第三十一話
(城主の部屋までの道は覚えている!)
緋燿は向かい風で笠の垂れ布が浮き上がるのも構わず、全速力で走った。
突然突っ込んできた相手に虚を衝かれた見張り番が一瞬対応に遅れたので、その隙に大堂へと駆け込む。背後からの怒号と、誰かとすれ違う度に悲鳴が聞こえてくるものの気を配る余裕はなかった。
とにかく、白叡のもとへ。
ただその一心で通路を駆け抜ける。そして目的の扉を見つけると、壊れることも厭わずに手荒く押し開いた。
「白叡!!」
緋燿の声に反応した二人の視線が集まる。
その光景はまさしく緋燿にとって絶望だった。
大切な人が全身を赤黒く染めながら、血溜まりに膝をついていた。上品だった衣は容赦無く切り裂かれ、力なく垂れる白い指先から赤い雫が滴り落ちる。喉の奥からは喘鳴のような雑音が荒い呼吸と共に吐き出されていた。
「何故ここに来た!!」
白叡は視界に緋燿を捉えると、大きく目を見開いて怒鳴った。今まで聞いたことがない感情的な、烈火の如き怒声に緋燿の身体が反射的にびくりと跳ね上がる。
対して白叡の正面に立っていた男は涼しい顔で乱入者を眺めている。いや、男と言ってももはや人間ではない。錦圭城城主・姜楓の顔をしていても、姿が人型だとしても、既に化けの皮は剥がれ切っていた。
太い角が二本、頭部から形に沿うように曲がり生え、唇の間から鋭利な牙が覗き見える。素肌には緋燿が見た気の糸の文様がそのまま刻まれたように浮き上がっていた。人間と同じ形をした手にこびり付く血が、袖を整える動作と共に地面に飛び散る。
傷も返り血も浴びていない綺麗な装いのまま、その鬼妖は佇んでいた。
「ほう? 昨日に引き続き、お前から来るとはどう言った風の吹き回しだ?」
艶やかな微笑を浮かべている姜楓は、緋燿に向けて問いかけた。わざわざ緋燿に対して声を掛けてくる理由も、問いの意味も理解が出来ない。そんな戯言に構っている余裕がなかった。
今はとにかく主を助けなければいけない、守らなければいけない。警鐘が身体内から鳴り響く。その導に従い、緋燿は白叡を背で庇うように腕を広げて前に出ると姜楓を睨みつけた。
「四凶だろうがなんだろうと、これ以上白叡を傷付けるのは俺が許さない!」
震えるな、己の脚。
正面に対峙して初めて感じる、今まで体感したことのない圧。姿形だけならば「ぬまとこさま」にいた鬼妖の方がよっぽど奇怪で異形だったはずなのに、姜楓の方が明らかに強大で格上だと全身で感じ取った。
ごぽりと背後から何かを嘔吐したような嫌な水音がする。出来るだけ早く白叡をこの場から離脱させなければいけない。
何か術を使って気を逸らすか、それとも……。そう思考したのが間違いだった。
「がはっっ!!!」
姜楓から視線を逸らしていないはずだったのに、気が付いた時には緋燿は反対の石壁に叩きつけられていた。笠の紐が千切れ、軽い音を立てて地面に落ちると、遅れて灼熱のような熱と激痛が全身に襲いかかる。一拍呼吸を忘れた胸が激しい鼓動を打ち鳴らす。うつ伏せに倒れた体を起き上がらせようとしたものの、衝撃で痺れた腕は棒切れのように頼りなく、力がうまく伝わらなかった。
続け様に腹に衝撃が走る。立ち上がるために込めた力が四散してしまい、再び地面に倒れ込んでしまった。
「緋燿!!」
白叡の声が遠くから聞こえる。
耳鳴りが酷く、ぐらぐらする緋燿の頭が掴まれた。
「久しぶりに会ったと思ったら、人違いだったか。彼奴がこんなに弱いわけがない。……いや、勘違いにしては気配が似過ぎているような……」
頭髪ごと引っ張られた頭が持ち上がり、涼しい表情のままの城主と視線がかち合った。瞳だけがこちらの奥底を探るように怪しい光を宿している。ぞくり。熱と痛みに支配された身体に冷たい異物が入り込んでくるような、気味の悪い感覚が這い寄ってくる。
(このままでは、本当に一歩も動けなくなる。白叡だけでも外へ……! 早く……!)
