第二十一話
にゃぉん。
緋燿は聞こえた鳴き声に辺りを見渡した。
白叡の後に続いて門を潜った十数日振りの銀寒邸は、隷獣として目覚めた時と変わらぬ姿でそびえ立っている。薄く積もっていた雪は完全に溶け切っていたが、肌を撫でる気温は道中よりはるかに涼しい。遅れて春を知らせるように門脇や庭先の草花は青々と新芽を芽吹かせていた。
にゃぉん。
もう一度聞こえてきた鳴き声に今度は笠を取って見渡してみる。布越しに見えていた景色が明確な色彩を放つ。穏やかな光と風に垂れ布が揺れた先、よく見ると柱の後ろから小さな影が覗いていた。緋燿は初めて目にした姿に自然と口角が上がった。
「白叡、あれ猫だよね? わー、可愛い」
淡い茶色の短毛に、黄と青の異色瞳(*虹彩異色症、オッドアイのこと)が特徴的な一尺(約30cm)ほどの体躯。ぬるりと四足を伸ばしたかと思うと、軽く長い尾をなびかせて塀影に消えていった。白叡も猫の姿を視界に捉えたようで、同じ方向を見つめている。しかし何故か緋燿と違って表情が僅かに険しくなっていた。
「白叡?」
「……いや、先に服を着替えてきなさい。嘉甘に先に文で頼んで用意してもらっている。あっちだ」
指し示す方向は見覚えのある通路。緋燿が初めて目覚めた部屋と繋がっていたはずだ。
「わかった。着替え終わったら白叡のところに行ってもいい?」
「……そうだな。嘉甘とも会うだろうから、一緒に来なさい」
「うん!」
白叡の表情が戻り、送り出される。
(猫、嫌いだったのかな?)
緋燿は気になったものの、素直に白叡の言葉に従って部屋に向かった。
現在着ている服は、見た目は銀寒邸で着させられたものと同じものだ。しかし実物は手の中で泥がついたまま畳まれている。そう、本来なら田快の村で買い取った衣服を着ていたはずなのだが、何故か沼に落ち、獣型から人型になった時に服まで変わっていたのだ。
帰りの道中で白叡に聞いてみると、どうやら衣類も人型の一部として認識して、変化する時に一緒に作ってしまったのではないかとのことだ。しかしこの場合、脱ぐと消えてしまうことから気が弱まったり、乱れたりしたら服も無くなってしまう可能性があるため、緊急時以外はきちんと実物のある衣類を着用するよう言い含められた。
(変化した時に脱げちゃう服は、後々回収しに行かないとなぁ)
村で買い取った服は獣型に変化した際に結局置き去りにしてしまった。価値の問題ではないが、白叡から渡された服は置いていかないよう気をつけねばと、緋燿は固く決心した。
到着した部屋は見覚えのある、静かな空間だった。棚や衝立、卓子、椅子(*ここでは背もたれのあるものを指す)など最低限の物のみ用意された、落ち着いた雰囲気に胸を撫で下ろす。
(ここで、目を覚ましたんだっけ)
自分が横になっていた場所を見ると、敷物が敷かれている。たいして時間が経っていないはずなのに懐かしさを覚えた緋燿は蹲み込んで敷物の表面をなぞった。起きた時は気にしていなかったが、こちらも落ち着いた色合いなのに滑らかな手触りが質の良さを伝えてくる。
ふと背後で気配がした。緋燿が振り返ると丁度戸が開かれるところであった。
「お帰りなさい、緋燿」
「嘉甘!」
緋燿はぱっと立ち上がった。青年は優しい眼差しで微笑んだまま、ゆったりとした足取りで緋燿の側までやってくると手に持っていた布を卓上へ置く。
「師匠から聞いてます。さあ、こちらが着替えですよ。一人で出来ますか?」
「うん。やってみる」
広げたれた布は以前着たものと似ている。手順を頭の中で誦じていると、衝立の後ろに誘導されたのでそのままそこで着替え始めた。板石の上に脱いだ衣は白叡の言った通り糸が解けるように消えていく。しかし羽織るだけでも着ていることになるのか触れている衣が消えることはなかった。己が作り出したものなのに基準が分からない曖昧な代物を、なるべく理解出来るように一枚一枚扱っていく。時間がかかってしまっているものの、衝立の向こう側にいる嘉甘がそれを責め立てることはなかった。
