第八話
「最初に確認する」
視界の端で艶やかな髪が滝の如くこぼれ落ちてくる。天幕のように緋燿を覆い隠し、腕を抑えている力から逃れる術もない。唖然としたまま見つめていると、白叡が薄い唇を開いた。
「今のお前に変化前の記憶はない。それであっているな」
直に確認されたのは初めてだったが、その通りなので無言のまま頷く。白叡はそれに対して「やはりか」と小さく溢した。表情が無に戻る。
「どう言う意味?」
緋燿が思わず問いかける。
「知らなくていい」
「?」
「私が緋燿と契約した理由など、知らなくていいんだ」
「どうして? だって俺、全然役に立ってない。面倒かけてるだけ。ご主人は俺に何をさせたくて隷獣にしたんだよ?」
「……理由など私が知っていればいい。緋燿には関係ないのだから」
白叡の一層素っ気ない返答が返ってくる。
答える気のない白叡にこれ以上どう聞けばいいのか緋燿には分からない。関係ない、と言う言葉だけが胸に突き刺さり、痛みを訴える。
掴まれた腕から力が抜けた。拘束していた手が、緋燿の頬に触れる。
「しかし、これだけは知っていて欲しい。聖道師として契約はした。しかし私は緋燿を隷獣として、命令で縛りつけたいわけではないんだ」
優しい、表皮をなぞるだけの撫で方。掛けられた言葉は隷獣という緋燿の立場を否定する内容のはずなのに、そこに拒絶の色はない。むしろ、ぞくりと背筋にむず痒い感覚が走るような、切ない祈るような響きを秘めているかのようだった。
結局望む返答は得られなかったものの、何故か先ほどまでの焦りや怒りといったものが霧散してしまう。覆いかぶさっていた白叡がそっと身を引いていく。緋燿も止めていた息を吐き出してから上半身を起こした。
「でも、ご主人」
「白叡」
「……隷獣として縛り付けたくないって言っても、俺はやっぱり隷獣なんだよ。白叡、が優しくしてくれるのは素直に嬉しいけど、度が過ぎると俺の心がざわざわするんだ。自分の首を締めてるみたいな息苦しさとかもするの。多分本能ってやつだと思う。本当は俺が白叡に対して何かしたい。命令がなくてもやっぱり俺は白叡に従う存在なんだよ」
隷獣の「従う」本能は自分で抑えることが難しいほど強い。されるがまま、頼りきりの姿勢は緋燿の精神的負担が馬鹿にならないのだ。と言っても明確に表現するのも難しい。緋燿の知る言葉で例えるなら、空は青いという他人の「あたりまえ」を己が言うと否定されるような、世界と自分が噛み合わない理不尽な心地。
白叡も緋燿の言う「本能」に少し眉根を寄せた。人間の想像を超えるものだったのかもしれない。
「そんなに辛いのか?」
「うん。強いし、きつい」
熱を込めてきっぱりと緋燿は言い切った。そしてその甲斐あってか、白叡は自分を納得させるように二度三度と頷くと、散らかったままの衣をちらりと見やった。
「……では、衣を畳んでくれるか?」
命令をしたくない、という白叡の譲歩。優しく甘い、願い事。
それでも我が主人の意に従えるということに、緋燿の表情は思わず綻んだ。
「勿論!」
*****
緋燿が不器用ながらも全ての衣を畳んでまとめた後は、凳に腰掛けてゆっくりしていた。
途中で村長が差し入れてくれた茶と饅頭(*小麦粉を主な材料とした蒸しパンのようなもの)を摘みながら、今まで見てきた景色や場所を振り返っていく。主に緋燿が話し手で白叡が聞き手だったものの、不思議と途切れることはなかった。
また、この会話中も変わらず白叡が緋燿に与えてくれる知識や心遣いが多いと感じたものの、白叡が「命令」または「願い事」をしてくれることを確信できたおかげか焦りが生まれてくることもなかった。
そして数日前の鬼妖退治の話まで遡り、疑問に思っていたことを聞き出せる機会になると緋燿は白叡に尋ねた。
「白迅義も名前なのかって?」
「そう。白叡に白迅義に雪陵散人。名前がいっぱいあってちょっと混乱したんだ」
「普通名前は一つだからな」
「嘉甘が言っていたけど、聖道師だけ複数あるんだっけ? どうやって使い分けてるの?」
「それを考える場合は互いの関係性や立場を一緒に考えなくてはいけないな」
そう言って白叡は辺りに落ちていた小石を拾い、何かを描くように配置して行った。
白叡曰く、聖道師の名前は体・血筋を表す「姓」と魂を司る「名」を合わせた「真名」、真名を隠すための「仮名」、他人が称賛する際につけた「号名」の三つだそうだ。
