第十九話
「陳柘……?」
その名前を呼んだのはいったい誰だったのか。緋燿が解いたはずの糸群の内、薄黄色の糸が徐々に集まったかと思うと、人の形になっていく。そうして半透明で向こう側が透けて見えるものの、完全な姿を取り戻したそれは空中に浮かびながらこちらを見下ろした。
「母ちゃん!!」
「なんじゃあ、いったいこりゃ……」
特定の人だけでなく、この場にいる全員に見えているらしい。彼女・陳柘と同郷の三人は水に落ちないぎりぎりまで近づいていく。必然的に緋燿と白叡は少年たちの後ろを一歩引いた状態で見守っている形となった。
「陳柘は、生き返った……わけじゃないよね? 浮いてるし、透けてるし」
「あれは、霊だ。肉体を失った魂のことをそう呼ぶ。……本来は見えるものではないのだが」
白叡が緋燿に視線を移すものの、何も聞かずに視線を戻す。
確かに変化前に戻す、つまり陳柘を取り戻すつもりで力を使ったが、結局どうして彼女が全員に見えるようになったのか緋燿には分からなかった。
「しかし器を持たない霊は速やかに冥界へ行く。彼女も、もう消えかけている」
白叡の言葉通り、元々透けていた体がだんだん輪郭すら朧になっていく。そのうち呼び掛けても反応を返さない陳柘に対し村長は一方的に謝罪を述べ続け、陳莇は妹の名前を繰り返し呼び続けた。
殺してしまってすまない
死の理由を偽ってすまない。
息子を騙してすまない。
化け物にしてしまうほど恨ませてしまってすまない。
緋燿は先ほど陳莇の苦しみを肌で痛いほど感じ取った。そして今、村長の涙声と小さく震える背中を見ていると、彼も相当辛かったのではないかと思うのだ。
極端な話、儀式が正当なものだと言い張れるのならば隠す必要事態ない。堂々とやれば良い。しかし犠牲を強いることへの良心の呵責か、はたまた時代の移り変わりで儀式が世の中で忌避されていることを知っているせいか。緋燿には理由を理解できないが、村長も含めた村人たちもまた、相反する感情の板挟みに苦しんでいたのやもしれない。
(どっちにしろこれ以上田快も、陳莇も、陳柘も、誰も傷つかないで欲しいな)
田快は二人と違って、涙も謝罪もない。ただ唇を固く結んで母親を見上げ続けていた。消えかける陳柘が息子に何かを言うこともない。
「陳柘は何か言ってくれないのかな……? 俺、陳柘と話せたらきっと何か変わるんじゃないかと思って、だからやってみたんだけど。意味、なかったのかな?」
「……もともと霊は喋れないものだ。肉体などの器があって初めて喋れるため、伝える場合は直接魂に語りかける心霊感応(*テレパシー)になる。それに霊は思考しない。生前の強い意志が残っていた場合に心霊感応の例がある程度だ」
「そう、なんだ」
己の知識不足に肩を落とした。
これでは陳莇の姉や死への未練はなくならず、何も言わない田快も心内に言葉に出来なかった気持ちをため込み続けることになるのではないだろうか。しかし緋燿はこれ以上どのように手を尽くしたら良いのか分からなかった。
陳柘を形造る薄黄色の糸が解け、蜘蛛の糸以上に細くなって消えていく。天地に吸い込まれるように消えていく。
緋燿が思わず手を伸ばしかけた、その時だった。
「生きて」
朗らかで温もりのある、聞き覚えのある声がした。
陳柘の動いていなかった目が細まり、口角の上がった唇が開かれたのだ。
「生きて、幸せになって」
緋燿は涙が溢れるのを止められなかった。
陳柘の最後を体感した緋燿は知っていた。冷たかったこと。苦しかったこと。痛かったこと。
不幸を、死を与えた村に対して恨みを返すことだって出来たのに、それでも彼女は受けた幸せを忘れなかった。家族の幸福を祈り続けた。
最後まで、強く、強く、愛を還すことを願っていたのだ。
「柘柘……、柘柘……! ど、して、そんなこと、いうの……? だって、あたし……」
陳莇も茫然としながら、溢れる涙を止められずにいた。陳柘の霊が言っていることを受け止められず、首を無造作に振る。その間も陳柘の心霊感応は続き、ただひたすらに同じ言葉を繰り返し伝わってくる。「生きて欲しい」「幸せになって欲しい」人間なら誰しも願うような当たり前で、大切な思い。恨み辛みではない。それこそが生前の彼女の強い思いであった。
緋燿の脳裏に最後まで陳莇を信じ、手を伸ばしていた陳柘が思い浮かんだ。
「確かに苦しみとか、恨み言があったのかもしれない。でも、それ以上に陳柘は田快と陳莇が幸せでいて欲しかったんだよ。だから苦しくっても、楽しかったこと、幸せなことを否定しないであげて」
陳莇の後方から、緋燿は思いついたままの言葉を伝える。追憶で見てきた彼女はいつだって息子と姉を気にしていた。だからこそ言えた言葉だった。
「でも、あたしのせいなのに……。柘柘も田快も、台無しにした、あたしの、身勝手さが、招いたのに……」
しかし長年貯めてきた屈折した後悔は、余所者の指図ですぐに解消されることはない。否定的に首を振り続け、ついには顔を下げてしまった。消えかけの陳柘に残り時間はほぼないと言うのに。緋燿がもう一度声をかけようした。
しかしその前に田快の手が陳莇の手を掬い上げた。陳莇はそれに体を強張らせたが、自分から手を振り払うことはしなかった。抵抗されないことを確認した田快はそのまま弾かれたように叫ぶ。
「母ちゃん、おれたち約束する! 母ちゃんの分まで絶対に生きる。大人になって、爺ちゃん婆ちゃんになって、元気に死ぬまで精一杯生きるから! そんで、母ちゃんの所に行ったら思い出話たっくさんするから。だから母ちゃんも、おれたちのこと忘れないで待っててね! ……さよなら、大好きだよ!!」
涙を流し、それでも陽気な笑顔のまま田快は大きく手を振った。
同じく握られた陳莇の手も陳柘に向けて振られる。
それに満足したのだろうか。陳柘は柔らかい笑みを浮かべたまま、陽光の中に溶けていった。
何もなくなった水面の上。陳莇はいつまでも視線を逸らすことはなく、甥の一回り小さい手を離すことはなかった。