「そう言えば、初めての外出はいかがでしたか? 文で用件だけ言われ、先ほど師匠に挨拶した時も特に話されませんでしたので」
「白叡は凄かったよ! 森に出たっていう鬼妖は風を操る奴でね、他にも人がいたんだけど、白叡があっという間に退治してしまったんだ!」
嘉甘が触れた話題に、緋燿は揚々とつぶさに答えていく。
白叡が強かったこと。劉俊冉と鉢合わせ、嫌なことを言われたこと。連れられた場所がとても綺麗だったこと。食事がとても美味しかったこと。他人とあまり喋れなくて反省したこと。そして田快と出会った村で起こったこと。
今まで見た光景を思い出しながら良いことも、少々気に障ったことも緋燿は嘉甘に語り、終わる頃には既に着替えも終えて椅子に腰かけて続けたほどだった。
「とても素敵な思い出が出来たんですね。よかった」
話の区切りで嘉甘がしみじみと頷く。思い出、という言葉に緋燿は胸が温かくなった心地がした。
(これが、思い出。俺の新しい記憶、かぁ)
失ったものを埋めるように、新たに刻まれた情景が緋燿を満たす。自然と笑みが浮かんだ。
「俺、もっと白叡といろんな場所に行って、いろんな経験がしたいな」
「ええ、緋燿は師匠の隷獣です。きっと行けますよ」
嘉甘の肯定に緋燿は嬉しくなって足をゆらゆらと揺らして遊ばせた。嘉甘が小さく笑い声を漏らす。
「ん? 嘉甘、どうしたの?」
「ふふっ、いえ。大人っぽく成長した話し方だと思ったのですが、そういう仕草を見ると内面はあまり変わっていないのかなと」
「お、大人っぽく? 俺、何か変わった?」
「悪いことじゃないですよ? ただ出かける前、緋燿はもっと幼い口調だったと記憶してましたが、今は見た目の年相応な気がします」
「そうかな……? 自分じゃあよく分からないや」
意識してなかったが、見た目だけなら嘉甘とさして変わらない外見だ。しかし師匠の指導の賜物のせいか、嘉甘の口調や所作は丁寧で落ち着きがある。緋燿が少々大人っぽい話し方になったところで、たいして成長した、変わったという自覚は生まれなかった。
「……それだけの経験を緋燿は積んだということです。聞いた限りでは、その村の鬼妖はかなり強い部類に入るでしょう。師匠以外の方が遭遇していたらどうなっていたか」
「そんなに?」
「ええ。何十人もの念が固まった鬼妖などそうそうお目にかかれません。しかも一人でなど、他の一門なら複数人で対応してもおかしくない案件です」
「じゃあ、やっぱり白叡はすごいんだね」
以前の劉俊冉の嫌味たらしい物言いより、嘉甘の賞賛のほうが素直に緋燿に響いてくる。
「はい。身内贔屓と言われてしまいますが、師匠は素晴らしい方です。張り合える人など……あ」
嘉甘がふと言い淀む。そしてがたりと椅子から立ち上がった。
「いけない。すみません緋燿。ずいぶんな時間話し込んでしまいましたね。師匠から着替えたらすぐに別室へ移動しておけと言われていたんです」
「え? 白叡のところには行かないの? この後行ってもいいって」
「予定変更だそうです。……今、来ているお客様が面倒な状態になっていまして。師匠もその対応で少々手が離せないのです」
「そんなに!?」
鬼妖さえあっさりと鎮めた白叡が手間取る相手に緋燿は震撼した。ならばなおさら緋燿が出向いて主人を守らねばならない。緋燿は立ち上がった。
「じゃあ、俺が行かないと!」
「え」
「あの白叡が大変だと思ってるなら、こんな時こそ俺が役に立たないと!」
「いえ、あの」
「どこにいるの? どんな奴? 白叡に何したの?」
「ほーう。これが迅義の新しい連れか」
突然割り込んできた声に、二人の体が固まった。
興奮していたせいで気付かなかったのだろう。おそるおそる振り返ると、戸口に寄り掛かった一人の男が不敵な笑みを浮かべてこちらを見つめていた。