誰でも持っているのが真名。生まれた際、一番最初に名付けられるため一番魂と肉体との結びつきが強いらしい。だからこそ昔の聖道師は手柄の取り合いなどで相手を害する際に、真名を使って術を掛け合う、現在では邪法と言われるような方法での争いが絶えなかったそうだ。
その邪法を封じるために考案されたのが仮名である。仮名を名乗ることで己の心身を守ることができたのだ。その方法は瞬く間に広がっていき、聖道師は仮名を持つことが当たり前となった。
しかし時は流れ、「魂を守る」術の開発により現在の聖道師が真名を使った邪法を使うことはなくなった。労力と効果が釣り合わないそうだ。そのため現在仮名は形骸化し、礼儀作法として仮名を呼び合うことが基本となった。
「仮名を呼ぶのは、貴方の魂を害しませんという一種の意思表示になるんだ。だから親しくもないのに真名を呼ぶと嫌がられるし、失礼に当たる」
「姓は真名でも仮名でも名乗って大丈夫だったの?」
「姓は血筋だ。他者と繋がっていて隠せるものでもない。だから当時は最悪、魂を司っていた「名」さえ守れれば良いという考えだったんだろう」
号名も名前ではあるが、自分から名乗ることはない。他人がその人を評して付ける名前らしい。その人の特徴や得意な術、起こした偉業、出身地など関連づけられるものから名付けられることが多く、号名があること自体が一種の格や地位を表しているそうだ。そのため立場が上の人や敬う相手に対しては号名で呼ぶのだという。
「つまり白叡は白叡が真名、迅義が仮名、雪陵散人が号名。普通は仮名、号名で呼ぶ……俺は白叡のこと真名で呼んでるけど、いいの?」
「構わない」
最初から真名を呼ぶ許しを得ていた。緋燿という存在が少しは信頼されていることが形になっているのは気恥ずかしいものの嬉しかった。緩む頬を気取られないよう再び饅頭に手を伸ばす。ここまでに立ち寄った際に食べた饅頭より固く歪だが、よく噛んでいると小麦の甘みが感じられた。
「あと聞きたかったのは、最後に白叡が劉俊冉に言ってたことなんだけど、隷獣に名前を付けないのっておかしいことなの? どうして付けないんだって聞いていたよね?」
あの質問だけが、劉俊冉に対する白叡の唯一の能動的態度であった。名付けは白叡にとって、何か大切な意味があるのではないのか。緋燿はそう感じ取っていた。
「俺には名前つけてくれてるし」
緋燿という音を口内で転がす。文字は分からないものの、記憶の中で初めて与えられた響きは糖蜜のように甘く、身体に馴染んでいる。
白叡は茶杯に口を付けた後、ぽつりと答えた。
「名前、特に真名は大切なんだ。産まれてすぐの不安定な肉体と魂を結びつける、最初の術と言っても過言じゃない。聖道師は言わば隷獣の産みの親。……名付けられるすべがあるのなら、するべきだと私は思う」
名付け親。
確かに隷獣は聖道師の気を注がれて変化することで生まれると聞いた。なれば白叡のいう通り聖道師は主人でもあり、親でもあったのだ。意識していなかったが「親」という言葉で白叡が劉俊冉に尋ねた理由や、緋燿に命令はしたくないという考えに、ぼんやりと答えが見えてくる。
(白叡は俺に「ご主人」ではなく「親」として、今まで接しようとしてきてくれたのかな)
緋燿を命令を聞く奴隷ではなく、情を与える子供のように思っていたのかもしれない。だから戸惑わせてしまったのか。確かに子供から「命令」を強請られるなんて、仮に緋燿が親だったとしても面食らっただろう。
緋燿を隷獣にした理由はまだ教えてもらえないものの、また一つ心が軽くなったようだった。
溜まっていた淀みを洗い流すように緋燿も茶杯に口をつける。舌にいつまでも残るような渋味があったが、饅頭にはっきりとした味付けがない分、今は気にならなかった。
沈殿物をが溜まっていたのでくるくる茶杯を揺らしていると、突如外から足音がした。
緋燿は誰か来たのかと戸へ視線を向ける。それと同時に視界が狭くなった。慌ててそれを抑えると、どうやら白叡が無事な衣を素早く緋燿の頭へ被せたようだった。
緋燿は一拍遅れて角を隠すためだと理解し、額が完全に見えなくなるようにぐいと引き下ろす。それと同時に戸が激しい音を立てて開けられた。
「母ちゃん! 帰ってきたのか!?」
そこにいたのは肩で息をする、十歳ほどの少年であった。