第三話
「ねえ、さっき言ってた鬼妖ってなに? 退治するってことは悪いものなの?」
二人になった室内で、最初に声を上げたのは緋燿であった。
白叡は持っていた剣を一度坐榻(*周囲に囲いのついた、高い平座用の台状家具。長椅子のようなもの)に立てかけると、壁際の棚から大きめな布を何枚か持ち出してくる。
「鬼妖は鬼と妖を合わせて言う時の総称だ。鬼は生物の死後、強い念がが残っていた時に霊が変化する。妖は万物に宿る気が一定の場所や物に過剰に集まって変化する。成り立ちは違うが、傍目では判別が難しいこともあって、基本鬼妖とまとめて呼ぶ」
「今から行くのは鬼? 妖?」
「おそらく、妖だ。鬼は強い念が根源だから、被害の醜悪化、複雑化になりやすい。反対に妖の発生原因である気事態には意思も何もないから、善悪の判断を付けるのは難しい。……しかし今回は人的被害が出ている。妖であれ滅することになるだろう」
「鬼妖退治は、えっと、白叡のお役目ってこと?」
「私だけではない。だが鬼妖は変化の際に気を扱うすべを会得するため、常人が退治することは難しい。だから修行により道術を会得した聖道師の皆の役目、と言えるだろう」
流石は嘉甘の師匠である。簡素で緋燿にもわかりやすい。
白叡は口を動かしながらも手は止めず、ばさりと布を広げて坐榻に掛ける。形の違う薄い布と厚い布が数枚。そしてそれをじっと見つめた後、緋燿を振り返った。
「緋燿、変化は出来るか?」
「変化?」
獣から隷獣へと変化したのが、今の緋燿であるはず。変化とは何度もできるものなのだろうか。
「俺はこれ以上何に変化できるの? 犬? 馬? それとも鳥?」
「人型だ」
白叡の返答に緋燿は驚いた。獣であった己は人型を取ることが出来るのか!
把握している己の体躯は、一言で言うなら羊だ。
黒く波打ったふわふわの長毛に、同じ毛質の尻尾。つるりとした固い蹄。羊の額に一角があったかは定かではないが、それ以外の特徴が丁度当てはまる。
なので緋燿は己が羊の隷獣だと認識していた。
しかし人型にもなれるのなら、願ったり叶ったりである。白叡や嘉甘と、形だけとはいえお揃いになれるのは、素直に嬉しい。自然と尻尾が左右に揺れる。
「俺、羊から人間になれるの!?」
「羊……」
「どうやって? どうやって変化すればいい?」
興奮のまま白叡に迫る。しかし近すぎたのか、顔をぎゅっと捕まれ、押し返されてしまった。
ぷぎゅう、と腑抜けた鳴き声が漏れる。
情けない音に虚しくなり、しかしすぐに、はっとした。
(さっきからご主人である白叡に無礼なのでは?)
