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どうか、ありのままの君で  作者: 天宮綺羅
第一章:愛憎を還す
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第十六話


 かたんと、何かが固いものに当たる音で緋燿(フェイヤォ)は目を覚ました。

 目元を擦りながら、顔を上げると既に家主は活動している。卓子に外に顔をだすと霧越しにうっすらと橙色の光が消えていっていることから、既に日が傾き始めていることが読み取れた。そうとう寝坊してしまったらしい。

 緋燿はそのまま、眼前で話し込む母子に視線を向ける。


「さあ、どうぞ。……今日は夕飯を食べたら早めに寝ましょうね。もしかしたら明日忙しくなるかもしれないから」

「このまえいってた秘密の場所にいくの? うわぁい! おれ楽しみだな!」

「ああ、こぼれちゃう。ほら、こっちむいて」


 (タン)に匙を浸し、はしゃぐ田快(ティェンクァイ)。その口元を布切れで拭う陳柘(チェンジェア)

 今までの追憶と変わらぬ、食事時の陽気な家族のやりとり。しかし今の緋燿の胸中に浮かぶのは、愛しさではなく、悲しみだった。


(微笑ましい光景も見る側の心持ちが変わってしまえば、こんなに違って見えるのか……)


 陳柘が田快を寝かしつける。その光景も、今まで眺めていたものと何も変わらないはずだった。だがこの日だけ、彼女は息子を置いてひっそりと家を出ていく。

 手持ちの小さな灯籠は陳柘の一寸先も照らせないほど頼りない。しかし沼までの道に慣れている彼女は焦る様子もなく歩き続けた。緋燿も逸れないように後ろをついて行くと、現実で沼に落ちた時と同様の光景が広がっていた。

 蔓が霧の中に紛れていることはないものの、沼を取り囲むように濃霧が満ちている。

 待ち人の姿はまだ見えない。陳柘の方が先に到着してしまったようだ。

 そのまま彼女は沼のほとりに蹲み込んでしまったので、緋燿が周囲へ警戒を続けた。勿論危険に気付けたからといって干渉は出来ない。無駄な行為で終わってしまうだろうが、じっとしていることは出来なかった。

 時をおかずに、砂利を踏む音がした。

 注視した甲斐なく陳柘と同時に音の方角へ振り返る。濃霧から現れたのは約束をしていた陳莇(チェンジュ)だ。ようやく現れた彼女へ陳柘はほっと胸を撫で下ろして近寄っていく。

 しかし緋燿は陳莇の全貌に体が強張り、そばに近寄ることが出来なかった。

 おぼつかない足取り。明かりも持たず、胸元で握り締めた両手。光のない、混濁した瞳。かつて甥がいなくなったと訪ねてきた、あの時の彼女とそっくりだったのだ。

 緋燿が気付けた異常に、勿論陳柘も気が付く。空いている片手で彼女の頬を撫でた。


「そんな顔しないで、姉さん。ねえ、ちょっと歩きましょう? 私もね、話したいことがあるの」


 気を紛らわせるように陳柘は姉の手を取ったものの、陳莇は石のように動き出す気配はない。しかし目玉だけ異様にぎょろぎょろと、忙しなく揺れていることが不気味だった。


「……じゃあ、私から話そっかな? あのね、姉さん。一緒に村を出よう」


 その言葉に揺れる目玉がぴたりと止まって陳柘を捕らえた。だがそれ以外の体の器官が未だ反応を見せないせいか、陳柘は繋いだ手を握り直して語りかけ続ける。


「勿論この村は好きよ。でも姉さんを亡くしてまで住みたいわけじゃないわ。この霧なら人目につかずきっと出られるし、田快と三人で新しい土地へ行きましょう?」

「……」

「田快にも明日出かけようって歩かせる心づもりさせてるし、準備はほとんど済んでる」

「……」

「外へ出れば大きな城市だってある。お金は…無いけどほら、耳飾りとか他の持ち出せる家財でも換金したら外でもそれなりになるって私の旦那も言っていたし、きっと大丈夫。村の外でだって生きていけるわ」

「……それ、は」


 ようやく言葉を返してきた陳莇に安心したのか、陳柘は灯籠を足元に置き、空いたもう片方の手を懐へ伸ばす。軽い細工がされた装飾品からしゃらりと音が鳴る。


「この村に旦那が来てくれた時に送ってくれたやつ。普段つけないけど、これはいつか役に立つから持ってけって言ってて……こうなることを見通してたのかな。ま、私たちが生きていくためならあの人絶対許してくれるから安心して! だから姉さん逃げよう? ここで明日を待たなくていいんだよ?」


 ぶるぶると陳莇の体が揺れ始める。陳柘は震えを鎮めようとしたのか、そのまま手を伸ばした。

 しかしそれは拒まれた。

 既に握っていた手すら、乾いた音と共に叩き落とされる。今度は陳柘が唖然として動けなくなった。ゆらゆらと、足元の明かりが陳莇に不気味な陰影を落とす。


「……あんたはこんな時まで陽気で、お気楽で、考えなし。逃げる? はははっ、本当にできると思ってるの?」


 くすくすとこの場に似つかわしくない嘲笑が陳莇の喉からこぼれ落ちてくる。いままでの追憶の中でも聞いたことのない陰鬱な声音だった。


「本当にあんたは昔からいい子よね? 明るくて、人気者で、優しかった旦那も、可愛い子もいて。幸せな表の村そのもの。こんな時でさえ「姉さん」のために故郷を捨てようって簡単に言ってのける。本当、すっごくいい子ね」

