第七話
「つーないーで、まーわあーって、だーきあーげてー」
唄が、聞こえる。
「いーいこや、よーいこや、ねーむりましょう」
幼い頃から聞かされてきた、優しい子守唄。
「とーう、かーあ、ぼーうと、てをくーんで」
父母を愛している。兄弟姉妹を愛している。息子娘を愛している。親族を愛している。隣人を愛している。
幸福を、願っている。
「ぬーまとーこさまーへ、いーのりましょう」
けれど、それと等しく憎むことは罪でしょうか?
*****
劉家の聖道師とかち合ってから数日。
鬼妖を退治した森に着くまでに大した寄り道をしていないからと、白叡は帰るまでの道を変更して緋燿に様々な場所を案内してくれた。
遠出するわけではないので、白叡曰く観光名所に寄れるわけではないらしいが、記憶のない緋燿にとっては立ち寄る場所全てが新鮮であった。何より白叡が連れ立ってくれるというのがとても嬉しかった。
しかしそれと同時に劉俊冉などの他者と隷獣の関係性を垣間見たことを思い出し、心がかき乱されているのを感じていた。
(どうして白叡はここまで隷獣である俺に優しくしてくれるのかな……?)
それが態度にも現れてしまっていたのだろうか。
いくつ目かに訪れた小高い丘。小振りながらも大量に咲き誇る、黄色い絨毯のような花畑でのことだった。その根元のぬかるんだ土に足を取られ、緋燿は支えられる間もなく盛大に転んでしまったのだ。
そのため、まだ日が高いうちに近場にあった村で休息を取ろうと白叡に持ちかけられた。
「まだ歩けるよ? この先にも景色が綺麗な場所があるって言ってたけど」
「予定変更だ。一度銀寒邸へ帰る。まずは濡れた衣を乾かそう」
緋燿が遠慮がちに声を上げるも白叡の意思は固く、寄り道は一先ず無しとなった。ここより進路を変えれば比較的早く私邸へ帰れると、今日の移動もこれ以上はしないようだった。
泥水を吸って重くなった衣のまま、白叡の後を歩く。これまでも宿泊の手筈は白叡が行ってくれていたが、この村でも汚れた緋燿に出来ることはなかった。
村の中でも大きな家の、おそらく村長と交渉する白叡の後ろで溜め息を吐く。
(隷獣なのに役立つどころか、迷惑をかけっぱなしだな……)
劉俊冉の隷獣犬の姿が思い浮かぶ。
主人の命に従おうとする真っ直ぐな姿。任務を遂行できなければ罰せられ、殺されそうになるのも当然だという姿。彼らの関係が聖道師と隷獣にとって当たり前なのだろうか。だとしたら。
(俺は白叡に対して、これからどういう態度でいるべきなんだろうか?)
白叡の行為に甘えている自覚はある。
一番最初に訊けば答えてくれると刷り込まれてしまったから。反応が返ってくることは、とても安心するのだ。
しかし本来は逆でなければいけないとも思う。白叡が命令を下し、緋燿が応える。
それが正しい姿なのだと。
「緋燿、もう笠を取ってもいい」
白叡の声にはっと顔を上げる。
濡れた垂れ布のせいで視界が下がっていたのか、考え込んでいたせいなのか、どちらにせよいつの間にか場所が変わっていた。
二人以外誰もいない一間の小屋の中のようだった。
中央に木製の卓子と三人分の凳(*卓子はテーブル、凳は背もたれのない円柱の椅子・スツールのこと)、入り口から見て奥側には筵(*藁などで編んだ敷物)が敷いてあった。汚れてはいないものの少々の埃っぽいことより、日頃から人が住んでいるわけではなさそうだ。
緋燿は言われるがまま笠を外す。
「着替えも一着買い取った。着替えられるか」
燻んだ色の衣が差し出され、とっさに受け取った。触り心地ですぐに現在纏っている衣装より質が劣っていると分かった。しかし抵抗はなく、むしろ今まで着させてもらっていたものが高価であり、それを汚してしまったことへの罪悪感が募った。
のそのそと言われた通りに着替え始める。手間取るかと思ったが、銀寒邸で着させられた時より手順が少ないくらいだ。最後に腰帯をきつく縛って振り返ると、白叡は緋燿に背を向けた状態で凳に腰掛けていた。
衣擦れの音が止んだと同時に白叡が振り返る。
「……ここで泥は落とし切れないな。返ってから洗うとしよう」
緋燿が脱いだ衣装を白叡が拾おうとする。彼の頭が、緋燿の視線より下に下がる。
白叡の跪いたような姿勢に、緋燿の中の何かが耐え切れなかった。
「そんなこと、ご主人の貴方がしなくていいんだよ!」
一度栓が抜けてしまうと、言葉が溢れ出すのを緋燿は止められなかった。
「俺は隷獣で、貴方は聖道師。ご主人様だ。貴方の命令に従い、貴方を支えるのが俺の役目であって、俺の世話を焼く必要なんてないだろ? 汚れたものをさっさと片付けろって命令してくれよ。ご主人がやろうとしないでよ。さっきの劉って奴らだって隷獣に命令してただろう? ちゃんとできなかったら罰していただろう?」
言いたいことがまとまらない。幼子みたいに癇癪を起こしてみっともない。自覚はあるのにままならない気持ちが卑屈になって溢れだす。
「だいたい、ご主人に本当は隷獣なんか必要なかったんじゃないの? 話を聞いてるだけで俺にも分かった。初対面の人でも知ってるくらい有名で、一瞬で鬼妖を退治できるくらい強くって。嘉甘みたいな本物の弟子もいる」
座したままの白叡の無表情が緋燿に向けられている。銀寒邸で初めて会った頃から変わらない、雪のような静かな視線。緋燿の荒んだ胸中と相反する姿。誰の手を借りずとも生きていけるような力や地位があるようなのに。
「どうして俺を隷獣にしたの?」
すとん、と言の葉の濁流から結論が落ちてきた。
そうだ。緋燿は隷獣だからか本能的に白叡の側にいたい、役に立ちたいと考えてしまう。
しかし実際の白叡に、緋燿は必要なのだろうか? 黒羊の隷獣は一体何の役に立つのだろうか?
先の鬼妖退治で劉俊冉の剣が隷獣犬に向けられた光景が脳裏に浮かぶ。
(俺は、白叡からいつ切り捨てられる?)
だがそれをかき消されるほどの衝撃が緋燿の腕と背に走った。喉が一瞬詰まり、荒む息が止む。
そして布越しでも分かる、筵からささくれ立つ藁の感触が背中に刺さる。
「……え」
引き倒された?
突然のことに惚けた緋燿の視界いっぱいに写ったのは、白叡の顔。
初めて緋燿でもはっきり読み取れるほどの、悲しみに満ちた表情であった。