第二十二話
一言で言うならば、その男の第一印象は「だらしない」だった。
緋燿は突然見知らぬ人が現れたことに対して疑問を持つ前に、咄嗟に鼻を抑えた。
「酒臭い!!」
緋燿は特別鼻が効くわけではなかったが、今まで嗅いだことがないほどの強い匂いに後退る。そんな拒否反応を前にしても男は豪快に笑うと、意に介せず室内へ入ってきた。
「劉家一門の噂なんぞ当てにならんと思って遊びにきてみれば、本当にいたぞ! あっはっはっは!! いやぁ、あの堅物迅義に嘉甘以外の弟子が出来たとは! んん? いや、その額……」
「梅江浪人!? どうしてここに、師匠と一緒にいたはずでは?」
嘉甘が緋燿の前に出たものの、梅江浪人と呼ばれた男は遠慮なく近寄ってきて緋燿を覗き込んだ。
緋燿は男の見つめる理由に、一瞬遅れで気が付き、額を両手で覆った。一角だ。彼の視線は人間ではない証を見つめていたのだ。
「迅義? あいつには厠に行ってくるっつって出てきたから、部屋で一人待ってるんじゃね? 本当は蔵から酒でも持ってこようかと思ってたんだが、違うもん見つけちまったぜ。ひっく」
「では早くお戻りになるべきでは? 師匠をお待たせするわけにはいきませんし、こちらも用事がありますので」
「はっはぁ! そのもの言い、ますます迅義に似てきたな? 用事っつってもここでおしゃべりしてたぐらいだ、大した用じゃないだろ?」
「その判断は師匠がいたします。とにかく言いつけられたことをしなければいけないので、梅江浪人はお早くお戻りを。お酒ならば、師匠の許可が得られればこちらからお持ちいたします」
いつから緋燿たちの様子を伺っていたのだろうか。男はほんのり赤い顔で笑みを浮かべたまま、今度は嘉甘を見やるがそれに彼が怯むことはない。むしろ白叡に対して以上に、はっきりと言い切る様は堂々としていた。
緋燿は嘉甘の後ろから二人に交互へ視線を向けた。おそらく、この男が先ほど言っていたお客様だろう。酔いが入っているのか、たしかに面倒な状態と見える。
(この人が白叡を困らせているのか)
緋燿は目標の人物に早速会えたことに、怖気付いていた姿勢を正して嘉甘の隣に並び出る。
男の視線が再び緋燿に向けられるが、今度は遅れを取らないよう気合を込めた。
「あの! 白叡を困らせないで! 白叡が待っているなら戻って欲しい!」
「……白叡?」
「そ、そうだよ! あなたがどんな人か知らないけど、ご主人を困らせるのは俺が許さないからな!」
途中男の眉間に皺が寄ったものの、緋燿はもう動じない。白叡を困らせるものを緋燿は決して許さないのだ。大切な人の助けとなりたい気持ちと、ご主人を害する相手を排除すると言う過激な本能の両方が緋燿を駆り立てる。
白叡より高い背の男を睨み上げていると、男はふと表情を崩す。
そして向けられたのは怒りではなく、さらなる高笑であった。
「ふっふはっははははは!! おい、聞いたか嘉甘! あいつ白叡って呼ばせてんのかよ。あの迅義が!? はははっ! ひっく! しかもこいつ見た限り隷獣だろ? 隷獣契約したことさえ驚きなのに、真名呼びまでさせてるとは。はははっ、んん! げほっ、いやあ! びっくりしすぎると笑いがとまらねぇもんだな。今年一番の話題だぜ!!」
何が面白いのか男の声はすぐに止むことはなく、腹を抱えて涙さえ滲ませた。
予想外の反応に緋燿が唖然としていると、隣の嘉甘は呆れた様子で軽く頭を横に振っていた。
「……こうなるから師匠はすぐにあなたに知らせなかったんだと、改めて理解いたしました」
「ふはははっ! ん、んー。けほっ。ふっ。……おうおう、そうだ。さっき会った時も受け流すだけで何にも言わなかったんだよ。まったく、友達がいのない奴だぜ」
「友達……?」
緋燿が反応すると、男は目元を拭いながら緋燿の肩を軽く叩いた。咄嗟のことに避けられなかったものの、逃げるほどの拒絶感もない。
もし男の言っている「友達」が本当のことならば、むしろ己の発言は緋燿を悲しませるものだったのではないかと考え到る。緋燿は少々勢いを潜め、男を観察した。
真紅を基調とした衣装に、目鼻立ちのはっきりした華やかと言う言葉が似合う男だった。
白叡が静寂と雪が似合う冬の男だとしたら、こちらは喧騒と烈日が似合う夏の男といったていだ。ご主人とは正反対な気性のようにも窺える。