「姉、さん?」

「だから、好きよ。親も愛する夫もいない私の、愛おしい陳柘。でもね、だからこそ嫌いだった。こんな歳になっても何も持っていない私と違う、可愛くて綺麗な私の妹」


 けして脅すような凄みがあるわけではない。しかし、とうとうと流れる言葉の濁流は陳柘を飲み込んで、彼女の足を後退りさせる。だがそれを陳莇は許さない。反対に陳柘の腕を白くなる程握りしめた。


「逃げる? そんなこと出来るわけがない。知ってる? 子守唄の本当の意味?」

「……本当、の?」

「あははっ。そう、あれね、昔は生贄をぬまとこさまに運ぶ際に唄ってたんだって。あたしも今日知ったんだけど、ふふ、陳柘みたな馬鹿な子を逃さない唄なんだって。ほら、お姉ちゃんが唄ってあげるわ」


 口角の上がった唇から白い歯が覗く。そこから馴染みのある唄が、違う形をして現れた。




 綱囲(つない)て 目合(まぐは)って ()()げて    (うれ)() ()()も ()りましょう

  (とう) (かあ) (ぼう)と ()(きり)へ    沼床様(ぬまとこさま)へ (いの)りましょう

   ()()大地(だいち)へ (かえ)しましょう   ()()(そら)へ (かえ)しましょう




 儀式の全容がようやく顔を覗かせた。こみ上げる吐き気に緋燿は思わず口元を抑える。


「今じゃあ意味も正しく伝わらなくなっちゃって、あんな子守唄になったんだって。おかしいよね? 頭の悪いあたしは最初理解できなかった。懇切丁寧に村長自ら説明されたわ。逃げようとした人はね、どんな手段を使ってでも捕まえられちゃうの。縛られたり、男に乱暴されたり、足を切り落とされたり。とにかく生きたまま、抵抗されないように。そうして唄を永遠と唄いながら村人全員で運び出す。逃げたらこうなるぞって脅して、でも生贄になる人は愛に満ちた清らかで素晴らしい人だと慰めて。名誉なこと? 馬鹿じゃない!? そうして洗脳じみたことを霧が起こるたんびにやってきたんだって……あはははっ、ははっ」

「そんな……じゃあ、尚更早く逃げないと! 姉さんがそんな目に合うことない!」

「でも逃げだそうとしたら今度はあんたがどんな目に合うか!!」

「そんなこと言ってる場合!? 死んだら元も子もないでしょう!」


 足元の灯籠を拾い上げ、陳柘が姉を急かす。


「生きよう姉さん。この村でこれ以上幸せに暮らせないなら、別のところで幸せになろう?」

「……なれると、本当に思ってる?」

「勿論! 外はきっと想像以上に広いわ。私たちが暮らしていいって場所が絶対にある! さあ、姉さんが明かりを持って! 起こしたばかりの田快は多分歩けないし、私が抱き上げなきゃ!」


 笑みを浮かべた陳柘は、陳莇に灯籠を手渡すと腕を突き上げて意気込んだ。

 先導して歩き出だす彼女の後ろ姿は本気で未来を信じていた。緋燿は眩しい彼女から陳莇へ視線を移す。

 家族を含めた愛する人と自分の命を天秤にかけ、迫る恐怖に細くも希望に満ちた手を差し伸べられた。


(この時、陳莇はどう思ったんだろうか)


 ただただ彼女を見つめていると、ふと口が少し動いた。だがその意味も届かぬ刹那、強風が沼上を駆け抜けた。

 偶然か、はたまたぬまとこさまの怒りだったのか。その拍子に沼縁に近かった陳柘が足を踏みはずし、水飛沫が上がった。


柘柘(ジェアジェア)!?」

「陳柘!?」


 緋燿は思わず駆け寄って、触れぬはずの陳柘を探す。

 彼女の後ろを歩いていた陳莇も慌てて沼へ駆け寄る。幸い、波紋が広がる水面に陳柘の顔がすで浮かんでいた。


「ぷはっ! ううっ、冷たい……。ごめん姉さん、引っ張って」


 自力で上がれないのか、力無い腕が水面に伸ばされる。

 己の手を貸せないことにやきもきしながら緋燿は陳莇の様子を窺う。すぐに彼女の手が伸ばされた。しかし彼女が捕まえたのは陳柘の腕ではなかった。

 突如緋燿の視界が切り替わった。墨汁のように先の見通せぬ視界に細かい気泡と荒波が立つ。肌を刺すような痛いほどの冷たさと息苦しさ。

 突然の事態に動揺する緋燿だったが、すぐに思い出した。


(俺は今まで陳柘の視点でこの世界を見てきた。だからこれも、これこそ陳柘が見ている景色……)


 気泡が喉の奥から天へと上がっていく。深淵へと体が沈んでいく。

 最後に見えたのは陳莇の顔。血の気の引いた頬を濡らし、眉を潜め、口角の上がった、緋燿には到底表現しきれない感情が入り混じった表情。だが無理矢理にでも形を与えるとするならば、思いつく名前が一つだけあった。

 愛憎だ。

 愛憎が陳柘を殺した。これが真実。これこそが田快の前から姿を消した母親の末路。




「緋燿! 緋燿、起きろ!!」




 だが緋燿だけは深淵に行かせまいと、引き止める声が響く。

 真名を呼ぶ声の主を、緋燿は知っていた。


白叡(バイルェイ)が、俺を呼んでいる……!)


 一角に熱を灯し、沼水を退けるように気を解き放つ。

 亡き人の長い長い追憶を終え、褪せた世界から緋燿は覚醒した。


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