第五話
白叡の私邸、銀寒邸を出た先は、また違った世界であった。
寒かった気温は、季節とは関係ない土地柄ゆえの特徴らしく、銀寒邸から離れてしまえば雪は見当たらなかった。大地に紫雲英や爪草が芽吹いていて、人間が過ごしやすい気候と言えるだろう。
視界に入るものがすべて新しく、美しい。緋燿はその景色を布の隙間と、生地越しに見つめていた。
今の緋燿は傍目から見ると、人であるということしか分からない出で立ちであった。
用意された笠から薄い布を垂れ下げ、それを頭に被っている。内側から様子を伺うことができるものの、外側からは顔は見えない状態であった。膝丈ほどある長い布はいささか邪魔であるものの、少しでも下から覗き込めば見えてしまう一角を隠すためにも垂れ布は必須だったのだ。
この垂れ布付き笠をこさえた後、嘉甘に留守を任せ、銀寒邸を後にした。
向かっている先は鬼妖出現の報告があったという森。白叡の住む土地より歩いて三日掛かる場所だ。周辺に幾つも村落があり、そこを中心に被害が出ているらしい。だが白叡に報告が上がってから少々時間が経っているため、現状どうなっているかは分からない。緋燿はそんなあらましを聞きつつ、歩を進めていた。
それだけ時間が経っていれば他の聖道師が退治し終えているのではないか。緋燿が途中で泊まった宿で訪ねると、白叡は確かな報告が上がっていない以上は出向くべきだときっぱりと言い切った。
寄り道せず無駄を好まぬような歩み、私邸での少なくとも的確な物言い。白叡がかなり真面目で律儀な性格なのだと、予定通り目的地に到着した頃には緋燿はとっくに悟っていた。
さて、目的地は一見なんの異常もみられなかった。
生い茂る木々は適度に人の手が入っているのか、荒れた様子もなくあちこちにそびえ立っている。野生動物の気配や虫の鳴き声から迫った危機を感じることもない。
しかし何かが暴れていたのか、木の幹や大地の所々に切り裂かれた跡が残っていた。
白叡は剣を抜くことなく、周囲を見渡している。緋燿もそれに習って、彼の肩越しに眺めていると、前方から鳴き声のような音が響いてきた。姿は見えないが、徐々に大きくなる音や気配で近づいてくるのが分かる。
未知への存在に緋燿が思わず生唾を飲んだ刹那、白叡の右腕がそれに向けて振られた。
視認出来ない力の刃が一閃。獲物に触れた瞬間に刃は縄となって獲物を拘束する。瞬く間に縛り上げられたそれは抵抗する間も無く地に落ちると、第二波の刃を受けて事切れた。まさに光のごとく、あっという間の交戦であった。
第二波の刃を放ったのは白叡ではない。
緋燿たちの目の前で獲物にのし掛かっている獣、体高二寸一尺(約70cm)ほどの灰茶色の犬こそがその正体であったようだ。
鋭い牙の生え揃う口から溢れる唸り声は、先ほど前方から聞こえてきた鳴き声とも合致する。
「鬼妖の正体はこれか」
白叡は犬が押さえつけている獲物に視線を向けて言う。
既に事切れたそれは押さえつけている犬と比べ、現存する生き物とは違う姿をしていた。
一見すると鼬のように見えるが、蛇のように体躯が細長く、足は魚鱗のような光沢を放った皮膚で覆われている。極め付けは足先の爪。鎌のような巨大な一枚の爪が4本の足にそれぞれついていた。
「あれが鬼妖……?」
