第三十話
錦圭城に入城して三日目。
相変わらず賑わう大通りを素早く抜け、緋燿たち三人は内層に建つ大堂の前門にやって来ていた。
緋燿の気分とは裏腹に空は快晴である。望准と胡桃は昨晩のうちに宿に帰ることはなく、現在に至るまで連絡一つない。不安が膨らむ中、白叡はこの件にも鬼妖である城主が関わっているだろうと真顔のまま言った。
昨日と変わらず大堂の門横には見張り番が立っている。
「……では、行ってくる。二人は外で待っていなさい」
「えっ!?」
同じく大堂に入る気だった緋燿の出鼻が挫かれる。笠越しのまま白叡を見上げると、いたって冗談を言っているふうではない。と言うより、冗談なんて白叡の口から聞いたことがなかったのだが、今回ばかりは素直に頷くことは出来なかった。
「どうして……姜城主は四凶かもしれないんでしょ? 絶対に危ない! 俺も一緒に行く!」
「そ、そうです師匠! 微力ながら私たちにもお手伝いさせてください!」
嘉甘も緋燿同様に意見したものの、白叡は譲る気がないのか首を横に振った。一見冷たいとも感じる瞳が鋭く二人を貫く。
「……厳しいことを言うが本当に四凶だった場合、私も一対一で勝てるか分からない相手だ。お前たちが着いて来ても出来ることはないだろう。……それに戦闘になった場合、他の住民を巻き込まない保証もない。二人は外で待機して、いざと言う時は周りの人々を守りなさい」
着いてこずとも役目はある。そう白叡が説くと嘉甘は少々気落ちしながらも引き下がった。
しかし緋燿は理解はできても納得することは出来なかった。胸が針で刺したように痛い。初めてそばにいられないという事が精神を蝕み苦しめる。危険な場所と言うなら尚更だ。
緋燿は隷獣だ。ご主人のそばにいて、守り、役立つことこそが価値であり、喜びだ。そしてそれ以上に「友達」になりたいと思った相手だ。大切な人を快く一人で送り出すことなど緋燿には到底出来なかった。
思わず、白叡の衣の袖をきつく握りしめる。
「だめだよ、危ない場所なら、尚更連れてってよ! 役に立てるか分からないけど、それなら囮とか、盾になるとか、なんでもするから! そばにいさせてよ、一人にならないで!」
急激に乾いてしまった口を懸命に動かしながら、緋燿は縋った。最初に出会ったときのように彼を捕まえながら緋燿は願った。あの時のように、呆れながらも最後にはきっと連れていってくれると信じながら。
しかし固い拳は白叡によって簡単に解かれてしまった。見た目にそぐわぬ強い力を秘めた白く美しい指が、今度は笠の垂れ布をまくり上げる。緋燿と白叡の視線が直接交わった。
「駄目だ。君も嘉甘と共にいなさい」
今まで以上に強い声に、再び衣を握る手は伸ばせなかった。
それが分かったのか白叡は嘉甘に「後は頼んだ」と言うと、颯爽と門番のところまで歩いていってしまう。昨日と同じように二三言葉を交わすと、白叡は一人で門の奥へ消えていく。
姿が見えなくなったところで嘉甘が緋燿へ振り向いた。
「……じゃあ、私たちもどこか落ち着ける場所にいましょうか」
緋燿は促されるまま歩き出す。心には刺が突き刺さったままだった。
*****
白叡を見送った後、緋燿は口を聞く事が出来ないほど沈んでいた。
嘉甘が気を遣って話しかけてくれたり、屋台で包子を買ったりしてくれたものの、頭の中を巡るのは白叡の背中のみ。一人で仇敵かもしれない相手へ向かう彼のそばにいられない事が、辛く悲しく切ないことなのだと深く実感してようやく理解した。
ままならない気持ちを抱えたまま、緋燿は広場に建つ東屋の長床几に一人腰掛ける。嘉甘は水を買ってくると少々席を外していた。
緋燿は預けられた包子を両手で包み込みながら、じんわりと伝わってくる熱を感じていた。人影の少ない広場の花園をぼうっと眺め、心の内に問いかける。
(俺、本当は何がしたいんだろう? 俺が白叡のそばにいたいのは隷獣の本能だけが理由? いいや、友達になりたいと思ったのは俺自身のはずだ。そのはずなんだ、よな……?)
