来客 (2)
翌日、マリーは客をもてなす準備のため早起きを強いられた。
ディートリヒ夫人がやってくるのは午後三時。それまでにしなくてはいけない事は山積みだった。
朝食は簡単に済ませ、さっさと仕事に取り掛かる。
邪魔になる長髪は紐で束ね、マリーはまず手のかかるケーキ類に手をつけ始めた。
家を出る前のリヒャルトは、特にこちらに関心を向けるでもなく珈琲を啜っている。
マリーとしても別に気にして欲しい訳ではない為、手元の包丁にのみ注意を払う。
一つ目の焼き菓子をオーブンに入れた頃に、リヒャルトは無言のまま部屋を出て行った。
廊下に無機質な靴音が響き、やがて玄関の扉が軋む音が聞こえた。
「いってきます」「いってらっしゃい」の二言がない生活。
それがこんなにも重苦しいものだったとは。
中々慣れない空気に、マリーは深く嘆息した。
***
午後二時も半を過ぎた頃になると、テーブルの上は随分と華やかな様子を呈していた。
ホイップクリームを添えたイチゴ、クッキーが二種類、小さめに焼いたフルーツケーキ、そしてマリーが今日最も時間をかけたリンツァートルテが空色の皿に盛られている。
月桂樹の描かれたティーセットは磨いてあるし、若草色のテーブルクロスには染み一つない。
そつなく整えられたテーブルにマリーは満足していた。
後はテーブルを彩る花瓶に花を活ければ、間違いなく完璧だ。
(……花?)
マリーは一瞬考え、そして青くなった。
この家のどこに花がある?
庭は主人から関心を向けられなくなって久しいし、そもそも屋敷内の花瓶は残らず埃をかぶっていたので、マリーが今朝慌てて掃除したところだった。当然花など飾られているはずもない。
時計に目を走らせると、約束の三時まで後数分しか残っていなかった。
つまり、花屋に走ることも出来ない。
もし時間があったところで、土地勘の無いマリーが目的地までたどり着けるかどうかは怪しいところだが。
マリーが苛々とテーブルをこづいた時、玄関の呼び鈴が彼女に声をかけた。
慌てて髪を束ねていた紐をほどき、洗面台の鏡をのぞきこんで髪を簡単に整える。
仕方ない、花は諦めよう。
最後の最後で明らかになった手落ちに軽い頭痛を覚えつつ、マリーは玄関へと急いだ。
***
「いらっしゃいま……」
「初めましてケルナー夫人! あなたのお話を耳にしてから、ぜひお目にかかりたいと思っていましたの。お会いできて嬉しいわ!!」
重い扉を開いた瞬間、相手の顔を確かめるより早く、空色の手袋をはめた手がマリーの手を握った。
思わず悲鳴を上げそうになりながら相手を伺うと、よく映える薄い青のドレスを纏った背の高い女性が、にこにことマリーの両手を上下に振っている。
「あ、あの」
「ああっ、ごめんなさい。申し遅れました。私ユリウス・ディートリヒの妻、ソフィア・ディートリヒと申しますの。本日はお招きありがとうございます」
「いえ、わざわざご足労ありがとうございます、ディートリヒ夫人。それより」
「やだ、そんな他人行儀な呼び方なさらないで。私のことはソフィアと呼んでくださいな。本当は愛称のソーニャと呼んでいただきたいのですけど、主人がそれは自分だけの特権だと言ってきかないもので……あらやだ、私ったらまた喋り過ぎてしまったわ」
「ええ、それは結構なのですけれど、よろしければそろそろ手を……」
引きつった笑顔を見せながら、マリーはやんわりと下に注意を促した。
握られすぎたせいか、両手は鈍い痛みを主張し始めていた。
それに気づいたソフィアは「ごめんなさい!」と声を上げて手を離す。
「すいません、私いつも喋り過ぎてしまうんです。ご不快にさせてしまったかしら」
「いいえ、とんでもありません。お気になさらないで下さい。どうぞ中へ」
「……お邪魔します」
気にするなとは言ったものの、やはり初対面の印象が強烈過ぎて一歩引いてしまう。
そういった反応に慣れているのか、ソフィアは少し肩を落としていた。
困りながらも彼女を招き入れる時、マリーは何となく既視感を覚えた。
(リヒャルトの同僚の奥様……蒼色のドレス……)
「ひょっとして以前夜会でお会いしましたか?」
「ええ、お会いしましたわ。その節はきちんとご挨拶も出来なくってごめんなさい。
まさかケルナー中尉の奥様だとは思わなくって。ケルナーさんも人が悪いわ、ご結婚なさったのなら教えて下さればいいのに」
客間への廊下を歩く際にマリーが振り返りながら尋ねると、ソフィアは再びにこにこ顔を取り戻して答えた。
「……いえ、こちらこそ。ディートリヒご夫妻だとは知らなかったものですから」
まさか結婚していないとは言い出せず、後ろめたさでマリーは目をそらす。
それに相反するかのように、頭一つ分近く背の高いソフィアは目を輝かせながらマリーの顔をのぞき込んだ。
「それよりケルナー夫人、よろしければ貴女の事をお名前で呼んでもよろしいかしら」
「え?……ええ、もちろん。ローズマリー・ケルナーです。マリーと呼んでください、ソフィアさん」
(ローズマリー・ケルナー? ……馬鹿馬鹿しい)
鳥肌の立ちそうな名前を口にしながら、マリーは客間の扉を開いた。