅子で、リヒャルトが体を丸めて眠っている。
何事かと近寄ろうとしたところで動きを止め、鼻口を押さえた。
「……う」
微かに酒の臭いがする。
別段強い臭いではないのだが、酒の類を苦手としているマリーには十分気になった。
なるほど、こんな所で眠っていたのは深酒したせいか。
上着を脱ぐ程度の理性は残っていたようだが、この気温ではむしろ仇になっていた。
放って置いたら、間違いなく風邪を引く。
正直、リヒャルトが体調を崩そうがマリーにとってはどうでもいいのだが、このまま放っておくというのは何となく気が進まない。
(……まあ、このまま放置したら私の責任になりますから)
義務です義務。
自分に言い聞かせ、やや乱暴に彼の体を揺さぶる。
「ちょっと、起きなさい酔っぱらい」
「酔ってねえよ……」
「酔っている人は皆そう言うんです。ほら、上着に皺が寄りますよ」
「ん……」
しかしリヒャルトは鬱陶しそうに顔をしかめるだけで、一向に起きる気配がない。
(頬をひっぱたいたら目も覚めるでしょうか)
一瞬そう思いもしたが、そこまでしてやる義理もない。
これで一応、義務は果たした訳だ。
後は眠ろうが風邪を引こうが、彼の好きにすればいい。
心のなかで結論を出し立ち去ろうと背を向けたその時、背中が何かに引っ張られた。
振り向いて原因を確かめると、リヒャルトがマリーの上着の裾を掴んでいる。
毛糸編みの伸びやすいものなので、仕方なく足を止めた。
「……放してもらえますか」
「どこ行くんだ」
「別に、どこにも行きませんよ。部屋に戻るだけです」
あなたが失せろと仰るなら、どこへなりと消えますが。
棘を含んだ言葉を返されたリヒャルトは、マリーをじっと見つめた。
酒精のためか、その瞳は心なし潤んで見える。
「どこにも行くなよ」
低くかすれた声でそれだけ言って、リヒャルトは再び目を閉じた。
自分を捕まえていた手から力が抜けたのを確かめ、マリーはそれを振り払う。
この様子だと、しばらくは何をしても目を覚まさないだろう。
例えば、自室のペーパーナイフを彼に向けても。
振り返ると、無防備に眠るリヒャルトの姿。
マリーはしばらく思案し、居間を後にした。
***
その晩遅く、日付も変わった後にリヒャルトは目を覚ました。
真っ暗な上、寝ていたのは自室の寝台ではなく居間の長椅子である。
横向きに丸まった体を伸ばし、寝返りをうった。
とりあえず腹筋を使って起き上がったはいいものの、状況が飲み込めない。
激しい頭痛と戦いながら天井を睨み、ようやく概要を思い出す。
横になってからの記憶は皆無なので、恐らく三時間はここで眠っていたのだろう。
さっさと風呂を済ませれば、もう数時間は寝られる。
未だ酒精の抜けきらないため息を吐き出し、仕方なく立ち上がった。
その時、足元で何か軽い物が落ちる音がした。
瞼が下りそうなのを抑え、見えにくい足元に目をこらす。
若干手順は違うが丁寧に畳まれた上着と、いかにも女性が好みそうな薄い色をした膝掛けだった。