第十七話
「げほっ、ごほっ。ごほっ、こほ、っぁ、はぁ」
「緋燿、水を吐け。なるべく大きく息をして、意識を再び落とさないよう意識を保て」
「けほっ、……っふう、はぁ、すう、はぁ」
「その調子だ。くっ、少し揺らすぞ!」
「すぅ、ん……? て、ちょ、ぐえっ!?」
白叡に従い、苦しい息を整えていた緋燿だが、ぐるりと急に視界が回った。
夢のような世界から覚醒し、曖昧だった肉体に負荷がかかる。
潰れた鳴き声のような声を上げて緋燿は転がされるまま後退させられた。人型の体が無様に倒れた隣を風切り音が駆け抜ける。細長くも、強くしなったそれは緋燿が沼に落ちた元凶の一部。無数の蔓が緋燿たち目掛けて襲いかかっていたのだ。
慌てて体勢を立て直す。前方には沼に落ちる前に現れた鬼妖と、それに対峙する白叡。
そして緋燿と同様に、沼から少し離れた場所に田快と、落ちる前にはいなかった村長が身を縮こまらせていた。
「兄ちゃん!」
駆け寄ってきた田快が濡れた衣にも構わず、ぎゅっと緋燿に抱きついた。
「ごめん、兄ちゃん、おれのせいで落ちちゃって、おれ、何にもできなくて……ごめん、ごめんなさい」
しゃっくりを上げながら謝る少年に、もう鬼妖を母と呼び近づく気配はない。安心させるよう田快の頭を撫でた。
「無事でよかった。ところで、どうして白叡がここに? ……それに村長も」
緋燿は村の儀式の先導者を思わず警戒しながら尋ねる。一度村長を見やった田快は安心した様子で答えた。
「兄ちゃんが落ちてすぐに来てくれたんだ。村長が聖道師様をここまで連れてきてくれたんだよ」
衝撃音とともに細かい水飛沫が舞う。白叡が剣で蔓を牽制し、粉雪のような白い気の結晶が鬼妖の動きを翻弄している。しかし以前の風を操る鬼妖と対峙した時と違って、一瞬で勝負がつくことはない。所々凍りつく巨体は頭が鳴いたり腕が振るわれたりすれば簡単に結晶が剥がれ落ち、水面からは次々と蔓が現れる。
鬼妖の圧倒的物量は、他者を庇いながら闘う白叡に致命傷を負わせることもないが、反対に滅せられるほどでもない。膠着した攻防はただ激しさのみ増していく。
白叡に加勢をしなければと本能がいう。しかし今まで見てきた追憶が、理性を通して緋燿に訴える。
(このまま鬼妖を退治していいのか……?)
この沼には生贄になった人たちの骸がある。鬼は死者の強い念が変化するもの。つまりこの鬼妖には陳柘の念も籠もっているはずだ。息子に別れも告げられず殺された彼女の思いは、このまま斬り伏せられてよいものなのだろうか。
しかし時間が止まることはない。
とうとう白叡の術に耐えきれなくなったのか、結晶と共に枯れ木のような表皮も剥がれ落ちてきた。鬼妖の絶叫とともに均衡が崩れていく。猛威を振るっていた蔓は最後の抵抗とばかりに激しさをいっそう増していく。だが白叡が後方へ伸びることを許すことはなく、白銀の刃が糸を切るように断つ。このままでは白叡は躊躇いなくこの鬼妖を退治してしまうだろう。
「白叡待って!!」
怠い全身を叩き起こし、緋燿は白叡の前に飛び出した。背中に鬼妖の攻撃の衝撃が当たって息が一瞬詰まったものの、それが最後の力だったのか、巨体は奇声を潜め、蔓は力無く地に落ちた。
白叡がそばに駆け寄ってきて、背に手をかざす。
「緋燿、あまり無茶をするな」
手をかざされた部分に心地よい温もりが灯る。しかし緋燿は傷にも構うことなく、白叡の衣を掴んだ。
「このまま、あれを殺さないで」
「あれほど強い鬼妖を野放しにはできない。このまま放置すれば、あれは人を次々と沼へ引き込み、殺す」
「でも、陳柘なんだ。田快のお母さんなんだよ?」
「……何言ってるの、兄ちゃん?」
突然出てきた陳柘の名前に反応して、田快がおそるおそる近づいてくる。しかしそれ以上に過剰反応したのは村長だった。先ほどまで震えていた気配も残さず、慌てて緋燿に詰め寄った。
「おまえ、何を知っておるのだ……!?」
どこにそんな力が残っていたのか、素早い動きで胸ぐらを掴まれそうになったが、その前に白叡が鞘で村長を制した。
それ以上近づくことの出来なくなった村長は、黙ったまま剣呑な目つきで緋燿を睨みつけている。
村長の豹変に驚く田快だが、それ以上に緋燿の話の方が気になったようだ。裾を引っ張って、緋燿に話しの先を催促した。
白叡を止めるため思わず口にしてしまったが、田快に直接話すのも躊躇われた。
(どう説明すればいい? 君の伯母が母親を殺したと、そんな辛いことを伝えていいのか?)