何度考えたか分からない自問自答を再び繰り返す。
白叡のそばにいたい、役に立ちたいのは隷獣の本能だと思っていた。しかし「隷獣として」従うことは白叡が望まないことだと知り、違う関係を築こうとした。それが「友達」という新しい関係性だ。友達という別の関係になれば白叡が困ることなく喜んでもらえる、そんな単純な考えだった。
しかし実際問題、それは本当に「隷獣として」の考えではないと言えるのだろうか?
名前を変えたところで命令されれば緋燿は喜んで従うだろう。名前が変わっても喜んでそばに侍るだろう。それでは隷獣と何が違う? 本質は何も変わっていないくせに望まれるがまま、表面の形だけかえて満足した気になっている。これは本当に隷獣の本能が出した答えではないと言えるのか? 自分の感情と本能の境が分からない。
緋燿はかつて出会った陳莇を思い出した。
愛しているのに憎いという相反する気持ち。緋燿は自身に根付く気持ちはそれに近いと思った。いろいろな感情や考えが勝手に動き出して、体の内側を食い破ろうとしている。ぐちゃぐちゃに掻き乱して答えを何処かへ隠してしまう。
(いや、もとからこの考えの果てに正解なんてあるんだろうか……)
出口のない道を彷徨っているような、うじうじとした考えをする己にいっそう嫌気が差してくる。
「あー!! 俺のばか! もう分かんないよ!!」
考え過ぎて頭から煙が出そうになったところで、とうとう緋燿は思考を放棄した。笠の中に熱が篭ったような気さえする。
唸りながら頭をがしがしと掻いていると、聞き慣れた声が聞こえて来た。嘉甘がようやく帰って来たようだ。緋燿は垂れ布越しにそちらを振り向くと、つい目を凝らしてしまった。
嘉甘の手が持っているものが水入れだけではなく、片手に乗り切るほどの小さくて丸っこい萌葱色の塊も一緒だったからだ。嘉甘が長床几までやって来たところで緋燿は彼の手に視線を向けたまま尋ねる。
「なに、それ?」
嘉甘は隣に腰掛けると水入れを置き、不安げな表情で萌葱色の塊を撫でる。よく見るとそれはふわふわとした翼を持つ小鳥だったようだ。注意深く観察すると、白色と萌葱色の毛並みが所々赤黒く染まっている。
「怪我、してるの?」
「はい。水を買って戻ろうとしたら平房の隙間にいたんです。小さすぎて他の人は気づけなかったんでしょう。その場で手当てするわけにもいかず、連れて来てしまいました」
「手当て出来るの? 俺、薬とか買ってこようか?」
「いえ、これくらいなら術でも治せるかと」
嘉甘はそう言うと、小鳥の傷口に手を翳した。
「落つる命、留まれ」
小さな祈りと共に淡い光が小鳥を包み込んだ。蒲公英の綿毛のように白くてふわふわとした術が傷口に吸い込まれていく。
(綺麗だ)
師匠である白叡とはまた違った、嘉甘の優しさが形になったような光だった。
そういえば嘉甘の気の糸はどんな色をしているのだろうか。
ふと思いついた疑問に、緋燿は自然と術を発動した。目の奥が熱くなるような、力を使ったときの感覚が満ちる。白叡の気の糸は白色だった。そして嘉甘に見えた糸は薄香色と呼べるような優しい色合いの糸であった。
しかし緋燿は同時にぎくりと体を強張らせた。
嘉甘を見た時に小鳥まで視界に入ってしまったのだが、その小鳥の中には薄墨色と若緑色の二色の糸が巡っていたのだ。
多色は変化した、隷獣または鬼妖の証。