「あんまじっと見んなよ、恥ずいな」
「! ご、ごめんなさい」
「梅江浪人が突然笑い出すからですよ。あなたみたいな人に慣れていないんです」
緋燿が謝ると、嘉甘はそれを庇うように男へ言う。しかしそんな二人の態度を歯牙にも掛けないでにやにやと眺めてくる。さすがにどのような人物なのか気になった緋燿は嘉甘の袖を軽く引いた。
「ねぇ嘉甘、この人白叡の友達って本当?」
小声とは言え、本人の前で尋ねてしまったが、嘉甘は気にした様子は見せない。しかし返答することなく、口籠ってしまった。
そして首を傾げた緋燿に対し、答えたのは男の方だった。
「本当本当! 俺たち同じ師匠の元で修行した、兄弟弟子であり、友でもあるのさ」
「兄弟弟子?」
「そそ。羅思旋老師って人がいてな、そこで俺たちは聖道師になるべく切磋琢磨してたわけよ!」
「へー!! 白叡はどんな修行をしてたの?」
「気の扱い方を中心に道術、占術、武術、神仙学とか、とにかく色々だ。迅義は道術の腕が当時の俺たちの中でも一番凄かったんだぜ。知ってたか?」
「うん! 雪みたいなので鬼妖をあっという間に退治したのは見たよ! 剣も飛ばしてた!」
「光が反射すると綺麗だよなー、あれ。本物の雪みたいだから夏はそれで涼みたいって一回言ったら怒られた記憶があるわ」
「そうなの?」
「ああ。あいつ真面目だろ? 出会った当初は、冗談通じなくてさ。まー、今もあんまり話に乗ってくれないけど」
白叡の知らない話が出てきたことに、緋燿は興奮した。友人かどうか真実はさておき、白叡を知っているのは確かなようだった。それに劉家の人たちと違い、彼の白叡に対する態度はとても友好的で緋燿の警戒も自然と薄れていく。
そうして嘉甘の停止が入らないことをいいことに彼の話を聞き続けていると、ふと男が自分の顎を摩った。
「……というか意外だな」
「何が?」
「あんだけ隷獣契約なんざしないって言ってた迅義が唯一連れ出した隷獣だから、どんなやつかと思えば普通の子供みたいな奴なんだなと。何で迅義の隷獣になったんだお前?」
「それは、分からないけど……」
「分からない?」
以前緋燿も同じ質問をしたが、結局聞き出すことはできなかった。白叡の考えは知らないことの方が遥かに多い。緋燿が知っていることは強くて物知りであること、冷静沈着でとても優しいこと。緋燿を隷獣にしたのに隷獣として扱わないこと。それくらいだった。
緋燿が黙ると男は考えこむように「ふうん」と漏らす。
「契約時のことって隷獣は基本覚えてるもんじゃないのか? 迅義には聞いたのか?」
「白叡には聞いたけど教えてもらえなかったんだ。俺自身も、隷獣になる前のことは覚えてない」
「記憶がないってことか、これで……?」
男がますます考えたように唸る。しかしそれも続くことはなく、いきなり両手を打ち鳴らすと顔を上げた。
「俺が考えることじゃないか! 迅義には迅義の道理があらぁな。じゃ、俺は酒でも取りに行く。またな嘉甘と、緋燿だっけ?」
緋燿が口を挟む前に突然話が区切られると、男は意気揚々と退出しようとする。それは現れた時と同じぐらいあっさりと唐突だった。
「望准。ここで何をしていた」
だがそんな男を引き止める声が廊下の先から投げられた。男は「げっ」と顔を歪め、緋燿と嘉甘は戸口から顔を覗かせて顔を綻ばせた。
そこにはご主人である白叡が立っており、さらに足元には小さな獣が黄と青の瞳でこちらを見つめていた。
にゃぉん。白叡が動物を連れていることも気になったが、足元の見覚えのある獣にも緋燿は目を引かれた。猫は緩やかに尾を揺らし、白叡は足音も立てずに戸口のそばまでやってくると、真紅の男に一度視線をやってから緋燿と嘉甘に体を向けた。
「……別室で待つように言ったはずだが、どうした?」
「も、申し訳ございません師匠。少々話し込んでしまいまして」
嘉甘が頭を下げる。しかし白叡は咎めることもなく小さく吐息をつくと、再び男へ振り返った。
「早く部屋に戻れ。話の途中だ」
「酒が切れたんだよ、貰ってきたっていいじゃねーか」
「お前は厠に行くと言って出て行ったはずだが?」
「あ。しまったつい」