ちらりと視線だけで鬼妖を振り返る。沈黙している鬼妖の頭、中央の陳柘の顔は一枚のお面のように固まったままだ。緋燿が言い渋っていると、白叡も鬼妖に視線だけ向けた。
「……これは鬼だ。この沼で死した者が大勢いることは分かっている」
悩みの種が分かっているかのような先回りした言い方に、緋燿ははっと白叡を見上げた。
「なぜ死んだのか、理由は私も分からない。鬼になる程だ。理不尽で非業な死を遂げたのかもしれない。同情するような悲しい死を遂げたのかもしれない。生まれた鬼妖に罪はなく、生んだ生者に罪があるのかもしれない」
彼の凪いだ視線は、眼前の鬼妖を通して違う何かを見ているかのようだった。そしてその静かな視線が緋燿に降りてくる。
「だが決して鬼が生者を殺して良いという理由にはならない。未来へ生きず、過去に執着する鬼に裁きを許せば、生者と死者の世界は瞬く間にひっくり返る。だからこそ生者は生者で裁き、慰め、救われなければならない」
裁きや世界といった壮大すぎる単語は緋燿にはほとんど理解ができなかった。だが最後の言葉だけは納得できた。
生きている者は、生きている者でしか救われない。
その通りだと、緋燿は思った。
陳柘は生き返ることはなく、たとえ鬼になって帰ってきたとしても三年前までの幸せそうな生活に戻れるわけでもない。過去の幸福を抱き抱え泣く田快に寄り添って、一緒に生きていけるのはもう陳柘ではないのだ。
(辛くとも、これ以上泣かせることになるとしても、ちゃんと真実を伝えよう)
母親と同じ視線で追憶を辿ってきた緋燿はそう決心した。
田快の正面に向き直り、真摯に彼の瞳を見つめる。
「沼に落ちてしまった時に陳柘の夢を見たよ。……馬鹿らしいと思っても、信じられないと思っても、一旦最後まで全部聞いてほしいんだ」
「……わかった」
神妙に、しっかりと田快が頷いたのを皮切りに緋燿は語った。
追憶は長すぎたので、己の中でで噛み砕き抜粋しつつも最後まで話した。この村に伝わる儀式から、陳柘の死の光景まで全てを。
荒唐無稽な説明に最初は黙って聞いてた田快だったが、母の死の場面では顔色を青ざめさせ、村長を振り返った。
同じく聞いていた村長は緋燿の説明を止めようとしたのか途中で白叡に制されたものの、同じ場面の説明には田快と同様に顔色を悪くして、振り返った彼と視線を合わせようともしない。
それが答えだった。
田快は村長を倒すほどの勢いで、彼にぶつかっていった。
「どうして! どうしてそんな儀式やらなきゃならなかったの!? そんなの言い出さなきゃ伯母ちゃんは、伯母ちゃんの代わりに母ちゃんが死ぬこともなかった!」
「仕方なかったんじゃ。誰かが村のために贄にならなければ、村は滅んでいた。沼の恩恵だけで生き延びてきたここでは、ぬまとこさまの恵みが全てじゃったんじゃ」
「母ちゃんみたいに外で生きていけばいいじゃないか!」
「馬鹿を言うんじゃない、簡単に故郷を捨てようなんて。この村で過ごした平和を、幸せを、全てを捨て去って、明日も生きれるかわからん不安定な他所に移れるものか。田快、数年しか生きていないお主にとってもこの村は幸福そのものだっただろう?」
「それは……!」
「わしらはその何倍もの思い出と幸福をこの故郷で重ねて生きてきた。生贄の伝統こそ不幸と忌避するやもしれんが、儀式自体何十年に一度だけ。人生に何度もないこの儀式を乗り越えるだけで、村全てに恵みが溢れ、幸せになれるのならば、わしは喜んで儀式をやろう」