一見ただの小鳥に対し、緋燿の警戒心が一気に膨れ上がった。嘉甘の手から治療の光が消えたところで小鳥を遠ざけようと、緋燿はすぐさま腕を伸ばす。だが予想に反して傷が癒えた小鳥はすぐに目を覚ましてしまった。
忙しなく首を動かし、くりっとした小さい瞳が見下ろす人型二人を見返した。ちっちっと高い鳴き声を上げ、羽を確認するように嘴で突っつく。
「良かった。ちゃんと治りましたね」
安堵する嘉甘は人差し指で小鳥の頭を優しく撫でた。愛らしく癒される光景に緋燿は一瞬流されかけたものの、すぐに我に変えり嘉甘から小鳥を奪い取った。
「緋燿?」
「気を付けて、こいつ鬼妖かもしれない」
緋燿が言葉短く告げると、嘉甘は息を詰まらせて小鳥を見下ろした。表情には「本当に?」と困惑が浮かんでいる。
もう一度確認するため今度は垂れ布を捲り上げて、直に小鳥を観察した。間違いなく二色の糸が巡っている。小鳥本人は状況が分かっていないのか、逃げ出さずに緋燿の手の中でもぞもぞと身動ぎしただけであった。
この小鳥が鬼妖であれば聖道師失踪に関わっているか、四凶自体に縁がある可能性だってある。緋燿は警戒したまま、手を持ち上げて小さい瞳を見つめ返した。
「質問に答えろ。お前、鬼妖か? それとも隷獣か?」
厳しい声音に気が付いていないのか、小鳥は変わらずちっちっと鳴き声を上げる。短い首を忙しなく動かし、嘴をぱくぱくと開いた。いつまで経っても返答しない小鳥に、緋燿は胡桃との会話を思い出した。
(そう言えば、喋れる隷獣って珍しいんだっけ)
以前出会った鬼妖も奇声は上げても会話は出来なかった。するとこの小鳥ももともと喋ることは出来ないのだろう。むしろこちらの言葉を理解しているのかさえ怪しい。白叡がいないため、他の確認方法も緋燿には考えつかなかった。
思わず脱力すると、小鳥が手の中からするりと抜け出した。そうして長床几の上に落ちると小さな足でちょこちょこと嘉甘に近づき、首と嘴をさらに忙しなく動かし始めた。
理解できない行動に緋燿が首を傾げていると、嘉甘が両手で小鳥を掬い上げる。
「まって、喋れないとはいえ、安全かどうかまだ分からないんだよ」
緋燿が慌てて制止を掛ける。しかし嘉甘はそのまま小鳥を多方向から観察したと思うと、短い毛を指先でめくり上げた。細い紐状のものが首回りに巻きついている。緋燿も一緒になって覗き込むと、嘉甘は眉根を寄せて紐を軽く摘んだ。
「これは……禁縛縄ですね」
「禁縛縄?」
「ええ。聖道師が使う術具の一つです。気を押さえ込む道具で、鬼妖の能力や行動を制限することが出来るのです」
「ということは、やっぱり鬼妖?」
「……いいえ。この禁縛縄は行動を抑えているわけではありません。この子は隷獣で、きっと誰かに能力を封じられたんです。とりあえず外してみましょう」
そう言って嘉甘が紐を解こうとすると、忙しなかった小鳥の動きがぴたりと止んだ。その行動はこちらの言葉を理解している証拠でだった。
緋燿は不安を抱えつつも、静かに嘉甘の様子を見守り続ける。
時間はどのくらいかかっただろう。禁縛縄に嘉甘が集中してしばらく時が過ぎると、じゅっと何かが焦げたような音と同時に小鳥の首から紐が落ちた。
「え、これって成功なの? 切り口すごいけど」
落ちた紐を緋燿は持ち上げる。切り口は不格好で、焦げたように黒くなっていた。
「術をかけた本人以外が解くと大抵そうなってしまうんです。師匠ほどの腕があれば他人が掛けた禁縛縄も綺麗に外せるんですけど」
苦笑いを浮かべた嘉甘は、紐の無くなった小鳥の首元を指で撫でる。