名前の呼び方はいいとして、それ以外の言葉使いや態度。先ほどは突進したり、言葉を遮ったり、大声も出してしまった。今も顔を掴まれ、押し返されたばかり。人間のように礼を取ったりすることができない分、言葉使いは正さねばいけないはずだ。
膨らんだ興奮を押さえつけ、よたよたと後方へ下がる。見上げた先の白叡に表情の変化はないが、それに甘えてはいけない。
緋燿はできうる限り頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。俺……いや僕、私? でも人型に変化ってできる…ますか? それを教えて、くれ…いただくことできる、ますか?」
前身が獣であった緋燿に、上位の存在への服従意識はあっても、正しい言葉遣いの知識などなかったのだろう。
自覚できるほどたどたどしく、頼り無い声が出てしまう。
これは反対に無礼なのでは? と脳内で次の言葉をこねくり回すが、先に飛んできたのは白叡の言葉であった。
「やめなさい」
短く、鋭い言葉であった。
反射的に体がびくりと跳ね上がった。
不思議と恐怖はないものの、逆らうことを許さない、強い言葉だった。
白叡が緋燿の前に片膝をつき、初めて目線の高さが合う。
「無理な喋り方をしようとしなくていい。好きなように話していいんだ」
真っ直ぐな視線から、緋燿は顔を逸らすことはできなかった。
表情に変化はない。それでも先ほどの言葉の何かが、白叡の琴線に触れたのは確かだった。
逆らうことは隷獣には許されない。
本能に逆らわず、ゆっくり「うん」と肯首する。
白叡はそれに満足したのか、その体勢のまま緋燿の一角に触れた。
嘉甘が体を拭いてくれたような、丁寧で規則的な触り方とは違う。壊れ物を扱うような、少しの畏れと優しさのこもった触れ方だった。
「この世全てのものに気が宿っている。変化はその気を操って外見や内面を変える一種の術だ。しかし変化には大量の気と強い意思、術との相性など様々な条件下でしか起こらないため、難しい術の一つと言われている」
指の腹で一角を撫ぜられる。
あまり感覚がある部分ではないものの、無性にくすぐったく感じる。
「しかしお前にはきっと適性がある。人型への変化を試す価値がある。目を瞑り、体内の気の流れを探ってみなさい」
一瞬、白叡の物言いに引っ掛かりを覚える。しかし正体を掴めず、また白叡の指示にすぐに従ったため、それはすぐに消え去った。
瞼の裏は暗いようで、暗くない。陽光が透けてきて、集中の邪魔をしてくる。
「気とは力であり生命だ。頭の先から、足の先まで。血潮のように、血潮以上に内を巡り続ける」
白叡の言葉に従い、意識を内へと向けていく。
この体に流れている、想像したことのないものを捉える。
それは霞を捕まえるような途方も無い話だと思った。
「想像しなさい。形を与えなさい。色を与えなさい。その気はお前の生命であり、力であり、自由である。誰にも侵せない、お前だけのもの。全てお前が決めていいんだ」
しかし白叡の導きは、緋燿が霞を掴むのが当たり前であると言わんばかりに、確信に満ち溢れている。
そうして長いような、短いような時間が経った時だ。
白叡の触れる感覚が消え、その代わりに一角に熱い何かが通った。
見えないはずのそれは、白色と黒色の糸状の何か。
(これが、俺の気だ)
そう意識してしまえば、糸が瞬く間に一角以外にも巡っているのがわかった。
体内中、余すことなく気が巡っている。
先ほど白叡が言っていた言葉を思い出す。
(変化に必要なのは大量の気と、意志と、相性)
この気が多いのかどうか、緋燿には判別できない。術と相性がいいのか、緋燿には判別できない。
しかし人型になりたいという意思だけは持っている。
ならばやってみるしかないではないか。可能性に賭けてみるしかないではないか。
ふと白叡の顔が浮かぶ。
美しい人間。
では自分はどんな人型になるのだろうか。
彼のように凛とした姿がいい。嘉甘のような優しげな笑みを浮かべられる姿でもいい。
顔貌、体躯を想像しながら無意識に二色の糸を編んでいく。
解けないように、崩れないように、丁寧に。
そして完成間近だと思った瞬間、糸がぶれた。
不自然に歪み、端から解けていく。
緋燿は慌てて編み直そうとするが、それを拒むかのように幻影が立ちふさがった。
黒く、輪郭のぼやけた人影。緋燿が目撃する三人目の人型。
その人型に焦点がじょじょに合い、詳細を認識できた瞬間、緋燿は人影を見つめていたことを後悔した。
(引っぱられる)
無理矢理、形が整えられていく。勝手に糸が編まれていく。
(やめて。それになりたくない!)
糸を引きちぎろうと、ないはずの腕を伸ばす。
だが、時すでに遅し。
掴んだのは目を見開いた白叡の腕であり、掴んだ手は憧れていたはずの、五本指の生えた手のひらであった。