唯一、己の思い通りに動く頭で緋燿は考えた。しかし長考すれば、また抵抗出来ぬまま地に沈められてしまうだろう。動かせる可能性がある四肢、有効打になる術、脱出口。
少ない選択肢を瞬時に選び取り、緋燿は一角へ一気に力を集めた。
姜楓はその一瞬の動作も見抜いたのだろう。術の発動と同時に、掴んでいた緋燿の頭を乱暴に振り払った。ぶちぶちと頭髪が切れる痛みと共に身体は解放されたものの、その衝撃と急な方向転換のせいで風刃は姜楓へ届かなかった。
だが体が自由になったことが、今は何より重要だった。歯を食いしばって激痛を堪えた緋燿は、今度は素早く両足に風を纏わせる。想像するのは、最初に出会った風の鬼妖。目にも止まらぬ速さで駆け回る、疾風だ。
波打つ長髪が上方へ僅かに巻き上がったのを感じた緋燿は、白叡へ向けて地面を力一杯蹴った。
(このまま白叡を連れて、窓を打ち破る!)
勿論、このまま黙って見送る鬼妖ではなかった。
既に体勢を立て直していた姜楓は二人の間に割り込むように突進すると、手のひらを突き出すように緋燿に向けてくる。緋燿はその手のひらに見えるものにぎょっとした。鋭利な牙が生えそろう口が、存在を主張するように大きく開きながら浮かび上がっていたのだ。
掴まれたら食い殺される。
「くそっ!!」
最短で連れ出したかったが、緋燿まで動けなくなったら白叡を外へ逃せない。
緋燿は姜楓の手に掴まれないぎりぎりの所で再び大きく跳躍すると、他方向から複数の風刃を飛ばした。少しでも隙を作る。それが目的だったのに姜楓は避ける仕草を見せず、むしろ受け止めるように手を向けてきた。そして風刃が手のひらに届くと、皮膚を切り裂くことなく消えていってしまった。
ぐちゃり、もしゃりと咀嚼音が響き渡る。
(術の風まで食うのかあの口はっ!)
風刃を飲み込んだ手のひらを突き出して、姜楓は再び緋燿へ突進してきた。緋燿も足元の疾風を切らさないよう、集中して避け続けるもののどれも紙一重で、徐々に表皮が食い削られていく。
迫りくる姜楓の表情に浮かぶのは、当初と変わらぬ妖艶な微笑。余力を残しているのは一目瞭然。
しかし今が一番の好機だとも思った。
「白叡!」
ご主人の名前を叫ぶ。
現在、姜楓は白叡ではなく、緋燿に狙いを定めている。大堂を出るなら、逃げるのは今しかない。
「白叡!!」
詳しく言葉にする時間はない。願いを込めて、緋燿は必死に名前を叫んだ。
白叡は頭が良くて、緋燿の言葉をいつも上手く察して話してくれていた。言外の気持ちが伝わっていることは間違いない。これで白叡を守れる。
衣服ごと腕や腹が食い破られ、生温い血が滴り落ちていく。眼前の強者が恐ろしいものの、不思議と満足感があった。これで死んでも悔いはない。それこそ緋燿が生きている価値であると、役目を果たしたのだと思えるほどだった。
(……あれ)
ふと、己の思考にずれを感じる。
戦いの最中だというのに、その思考の一瞬が致命的であった。
顎に衝撃が走る。牙による攻撃ではなく強烈な殴打によって、体の自由がとうとう効かなくなってしまった。風が止み、地面にへたり込む。
「さて。いい加減飽きましたし、終わりにしましょうか」
涼しい顔をしたままの姜楓の腕が緋燿へ伸ばされた。
手にひらに生えそろう牙に食い殺される。
自分の終わりを初めて想像した瞬間、予想だにしなかった方向からの衝撃に緋燿の体が押し出された。
「……まだ動けましたか。やはり聖道師はそうじゃなくては。最近の聖道師は雑魚しかいなくて酷く退屈だったんです」
