第十八話
ふらふらとおぼつかず、それでも風に乗ったかのような軽快な足取りだった。
「陳伯母ちゃん?」
田快が陳莇の名前を呼ぶものの、彼女は聞こえていない様子で進み続ける。
どうやって力を取り戻したのか、地に落ちていた蔓が再び持ち上がる。しかしその狙いが定まることなく、明後日の方向に伸びては地面をえぐり、樹木をなぎ倒した。
唄が響き渡る。彼女の喉が潰れているのか酷く聞き取りづらいものの、子守唄ではなく、本来の意味合いの唄詞を唄っているのは確かだった。
「唄をやめよ!」
鬼妖が唄に反応を示したことを察した白叡が蔓を払いながら陳莇に呼びかける。しかし不規則な攻撃の中、その場から動きだすことが出来ないでいた。位置を見れば田快と村長を白叡が守っているのは一目瞭然であった。
「俺が行く!!」
動けぬ白叡の代わりにと緋燿が風刃で蔓を落としながら猛撃を掻い潜った。最初に追いかけ回された時と違って、蔓の狙いはこちらに向いていないものの、単純に動きが激しかった。
いくつか傷をこさえながらもなんとかたどり着くと、不思議なことに陳莇には傷一つなく、ただ陳柘の形をした頭を見上げて唄い続けていた。
「唄をやめて! あの鬼妖は陳柘だけじゃない、今まで生贄になった人も混ざっている。だからその唄に反応しちゃってる、これ以上暴れさせないで!」
陳柘の頭があるように、他に生える人型の頭も生贄となった人を模しているのだろう。奇声を上げて暴力を振るう鬼妖はいっそ苦しんでいるようだ。
「鬼妖は白叡が退治する。これ以上刺激しないで!」
緋燿は彼女を止めるために必死に呼びかける。しかし一向に止める気配はなく、いっそ直接口を塞ぐべきだと緋燿が実力行使に出ようとした時だった。
突然、陳莇がぴたりと唄を止めた。腐れた果実が落ちる寸前のような、今にも折れてしまいそうな首が緋燿の方へ傾き、ぎょろりと見開かれた瞳が初めてこちらを捉えた。
「退治? 違うわ。あの子があたしを殺すのよ。この村も、醜いもの全部一緒に死ねばいい」
「何を、言って…」
「自分を殺した相手を、殺し返したい。そんなの当然だわ、だからこうして出てきてくれたんでしょう? 三年間ずっと待ってたの、早く、早く早く!」
狂ったように鬼妖へ手を伸ばす陳莇の腕を緋燿は引き戻す。
生者は生者によって救われるべき。母を失った田快が、未来で幸せになるためにはもう何一つ失わせてはいけない。
「あなたは生きて田快のそばにいてあげなきゃ! 陳柘はもういない、田快の家族はあなただけなんだ!」
「罪深い私はもうあの子のそばにはいられない!」
「もう田快はあんたの罪を知っている! だからこそ、これ以上彼を辛い目に合わせないでくれ!!」
自暴自棄に吐露した彼女が、目を見開き田快を見た。驚いたせいで力が抜け、湿った土に膝をつく。
「な、んで? だって、あたし言ってない。みんなに協力も、してもらったし、田快にだけは、教えないようにしようって……」
「俺が、教えた。理由を話すと長くなるから今は言えないけど。生贄の儀式のことも、陳柘が死んだ時に、一緒にいたのがあなただということも伝えてある」
緋燿がそう答えると、陳莇はとうとう両手で顔を覆ってしまった。
唄が止んでも未だに暴れる蔓を風刃で切り裂く。騒音の中、彼女の指の隙間から溢れる嗚咽と細く小さくなった声を聞き逃さぬよう緋燿も膝を折った。
「だからこそ、罰して欲しかった……」
届かない懺悔が溢れ出す。
「本当は陳柘が田快と生きて幸せになるはずだった。でもあの時、代わりにあの子が死ねばなんて一瞬でも考えてしまったから、差し出す手を間違えてしまったから、柘柘は死んでしまった。償いにと自己満足で田快の面倒も見た。でも償いにすら幸せを感じて暮らしてしまった。あんなに怖いと、嫌いだと思った儀式の果てに幸福を見出してしまった。柘柘とは違う。逃げる努力も、逆らう意思も、真実を告げる勇気も、何もない醜いあたし。そんなあたしがあの子とこれ以上一緒に生きていくのは、幸せだと感じてしまうのは怖い……」
幸せが怖い。優しくされるのは辛い。愛しているのに憎い。本来相反しているような心が混ざり合って、陳莇を苦しめる。
緋燿にも覚えがあった。白叡に優しくされているのに、本能故か真っ直ぐに受け止められないのは辛かった。彼女と違う点があるとすれば、白叡は生きていて、陳柘は死んでいるという点。言い合って、折り合いをつけられる緋燿たちと違って、陳莇はもう陳柘とやり直すことが出来ない。
(断ち切らなきゃいけない)
辛くとも、苦しくとも、生きていれば生者に慰められ、素直に幸福を受け入れられる日がいつか来るかもしれない。けれど陳莇が未来へ生きていくためには、死者である陳柘や冥府に焦がれる心を断ち切らなければならない。
緋燿の一角に熱が灯る。
猛撃の続く蔓の中、陳莇を背にしながら緋燿は鬼妖を見た。己の内の二色の糸を編む。今まで以上に一角に熱が籠る。
すると不思議なことに、今までの視界から景色が一変していた。
見えている物や人、実際に見えていたものは変わりなく見えている。だかそれに重なるように、全てに糸が見えるのだ。
(これは、みんなの気?)