「でも成功です。傷付けることもなく外せました」
ほっと吐息を吐くと、長床几の上に小鳥をそっと下ろす。
小鳥は軽くなった首を器用に動かすとぴょんと嘉甘の膝に飛び乗った。
「ありがとう! 助かりました」
先ほどまでの鳴き声と同じく高く、弦を爪弾いたように美しい声だった。萌葱色の羽を羽ばたかせながら一生懸命嘉甘を見上げ、少々早口に喋りだす。
「傷の手当てもしていただいたようで本当に助かりました! 急ぎの用がございまして、早く早く行かなければと焦っていたのに、体は動かなくて本当に困っていたのです。聖道師の方、そして同族に出会えるとは何たる幸運! 急にこのようなことをお願いするのは申し訳ございませんが、どうか私のお願いを聞いていただけないでしょうか?」
緋燿と嘉甘は顔を見合わせ、耳を傾けるように小鳥のそばまで頭を下げる。萌葱色の塊は翼を羽ばたかせ、全身で喜びを表現すると再び早口で語り出した。
「おっしゃる通り、私はとある聖道師の隷獣でございます。五日ほど前、主と一緒にこの城市にやって来ました。来た当初は本当に平和で、主は露店を回っては気に入ったものを買い、酒楼に入っては酒を飲み楽しく過ごされておりました。しかし次の日になると聖道師と是非話をしたいという城主より、主は茶の席に招かれました。私も着いて行こうとしたのですが「口煩いから」と禁縛縄を掛けられ、置き去りにされてしまったのです」
「禁縛縄ってご主人に掛けられたんだ……」
「お喋りな私がいけないのです。主は当然のことをしたのですよぅ」
てっきり他人が封じたものだと思っていたが、主の罰だったらしい。全肯定の小鳥に対し、緋燿は心中に正体不明の靄がかかったような心地になったが、話が進まないのでひとまずは口を挟まないようにした。
「しかし主は翌日になっても帰って来ませんでした。私は心配で心配で、急いで主の元へ向かいました。しかしどこにも姿は見えません。たくさん探しました。空から城市を見下ろし、潰されないように地上も探しました。しかしそれでも見つかりません。だから私は主はあの城主に捕まってしまったのではと考え、忍び込みました。そこで見てしまったのです! 城主が血を滴らせながら、地下から出てくる姿を! きっと主はそこにいます! どうか、どうか一緒に探しに行ってはくれませんか!?」
小鳥は最後には小さな瞳から大粒の雫を溢し、嘉甘の膝の上に蹲ってしまった。
緋燿は新しくもたらされた情報に血の気が引いていくのが分かった。昨晩帰ってこなかった望准と胡桃を思い出す。どれだけ危険な場所へ白叡を見送ったのか、己はまるで理解出来ていなかったのだ。
緋燿は長床几から勢いよく立ち上がった。
しかしまたもや高い声が早口で制止を掛ける。
「お待ちください、もう一つ話しておきたいことが! 正面から入るのは危険です。あの大堂にいる人間は城主の正体を知っているのか、彼の命令を聞くのです! 私の怪我も城主に見つかり、捕まえろと命ぜられた者たちから命からがら逃れる際についたのです!」
小鳥の言葉に緋燿はかっとなった。
「だったらなおさら急がなきゃいけないだろ! 鬼妖だけじゃない。大堂の中全部敵なんだとしたら、きっと無傷じゃ済まない! ……白叡を一人にはしない。俺はお前みたいに逃げたりするもんか!!」
ご主人の安否も分からぬまま逃げ出した同種の言葉など聞く価値もない。
緋燿は脇目も振らず、大堂へと駆け出した。