緋燿は抵抗出来ず転がった体を動かし、軋む首だけで振り返る。
先ほどまで緋燿がいた場所には入れ替わるようにして白叡が立っており、白銀の剣が姜楓の手のひらに突き出されていた。口の奥まで刺さるはずだった剣先が牙に噛まれ、きりきりと固いもの同士が擦れる音が鳴っている。
「白……」
「早く逃げなさい!」
ご主人の名前を呼ぼうとして、遮られた。
がちんっ。一際大きな音とともに白叡と姜楓の武器が深く交わる。未だに止まることなく流れる血が、白叡の衣をいっそう赤く染め上げていく。緋燿の目には到底動ける傷には見えなかった。
逃げて。逃げよう。
そう思うのに、自分の意思に反して体が動かない。
姜楓は悠然とした態度のまま、もう片方の腕も持ち上げた。
「今更逃しません。あなたは確実に喰います。それに、その隷獣にも聞きたいことが出来ました」
「っ!!」
二本目の腕が振り下ろされた瞬間、白叡は残されていた力で交わっていた牙を押し返すと、流れるように刃を下から上へと一閃した。切っ先が掠ることはなかったものの、僅かに姜楓との距離が開く。そこへ畳み掛けるように、血に染まった破れかけの袖を完全に引き千切ると、姜楓の顔面に向けて投げつけた。凶器でない衣では鬼妖を傷付けることは出来ないものの、視界が遮られた一瞬の隙に白叡は懐に飛び込むと姜楓の腹を蹴り飛ばした。
上手くかわされているのか姜楓に傷らしいものは何一つ付かなかったものの、室内に入ってから一番距離が出来た瞬間だった。
「今のうちに早く大堂から出なさい。嘉甘と合流して、老師を頼るんだ」
白叡は鬼妖から視線を逸らさない。そして一緒に外へ出ようとする気配もない。
緋燿は言葉が出ないまま首を横に振った。
(白叡を置いて行くのは、嫌だ)
迷惑をかけた。助けになれなかった。役に立たなかった。それでも傷だらけの白叡を一人残して行くことなんて出来ない。
「行きなさい! 緋燿、これは命令だ!!」
出来ないはずだったのに、白叡の一言で緋燿の体は戸口の外へと駆け出した。
主人の命令に従っている。これは道理であり正しきこと、隷獣として真っ当な姿だった。
(そう。隷獣として、だ)
激痛の中でも出なかった涙が、今更になってぼろぼろと頬を伝い落ちる。緋燿は先ほど感じたずれの正体を自覚してしまった。
決して、友達だからではない。緋燿を突き動かす根元は結局「友達」ではなかったのだ。
(俺は、自分が白叡の友達になれるなんて、本当はちっとも思っていなかったんだ。友達になりたい、隷獣の本能に重きを置かないなんて思ったくせに、結局命令に抗わなかった。……役に立ちたいのも、助けたいのも、そばにいたいのも友達だからじゃない。全部、全部、全部、隷獣の本能。……俺の気持ちなんて、最初から何一つ無かったんだ)
萌葱色の小鳥と一緒だ。
命令に従って、大切なはずの人を置き去りにして一人逃げ出した。ただのちっぽけな隷獣だ。
「ああ、あああ、あああああああああっ!!」
踏み締める大地ががらがらと崩れ落ちていくような感覚に、緋燿は絶叫する。
白叡の元へ戻りたい。足を引っ張る。命令を遂行しろ。そばにいたい。役立たず。とにかく外へ出なければ。誰かの腕が直接脳味噌を掻き回しているように、思考がぐちゃぐちゃになっていく。意識が朦朧としていく。
覚えているのは大堂内の多勢を前に、大した抵抗も出来ずに取り押さえられ、命令すら守れない現実だけだった。
前半戦はここまで。
後半戦更新までもう少しお時間いただきたいと思います。