大地や樹木、白叡や田快など全てに糸が重なって見える。糸は一つとして同じ色はなく、絡むことなく流れるように巡っている。しかしその中で緋燿と鬼妖の糸だけは違った。緋燿の糸は白と黒の二色。複雑に編み込まれるも一定に巡っている。そして鬼妖の糸は何十色もの糸が結ばれ、絡み合って団子状になっていた。そしてひどく汚れているように見える。
緋燿は察した。糸が絡むのは変化し、違う存在に作り変わったからだと。つまり。
(糸を解けば、変化前に戻るかも……!)
証拠もない確信に、緋燿は鬼妖へと己の気を伸ばす。しかし緋燿の糸が鬼妖の団子状の気に触れた時、悲鳴とも呼べる絶叫が上がり、今度は意思を持って全ての蔓が一斉に緋燿に襲いかかってきた。
その総数に一瞬で悟る。捌ききるのは不可能だと。
だがそれを見事捌ききったのは白叡だった。一瞬で緋燿以外に攻撃がこないと判断し、緋燿のそばに降り立つと剣を振るった。
「今、何をしている?」
激しく危険な状況下でも、一人冷静さを失わないご主人に安堵の吐息を吐きながら、緋燿は集中し続ける。
「解いてる! 上手くいけば鬼妖が大人しくなるかもしれない!」
何を解いているのか説明になっていない応えであっても、白叡は一つ頷くと鬼妖の攻撃を退けることを優先してくれたようだった。白銀の刃は正確に近く蔓を切り落とし、空中に雪のような気が舞ったと思ったら、氷の槍となって沼から這い出す腕を刺し貫く。四方八方際限なく続く襲撃を一人で打ち払う姿は、まるで踊っているかのように優美であった。
一瞬見惚れてしまったものの、緋燿は急いで作業に取り掛かる。直接鬼妖に触れることはできないので、己の気を伸ばし、糸先で少しずつ解いていく。団子状になっている糸は固く、数も多いので複雑だ。どこから手をつけていけばいいのか戸惑ったものの、緋燿へ攻撃を一切通さない白叡の姿に奮い立たされる。
(白叡は任せてくれたんだ。俺が言い出したこと、しっかりやらなくちゃ!)
気合を入れ直し、糸先に集中する。どれだけ複雑であっても、本来は別々のもの。緋燿は慎重に、けれどなるべく素早く糸を解き始めた。
そうして時間をかけ、最後の一本を抜き取った時に異変は起こった。
鬼妖の咆哮とともに攻撃が止むと、鬼妖の体がぱらぱらと砕け始めたのだ。蔓は不自然に切れて地面に落ち、巨体の表皮は風化して粉々になる。ついていた頭は瞳を閉じて水面へと落下していく。そして周囲を覆っていた濃霧が徐々に薄くなっていく。
事態が収拾されていくのを感じ取ったものの、大人しくなるどころか、完全に崩壊していく様に緋燿は慌ててしまった。
(これじゃあ、けじめをつけるどころじゃない!)
糸を解けば変化も解け、一瞬でも陳柘の霊が、語らう時間が戻ってくるかもという安直な考えが打ち砕かれる。
崩壊は早く、見上げていた巨体があっという間に沼へ沈んでいく。
「柘柘!」
「母さん!」
呆然と見送っていると、田快と陳莇が沼縁へ駆け寄っていく。二人の表情は歪み、水面へ呼びかける声から悲しみが伝わってくる。
(どうしよう、失敗? 二人になんて声をかけたら……)
目論見が外れ、後悔の念が緋燿に押し寄せた。
しかし沈む思考を引き上げるように肩が叩かれる。そちらを向けば剣を収めた白叡が、上空を指し示していた。
示す方角を辿ると薄霧を割って、眩しい日差しが暗かった水面を照らす。夜だった刻はいつの間にか濃霧の向こうで朝を迎えていたようだ。崩れゆく鬼妖にも分け隔てなく、日差しは平等に大地へ降り注ぐ。
そして緋燿は一色の糸を見た。