第二話
寝かされていた部屋から出ると、外に面した廊下を進んでいく。
緋燿は嘉甘の後ろを歩きながら、その道すがら辺りを観察していた。
先ほど嘉甘に説明を受けた聖道師や隷獣などは知らなかったが、脇道に咲く草花や、鳥の名前、壁の色の名前、その他視界に映ったものについては名前が思い浮かんだり、そのようなものが存在しているという認識が出来たため、己が全くの無知ではないことを理解する。
緋燿にないのは、過去や思い出といったものだ。
獣の記憶が残るのが普通なのかは分からないが、おそらく隷獣に変化した拍子に失ってしまったのだろう。
原因が判明すると、不安と焦燥も大分落ち着いてくる。
そうして一際大きい一室の前までやってくると、これから会える主人、雪陵散人への興味に心が躍っていた。
今の緋燿に分かるのは、雪陵散人は一番最初に目にした美しい人であろうこと。
そしてその過程が正しいのならば。
(彼を一人にしちゃいけないって、思ったんだよなぁ)
蹄の先を見下ろしながら心中で呟く。
現在は寂しさも、腹が立つような怒りもないが、美しい人を見たときにそんな感情が湧き上がったことだけは覚えていた。
見上げた先、造りの立派な戸を嘉甘が数度叩く。
軽い音が響き、一拍後返事がした。
「入れ」
高くもないが、低すぎない、男性の声。決して大きくない音量のはずなのに不思議と緋燿に染み込んでいく。
嘉甘が音を立てずに戸を開き室内へ入っていくので緋燿も後に続いた。
外の湿気った若草の香りではない、軽く優しい香りに包まれる。
先ほどまで緋燿がいた素朴な部屋とは違う、調度品の整った一室。決して煌びやかではないが、統一感があり優美な雰囲気がある。
そんな一室に、同じ雰囲気をまとった人がいた。
「失礼いたします、師匠。目を覚ましたので連れてまいりました」
嘉甘が胸の前で手を組み一礼するも、緋燿は視線を外すことができなかった。
予想通り、記憶の中の美しい人本人であったのだが、このときに漸く輪郭を捉えることができたのだ。
敷物に平坐する彼は、卓子に今まで飲んでいたであろう茶器を静かに置くと、長い袖を払って音もなく立ち上がる。
同じく長い服の裾は彼の歩みを邪魔せず波打ち、一種の別の生命のようであった。
緋燿の前まで来た彼は、膝を折ることはしないものの、まっすぐな視線で見下ろしている。
磁器のような白い肌に、形の整った目鼻。男女問わず目を止めてしまうような、生物共通の美を体現しているようだった。
緋燿が反応しない事に疑問を持ったのか、ほんの僅か、と言っても目の前の緋燿だからわかった程度に彼は眉根を寄せた。
「緋燿?」
名前を呼ばれると、背筋に痺れが走った。そしてようやく自覚する。
彼が己の主人なのであると。
緋燿は慌てて頭を下げた。
礼儀はわからないが、足まで折ると蹲ったように見えるため首を前に倒す程度だが。
「初めましてご主人! 緋燿です!」
噛まずに言えたという小さな満足感を胸に、彼の反応を待つ。
初めての会話だ。彼は何を言ってくれるのだろう。
不安と期待に包まれながら、頭を下げ続ける。
しかしどれくらい経っただろう。緋燿の自己紹介に対して彼の反応がない。
目の前から動いていないことはわかる。しかし肯定も否定もない。
何か無礼なことをしてしまったのだろうか、頭は上げていいのだろうか。
期待はすでに逃げ、不安と焦りが湧く。
「師匠? 如何されましたか?」
流石に嘉甘も不思議に思ったのか、彼に向かって声をかけた。
すると漸く眼前の彼が動き出した。
「緋燿、まずは頭をあげなさい」
言われた通り頭を上げ、彼を見上げる。
既に眉根はよっておらず、室内に入った時と同じ無表情であった。
そんな彼が緋燿に問う。
「私の名前は言えるか?」
「ご主人…じゃなくて。えっと、雪陵散人と教えていただきました」
緋燿は嘉甘に習ったばかりの名前を答える。
そういえば雪陵散人は号と言っていたが、他の名前とはどんなものだろうか。
「白叡だ」
「?」
緋燿がそう疑問に思っていると、彼は緋燿の心内を読んだように言った。
そして緋燿はそれが己の主人の名前であることを数拍後に理解する。
「白叡様?」
「白叡、だ」
「白叡」
「そうだ」
緋燿が恐る恐る口にした名前を、白叡は簡素に正していく。
白叡。主人の名前。
名前を呼ぶ許可を与えられたことに、不安が一気に消えていく。己の存在が認められたような喜びが溢れてくる。
緋燿は大切な名前を忘れないよう、口で何度も反芻した。
それに困ったような表情を浮かべたのは、側で様子を伺っていた嘉甘であった。
嘉甘は一歩前へ出た後、礼する。
「師匠、お聞きしてもよろしいですか?」
