来客 (1)
あれから一週間ほどが経過した朝、マリーが一階に降りて行くと、既に起きていたらしいリヒャルトは黙々と朝食の林檎を口に運んでいた。
マリーは無言のままテーブルを通り過ぎ、湯を沸かし始める。
お互い、「おはよう」という朝の挨拶すらしない。
それどころか、二人はこの数日間、ほとんど目を合わせようとすらしていなかった。
会話の少ない生活には慣れていたが、こうなってくると話は別である。
(……それでも)
ふつふつと湯気を吐き出し始めた薬缶を取り上げ、ポットに注ぐ。
レイデン北部を産地とする茶葉は、まもなくマリーの故郷の香りを運んできた。
白磁のカップに紅茶を注ぎ、棚から皿を取り出す。
(それでも、リヒャルトの目を見るのは怖い)
カップと皿を手に、リヒャルトの斜め前に座る。
彼が愛飲しているのはもっぱら珈琲で、そういう所でもマリーとは相容れないようだった。
テーブルに置いてあったライ麦パンを引き寄せ、二切れ切り取る。
ちぎって口に運ぼうとした時、リヒャルトが「マリー」と口を開いた。
無視する訳にもいかず、おずおずとそちらを見る。
琥珀色の目は、マリーでなく彼の手元の新聞に向けられていた。
「……何でしょう」
「同僚のディートリヒの細君が、最近友人が田舎に引っ込んでしまって退屈してるそうだ。
お前相手してやれ」
「はい?」
唐突にも程がある言葉に、マリーは思わず耳を疑った。
リヒャルトは、既に伝えるべきことは伝えたとばかりに次の珈琲を注ごうとしている。
「いつの話ですか?」
「明日」
(また勝手な事を……)
マリーは今度は何も言い返さず、こめかみを抑えた。
呆れて言葉も出ない。
すると、リヒャルトは手元のカップに注意を向けながらこんなことを言った。
「まあ、お嬢さんに無理そうなら別にいいんだけどな。今日断ってくる」
さしたる感情の篭もっていない、何気ない一言。
しかしマリーは眉間に皺を寄せた。
そのままカップと皿を脇に寄せ、オーク材のテーブルを叩く。
突然響いた鈍い音に、リヒャルトが意外そうに目を見開いた。
「それくらいのことが、私に、出来ないと、そう思っているのですか?」
斜め向かいの彼に冷たい視線を向け、一言一言区切るように言った。
「明日? いいですとも、ディートリヒ夫人を呼んで下さい。私も退屈していたところですから」
微かな棘を混ぜた言葉を言い終えると、マリーは白磁のカップを手に取り朝食に戻った。
リヒャルトは呆気にとられたように数度瞬きして、「はいはい」と答える。
そうしてケルナー家の朝食は静かに過ぎていった。