呟く緋燿を余所に犬は獲物を咥えて踵を返そうとするが、すぐに足を止めて白叡を振り返った。低い唸り声が喉奥から響く。
横取りされると危惧したのだろうか。
緋燿は動けなかった。反応を返さずにただ見ている白叡と犬に交互に視線をやっていると、犬の後方からまた違う気配が近寄ってきた。
今度は人である。一際派手な色の衣をまとった男を先頭に複数の人がこちらへやってきた。
男が白叡達に気が付いたのか、ゆったりとした足取りのまま目の前までやってくると、恭しく一礼をする。
「あなたも鬼妖退治にいらっしゃったので? 残念ながらたった今退治し終えてしまいましたよ」
浮かべているのは笑み。しかし伝わってくるのは好意ではなく、出遅れたこちらを嗤笑するような、不快を誘う笑みであった。
笠の下で緋燿が眉根を寄せるなか、白叡は無表情のまま男を見返している。
反応の無さが癪に障ったのだろう。一度咳払いをすると、男は犬へ声をかけた。すると犬は素直に獲物を咥えたまま、男の足元へ侍る。その様子に機嫌をよくしたのか、再び嫌な笑みを浮かべて白叡へ声を投げる。
「この通り。一見ただの鬼妖ですが風を操って飛び回るもんですから、普通の聖道師でしたら捕らえることすら難しかったでしょう。しかし私達とこの隷獣犬の手に掛かればあっという間でした」
隷獣。
緋燿は白叡の後ろから少し身を乗り出して、その犬を改めて観察した。
主人の命令に従い働き、足元に大人しく侍る犬は己と同じ存在であるという。その姿は緋燿とは全く違う、初めて出会う生物のせいか同士とは感じられなかった。しかし単純に、素直に主人に従う姿勢は不思議と模するべき姿であると緋燿は感心せざるを得なかった。
男はわざとらしく手を広げて語り続ける。演者のような大きな動きは、男が主役であり勝者であることを遅参者に見せ付けるようであった。
「周辺の村の人達もずいぶん手を焼いていました。家や採集地帯である森が傷付けられて昼夜不安だと。しかし我ら劉家にかかれば二日で済みましたよ。いやはや、他の人達であれば何日かかったことやら。おっと、名乗らず失礼致しました。私、二大門家劉家の劉俊冉と申します。後ろの者も同じ門家の者です」
鬼妖退治を自慢げに語っていたことから予想はついていたが、この男も白叡と同じ聖道師であったようだ。白叡が一礼を返す。
「白迅義と申します」
緋燿が初めて耳にする名乗りである。それに驚いたのは眼前の男、劉俊冉であった。劉俊冉の背後に控える人達もこそこそと言葉を交わしており、その声音には喫驚と少しの気まずさが浮かんでいる。
劉俊冉は口角を上げたまま、今度は少しぎこちなく言葉を返してきた。
「……かの有名な雪陵散人でいらっしゃいましたか。お目にかかれて光栄です」
「こちらこそ」
「劉家一門でも噂はよく拝聴します。かの凶悪で暴虐な四凶の一匹をたった一人で追い詰めた、とても腕の立つ聖道師だと」
「……まだまだです。奴も滅しきれたわけではありませんので」
「謙遜なさらずとも。しかしそうですね、若輩者から一つ進言させていただくとしたら」
劉俊冉はそう言葉を切って、足元に侍る隷獣を見下ろした。
「雪陵散人も隷獣を持つべきです。隷獣嫌いだとの噂ですが、あれば便利ですよ。鬼妖退治では手足となって働きますし、雪陵散人ほどの実力者ならば強力な隷獣を作れるでしょう」
(白叡は隷獣嫌い?)