緋燿は驚いた。今まで見てきた白叡はどんな時も冷静で丁寧な口調、態度で接していた。しかしこの男に対しては、苛立っているというのが感じ取れるほど、表面に「感情」が現れている。
緋燿も本来ならご主人を怒らせるなと男へ食ってかかるべきだと思うのに、こうした新しい一面を実際に目撃してしまうと、何故かくすぐったいような胸の疼く心地がした。
「ほら行くぞ」
「まあまあ、坊やの図々しさは今に始まったことじゃないわ。いっそのこと、この子たちにも話に入ってもらったら?」
「えっ?」
初めて聞く第三者の声に緋燿は思わず声を上げてしまう。一瞬全員の視線が向けられるものの、緋燿は声の主を探った。男より遥かに高い、鈴を転がすような声。視線の着地点にいたのは、異色瞳の猫であった。
視線が重なると猫は目を細めてくすくすと微笑む。
「猫がしゃべった!?」
緋燿は驚きで飛び上がるとしゃがみ込み、さらに視線を近づける。間近で初めて見た猫は喉の奥からころころと音を鳴らし、緋燿の目の前に優雅に足を踏み出した。
「あら? あなたも話しているんだもの、私だってお喋りくらいするわ。初めまして、迅義の隷獣さん」
「じゃあ、君も隷獣?」
「そうよ。私は彼の隷獣、胡桃。よろしくね」
胡桃はそう言うと真紅の男の肩にひょいと駆け上り、我が物顔で腰を落ち着けた。揺れる長い尾が男の背を叩く。男は鬱陶しげにしながらも猫の頭を乱暴に撫でると「はいはい」と何かに了承したように返事をした。
「胡桃の言う通り話の続きは明日、こいつらも一緒にしようや」
「……この子たちに聞かせる話ではない」
「それは俺が決める。情報を欲しがっているのがお前で合っても、誰に、どんな話をするのかは俺の自由だ」
白叡が緋燿たちを見てから首を横に振ったものの、男はばっさりと言を切る。譲らない態度に白叡の苛立ちの表情が疑惑に変わっていく。
「何故、今回だけ聞かせたいと言う話になる? 私の私情に巻き込む気はない。今までのように一人で聞くのでは駄目なのか」
「お前が隷獣を持ったからだ」
緋燿は白叡を見た。彼の言う話に緋燿も関わっていると言うのか。白叡が反論せずに黙り込む。
「そんじゃ明日、そうだなぁ天気も良さそうだし東屋で話すとするか! 酒も忘れずにな」
それを了承と取ったのか男は破顔すると、すれ違いざまに白叡の肩を叩いて行ってしまった。
帰宅早々嵐のような展開に緋燿はただ見送ることしか出来なかった。一体何の話をするのか、緋燿にどんな関係があるのか分からない。それに白叡が同席することを酷く嫌がっているようだった。
「師匠、本当に同席しても宜しいのですか? 梅江浪人とのお話はいつもお二人だけでなさっていましたよね?」
緋燿が言い出す前に、嘉甘が白叡に問う。白叡は男の背を黙って見送ったが、姿が見えなくなると寄っていた眉間を揉んだ。
「……今回ばかりは仕方がない。望准のあの様子は、本当に私一人だけでは口を割らなさそうだ」
「そうですか……。では緋燿を部屋へ送った後、明日の席の用意をいたします」
「いや。緋燿は私が部屋に連れて行く。嘉甘は席の用意を、酒を多めに頼む」
「……はい。承知いたしました」
嘉甘は素直に頷くと、一礼してそのまま出て行ってしまった。残された緋燿は白叡を見上げる。白叡は視線を交わすと「こっちだ」と緋燿を促した。広い廊下に出て、ご主人の一歩後ろを歩く。
「白叡、あの人と友達なんでしょう? お話いっしょに聞けって言ってたけど、どんな話をするのかなぁ?」
何気ない質問のつもりで緋燿は声をかけた。
「……面白い話ではないぞ」
白叡は振り返らずに答える。疑問には分かりやすく簡潔に答えてくれた彼の、今までとは違うぼかしたもの言い。緋燿は思い出す。このような態度に覚えがあった。
(どうして俺と契約したのか、話してくれなかった時と同じだ)
白叡が話せないと判断したことを無理に知りたいとは思わない。だからといって知りたい欲求がなくなるわけではなかった。緋燿は白叡の大きな背を追う。明日の席に参加する事は主人の心を害することに繋がるのではないかという不安があるものの、同時にこれは好機だとも思う。
(俺は白叡のことを、もっと知っていたい)
これも隷獣の本能なのだろうか。緋燿は明日の話とやらに期待を抱かずにはいられなかった。