「なんだ」
「修行の身故の疑問やもしれませんが……緋燿は隷獣です。よろしいのですか?」
「……彼だけだ。お前はお前で決めなさい」
「はい」
嘉甘は素直に頷く。
二人の会話に気付かないまま、ようやく反芻を終えた緋燿は陽気に蹄を鳴らした。
「白叡、白叡。それで俺は何をすればいいの?」
隷獣とは聖道師が獣に気を注いで招来させるもの。
つまり白叡は緋燿に何かしらの役目を期待しているということだ。
何も分からない緋燿にとって、自分にも出来ることがあるというのは素直に嬉しかった。
主人の指示を受けるため、自分なりに姿勢を正して待つ。
しかし訪れたのは、再びの沈黙であった。
先ほどの返答も遅かったな、と緋燿は思い返す。思ったことをすぐ口にしてしまう己とは大違いだ。
白叡は無表情なので、何を考えているのか緋燿に察することはできない。
ただただじっと見上げていると、動き出したのは白叡の方であった。
「何もしなくていい」
白叡は身を翻し、敷物の側に置いてある剣掛けから剣を持つと緋燿の横を通り過ぎていく。
すぐに反応できたのは白叡の弟子の嘉甘である。
「えっ、師匠? どこに行かれるのです?」
「鬼妖の報告が上がっていた。退治に行ってくる」
「今すぐにですか!? でしたら、私が向かいますが……」
「まだ早い」
「しかし……」
嘉甘はちらりと緋燿に視線を向ける。
しかし肝心の緋燿は混乱してしまい、すぐに動けなかった。
(何もしなくていい?)
それは、どう受け止めればいい?
何もせずに待っていろという優しさ? 何も期待していないという失望? 側に居たくないという不信?
出会ったばかりだし、人となりが分からないのは仕方がない。きっと何か理由があるはずだ。何も考えず、主人の従っていればいい。
だって緋燿は隷獣なのだから。
そう本能的な囁きが脳内にこだまする。
だが直ぐにそれ以上の、別の感情がこだまを打ち消した。
「一人になっちゃダメ!!」
緋燿は大声を上げて白叡に突進した。
突然の行動でも白叡はしっかり反応し、ひらりとそれを躱すが、当の本人は慣れない四足が絡まって転がってしまった。思いの外勢いが良かったのか、額の一角がいい音を立てる。
白叡がすぐさま駆け寄って、転がった躯体に触れた。
「大丈夫か?」
掛けられたのは労りの言葉。
しかし今はそれに感謝も感動も湧かない。あるのは己の主張を通す、頑固な意思のみ。
緋燿は転がった体勢のまま、なんとか顔だけ向けて声を上げた。
「ダメ! 白叡一人で出かけるのはダメ! 行くなら俺もだから!」
「その前に顔は……」
「痛いけど痛くないの! とにかく退治? とやらに行くなら俺も一緒だからね!」
「だが、」
「ダメなものはダメなの! 断ってもついていくからね!」
白叡の言葉を遮って、緋燿は駄駄を捏ねる。
本来ならどうして一人にしたくないのか、胸中を落ち着いて語るべきだったろう。
しかし箍が外れたように、緋燿は思いの丈をぶつけることしかできなかった。
ふとその場に似つかわしくない、くすりと小さな笑い声が漏れる。
荒い息が整わぬまま視線だけ向ければ、嘉甘が口元を軽く手で覆ったまま二人を見つめていた。
「嘉甘……」
白叡が呆れたように名を呼ぶが、嘉甘は隠すこともなく微笑を浮かべたままだ。
「良いではないですか師匠。基本、隷獣とは主人の命に絶対だと聞きますが、それもないうちに守護に熱心になってくれるなんて緋燿は間違いなく良い子ですよ!」
「しかしこの子は目覚めたばかりだ。おそらく自分でも何ができるか、分からないだろう」
「ならば尚更、師匠が外に連れ出して、緋燿自身何ができるのか教えないと」
「だが……」
「それに先ほどの様子から緋燿は腕白のようですし、師匠が目を離した隙に何か起こしても、私が対応できるか自信がありません」
「………」
白叡が返す言葉に詰まっている。
師匠に対する礼儀と尊敬の念を持ちつつも、口にすることはしかと言う。嘉甘の強かさに感心しつつ、緋燿は好機だと後に続いた。
「ちゃんとご主人守るよ! いい子にもする! ご主人のそばにいるなら暴れない! たぶん!」
先ほどより熱心に見つめ返す。この固い意志は、ちょっとやそっとじゃ曲げられないぞという意味も込めて。
わずかな沈黙が室内に満ちた後、先に折れたのはこの場で最も偉い人であった。
はぁ、とため息をつき、くるりと入口に背を向けて白叡が室内に戻っていく。
「嘉甘、君は笠を一つ持ってきなさい」
「はい」
「緋燿」
「なに?」
「ご主人。ではなく、白叡だ」
訂正するところはそこなのだろうか。
とうとう吹き出した嘉甘を横目に、緋燿も室内へ戻ったのだった。