懐郷病
翌朝、マリーは久しぶりに寝坊をした。太陽は既に随分と高い位置にある。
どうせまた嫌味ったらしい書き置きでも残してあるのだろうと、半ばうんざりした気持ちで階段を下りた。
案の定、食堂のテーブルには手紙らしき物が置かれている。
しかし前回とは違い、ちゃんとした封筒だった。それも、ご丁寧に封蝋まで施してある。
不思議に思い手に取ると、赤色の蝋には装飾された『M』の字が浮き出ていた。
慌てて封筒の裏面を確かめる。
差出人は、アンソニー・ミュートスだった。
***
急ぎ自室に上がったマリーは、鞄からペーパーナイフを取り出した。
柄に鈴蘭が彫り込まれたそれは、数年前に父から譲り受けたものだ。
それなりに高名な職人が製作したらしく、白い陶器の柄がまぶしい。
封筒を開く目的にしてはやけに鋭い刃が付いていて、マリーは以前これで指を切った事がある。
そんな記憶に想いを馳せながら、封入された便箋を取り出す。
数枚の便箋に綴られた文章は、心配性の叔父らしさに溢れていた。
退屈していませんか。そちらの空気はどうですか。
クローネの冬は寒いと聞きますが、体調を崩したりしていませんか。
(相変わらず、自分より人の心配ですか)
まだレイデンを出て一月も経っていないというのに、マリーは懐かしさで目を細めた。
拘束を免れたとはいえ風当たりは決して弱くないはずなのに、書いてあるのはマリーへの気遣いばかり。
どこかの銀髪のそれとは違って優しい叔父の文章は懐郷の念を呼び起こすが、一緒に涙まで誘いかねないそれを急いで振り払う。
雪結晶が描かれた便箋からは、微かに故郷の香りがした。
手紙にはその他にも、クローネの新聞では中々手に入らないレイデンの近況などが認められていた。
(……)
「ケルナー中尉とは、上手くやっていますか?」
それまでうきうきと手紙を読み進めていたマリーは、その一文に眉を顰めた。
まさか本気でマリーとリヒャルトが『上手くやっている』と思っている訳ではないだろう。
人一倍感性が鋭いからこそ画家になった彼は、マリーがその事について触れられたくないのも察しているはずだ。
しかしアンソニーが、内心ではそれを望んでいる事は容易に想像出来た。
叔父が決して保身のためでなく、マリー自身のためにそう願っていることも理解出来る。
けれど。
「あの人は好きになれません」
嫌いです。
マリーは遠いレイデンに聞こえるはずのない言葉を小さく呟いた。
窓の外では、故郷を発った日と同じように雪がちらついていた。