「でも、そんな、母ちゃんの死が幸せなんて、言えるわけない……!」
同郷で同様の幸せを享受してきた二人だが、田快が納得することはない。しかし、それ以上村長を責める声も罵倒する声も少年からは出てこなかった。苦しげに表情を歪め、唇を噛み締める。
緋燿はそんな田快の背を摩ることしか出来なかった。
「生贄は聖道師という存在が現れる前、太古より行われた儀式だ」
今まで口を挟まなかった白叡に三組の視線が集まる。
「恵み。現在で言う気が枯れた土地で生贄を捧げると、人が持っている気が放出され、大地に還り、一時的に大地が蘇る仕組みになっていると言われている。しかし実際は気とともに、死した人の霊が恨みによって鬼となりさらに土地を枯らすことの方が多かったという」
「じゃあ、なんでこの沼は枯れないの?」
「もともと変化するほどの強い恨みがなかったからだろう」
緋燿はその言葉に驚き、思わず沼を見た。
「まだ倒しきっていないがあの鬼妖の邪気を除いても、この沼に溜まる気は清浄だ。本来鬼が発生するような場所は怨念に満ちていて、分かりやすいものだが、ここで何人もの生贄の儀式が行われていたとは聖道師の殆どが分からないだろう」
「贄になった人は、わしらを恨んでないと?」
「鬼妖になるほどではなかったというだけだ。生贄という儀式を容認しているわけではない」
ばっさりと村長の発言を切り捨てた白叡の表情は、未だ悩ましげに鬼妖に向けられている。
「だからこそ、この鬼妖はおかしい。なぜこうも異形な変化を遂げている? この日この時に生まれたきっかけがあるはずなのだが……」
緋燿も同じく鬼妖を見つめる。未だ沈黙した鬼妖は、本来変化するはずのない霊から生まれたという。成り立ちの分からないものは、酷く緋燿の心をざわつかせた。
「……母ちゃん、本当に恨んでないのかな。生きてるおれをうらやましいって襲ってきたんじゃないのかな?」
黙って話を聞いていた田快が鬼妖に映える頭を見つめつつ、ぽつりと言葉を零した。
緋燿は少年の隣に並ぶ。
「そんなことないと思う」
「……どうして?」
「陳柘の過去を見たからさ。俺は田快を庇って、田快の代わりに沼に落ちて夢を見た。他人の俺にでさえ幸せに見えた世界を、本当は田快に見せようと思ったんじゃないかって考えると、憎いって感情以上に好きって気持ちが溢れてたと思うんだ」
楽天的な考えかもしれない。しかしもう陳柘の本当の気持ちを聞くこともできない緋燿にとって、この解釈が全くの間違いでもないと思いたい。
田快は「そっか」と何か考え込むと、白叡に駆け寄った。
「聖道師様。この鬼妖は殺すんですか?」
「そうだ。ここまで変化したものを放置するわけにはいかない」
「一つだけお願いします。どうか苦しませないでください。化け物になっちゃっても母ちゃんなんです」
「……承知した」
決意を秘めて願う少年に、白叡は頷くと切っ先を下げていた剣を鬼妖に向け直す。
だがその剣が振り下ろされる前に、甲高い女性の声が響き渡った。
綱囲て 目合って 焚き上げて 憂う子 愛い子も 眠りましょう
父 母 坊と 手を霧へ 沼床様へ 祈りましょう
澄め身を大地へ 還しましょう 澄め気を天へ 還しましょう
すると沈黙していたはずの鬼妖の頭が全て目を見開き、一斉に奇声を上げ始める。
儀式を遂行するため、生贄に決まった人へ繰り返し唄われた戒めの唄を唄いながら、彼女は両者の前に舞い降りた。