確かに白叡は今まで隷獣を持っていなかったと嘉甘も言っていた。しかしその理由が嫌いだというものならば、緋燿を招来すらしないはずではなかろうか。噂自体が嘘なのか、それとも緋燿を嫌々連れているのか。
粟立つ胸元を思わず握りしめる。
白叡も劉俊冉の言葉には肯定も否定も返さない。少しの沈黙が場を支配したとき、ふと白叡は劉俊冉から視線を外して森の奥を見た。
「退治したのはその種類の鬼妖だけでしたか?」
「? ええ。数は多かったですが、全てこれと同種の風を操るものでした」
話題が変わったことに少し眉根を寄せながらも劉俊冉がそう答えると、白叡はすっと剣を抜く。
森に入り、鬼妖の前でも抜いていなかったその剣は陽を反射して白銀の光を纏う。その切っ先が向こうへ向けられた時には緋燿にも理由がわかった。緋燿が変化する際に紡いだ気、それと同種の力が近づいてきているのだ。
劉俊冉の隷獣犬も咥えていた獲物を放し、唸り声を上げる。
「なんだ、鬼妖は全て退治し終えたではないのか!? お前の鼻は鬼妖によく反応するから重宝してやっているというのに、意味がないではないか!」
劉俊冉も遅れて悪態をつきながら剣を抜き、そのお供たちも次々と臨戦態勢を取り始めた。
しかしその頃には木々の葉が疾風を受けて警鐘を上げるが如く、ざわざわと擦れあい影を落とす。陽が遮られ薄暗くなったと緋燿が思った瞬間、劉俊冉の連れの一人から悲鳴が上がった。
「な、なに?」
緋燿は笠が飛ばされないよう抑えながらそちらを向けば、悲鳴を上げたらしき男はすでに倒れ、他の者もその周りに集まっていた。人垣の隙間から赤い飛沫の跡が見える。
劉俊冉も振り返って呼びかけた。
「どうした!?」
「いきなり倒れて……さっきの風の鬼妖は退治したはずなのに! ま、まだ残っていたなんて!」
「くそう! 丸二日かけて十匹以上は退治したんだぞ。若様の隷獣犬も反応してなかったのに、どうして!」
「姿が見えなかった! ここにいたのはあの鬼妖と同種だけではないのか!?」
「は、早く隷獣犬に探らせてくだされ若様!」
突然の事態に混乱しているのか、口々に言い合うばかりで彼らが動く様子はない。疾風は勢いを増すばかりで土埃や木葉まで巻き上がりつつある。これが自然現象ではないことは一目瞭然である。
緋燿は咄嗟に白叡の前に出た。笠の垂れ布が更に乱れるのも気にならず、とにかく正体を見つけなければと探る。
一度体感したおかげか、気を探るのに苦はない。しかし疾風の如く吹きすさぶ気は素早く、辺り一帯を縦横無尽に飛び回る。
「目で追えない…!」
この見えない攻撃から白叡を守らなければいけない。
そう緋燿の本能も理性も訴えかけてくるのに、どう動いたらいいのかわからない。経験したことのない事象に、足が竦む。その間にも人の悲鳴や、隷獣犬の唸り声が風に乗って周囲に響き渡る。それはさらに足の震えをを増長させてゆく。
「下がっていなさい」
それでも白叡の前に立ち続けていると、短くも絶対的な声がかけられた。肩を掴まれ、背中側に引っ張られる。それが守るべき主人であるのは理解したものの、咄嗟のことで踏ん張れず緋燿は後方へたたらを踏んだ。
入れ替わるように前に出た白叡の行動は早かった。
緋燿が声を上げる間も、劉俊冉が退治する間も、隷獣犬が牙を剥く間も無かった。
「走れ」
白叡の剣が手を離れ、言葉通りに荒ぶる気目掛けて走る。捲き上る土埃が白銀を汚す隙もないまま、剣は宙を裂いていく。そして空になった白叡の手は、何かを閉じ込めるように握りしめられる。すると瞬く間に氷雪のような塊が白叡の周囲に出現し、彼の手のひらが開かれた瞬間、火花が飛び散るように周囲に弾け飛んだ。
気の塊であるそれは飛び散った先に人や植物があっても傷付けることはない。唯一反応を示したのが疾風の正体であった。
白叡の気が本物の雪のように舞う。緋燿たちが場違いな幻想的景色に息を呑む中、どさりと何かが落ちる音がした。
「……これで終わりだろう」
涼しい顔のまま白叡が手を下ろし、袖を払う。
さきほどの物音の先に劉俊冉の隷獣犬が仕留めた鬼妖の二倍以上もある生き物が、氷漬けにされた上で白叡の剣に貫かれていた。
風は徐々に止み、森は元の様子を取り戻していく。
最初の鬼妖を捉えた時と変わらない、あっという間の解決であった。