悪趣味
帰りを待っていたなどと誤解されないよう、あくまで偶然を装って廊下に出なくてはならない。
玄関で待つなんてもっての外だ。
そう自分に言い聞かせ、部屋でじっと耳を澄ますこと数十分。
階下から物音が聞こえたのを合図に、マリーはそっと自室の扉を開いた。
冬も年末のこの時期なので、石造りの廊下はいよいよ底冷えがする。
湯冷めを警戒し、厚手の上着を羽織って部屋を出た。
マリーともう一人分の足音が聞こえる廊下を照らす月はか細く、弱々しい光のみを放っている。
帰宅したリヒャルトと対顔したのは、彼の部屋の前だった。
私服に着替える前なので当然、纏っているのはマリーの嫌いな黒い軍服である。
それが視界に入った一瞬、軽く嫌気を起こした。
しかし言うべきことは言わなくてはならないし、聞きたいこともある。
意を決し、マリーはすれ違い様に声をかけた。
「おかえりなさい」
「……どういう風の吹き回しだ」
(何なら尻尾でも振って差し上げましょうか?)
分かりやすく訝しがっている相手に、嫌味の一つでも言ってやりたくなる。
それをぐっと堪えて、単刀直入に切り出した。
「今日の事、ありがとうございました」
「どの事だ」
「ソフィアさんを呼んでくれたのは、あなただとお聞きしました」
リヒャルトは視線を少し右上に上げて、ああ、と頷いた。
「あのままじゃ孤独死しそうな雰囲気だったからな」
一言も二言も多い。
ここで苛立ちを露にするのは簡単だが、マリーには聞きたいことがあった。
「話はそれだけか?」
「いえ、もう一つだけ」
「さっさと言え。俺は眠い」
「どうして私を?」
いつか抱いたものと似た疑問を口に出す。
あの時の答えは酷く甘美な台詞だったが、今更あれを信じられる訳もない。
「どうして私だったんですか?」
リヒャルトは一瞬考えるような素振りをし、何事か呟いた。
「……から」
「はい?」
それを聞き取れなかったマリーは首を傾げる。
するとリヒャルトは、犬科の獣めいた目でマリーを見下した。
「いちいちそんな事を説明する義務が俺にあるのか?」
愛想の欠片もない返事に、マリーは言葉を失う。
リヒャルトはそれだけ言って通り過ぎようとしたが、「ああ、それとも」と自ら振り返った。
薄い唇は、見覚えのある嘲笑の形を作っている。
「お前が一番綺麗だったとでも言って欲しいのか?お嬢さんは案外、自惚れ屋らしいな」
「……本当、嫌な人ですね。あなたは」
そういう所も嫌いです、と精一杯の当てこすりを投げつける。
その程度では応えもしないらしい男は、こちらを鼻で笑って自室へ姿を消した。
扉の閉じられる音とほぼ同時に、マリーは踵を冷たい床に打ちつけた。
どこまでも人を馬鹿にしたあの態度。
彼の言い草はもちろんの事、一瞬でも何かを期待した自分にも腹が立つ。
──「ケルナー中尉は、とてもマリーさんが愛しいのでしょうね」
やはり、ソフィアは誤解をしているに違いない。
(あれが私を愛している、なんて有り得るものですか)
マリーは頭を振り、寝室へ踵を返した。
彼は適当に自分を弄んで面白がっているだけだ。何が楽しいのか、マリーには理解出来ないが。
その夜は得体の知れない苛々が邪魔をして、なかなか寝つけなかった。