第十四話
つないで まわって だきあげて いいこや よいこや ねむりましょう
とう かあ ぼうと てをくんで ぬまとこさまへ いのりましょう
すべてをだいちへ かえしましょう すべてをそらへ かえしましょう
優しい唄が聞こえてくる。
ぬるま湯に浸かっているような、心地よいものに包まれている感覚から緋燿は目を覚ました。不思議なことに田快や、脅威であった迫りくる鬼妖や蔓の姿がない。さんさんと太陽が照りつける大地に濃霧はなく、ただただ緋燿は立ち尽くしていた。
下方からの眩しい光が瞳に当たり思わず目を細める。そちらを振り向けば、水面に反射した日光が緋燿にまで届いていたようだ。
(この沼の形は……)
緋燿はその水辺ぎりぎりまで駆け寄ってから、今度は周囲の景色も見渡した。
底まで見えるような澄んだ水。土や砂利が多い大地。その周囲を囲むように生える丈の短い草葉。霧は出ていないものの体感できる広さなどから、最後にたどり着いた「ぬまとこさま」の場所と同じだと悟った。
しかし先ほどまでと全く違う状況に緋燿は混乱する。
(あの鬼妖は……田快はどうなったんだ? 無事に逃げられたのか? いや、その前に俺は沼に落ちたはず。そのわりに濡れてないし、いつの間に霧は晴れたんだ……?)
慌てて腕を曲げてみたり、体を見下ろしてみる。素肌や衣類に泥はおろか、一滴の水にも濡れた様子がない。
そこでようやく緋燿は、五本指に気がついた。沼に落ちた時の羊姿ではなく、変化した人型の手のひらだったのだ。
「いつのまに……。でも、なんでこの服? 汚したはずじゃあ……」
最初に変化した時のような全裸ではなく、何故か銀寒邸で着たものと同じ衣服をきっちり纏っている。
そういえば田快の寒さを防ぐためにと獣型に変化したものの、その時に着ていた借り物の衣はどうなってしまったのだろうか。暗い中意識していなかったせいもあって、あの場に脱ぎ捨ててしまったのか、一緒に変化させてしまったのかも分からなかった。
(……今考えても分からないことは仕方がない! 白叡にも早く知らせたいけど、今はとにかく田快を探そう)
緋燿は首を振って、考えを切り替える。
とにかく村を探してみようと、緋燿が沼に背を向けた時だった。
「いーいこや、よーいこや、ねーむりましょう。とーう、かーあ、ぼーうと、てーをくんでー」
緋燿は仰天して隣から距離をとった。
先ほどまで誰もいなかった場所に、一人の女性が気配もなく現れていたのだ。
鬼妖の仕業かと緋燿は警戒心を持ったまま彼女を見つめるが、当の本人はこちらに気付くことなく唄を唄い続けている。何かを抱えている両腕を揺らしながら、沼の側を行ったり来たり。ときどき腕の中の布の塊を突いてはくすくすと笑っている。そして彼女の指を追うように、布の隙間から小さくて丸っこい腕が元気よく飛び出してきた。指が小さな手に捕まれば、彼女はさらに笑みを深くして調子良く唄い続ける。
愛おしいと、全身から発せられる慈愛。見覚えのある朗らかな顔立ち。
初対面のはずの彼女を、緋燿は知っていた。
「陳柘! どこに行ったと思ったら、ここにいたのね!」
緋燿の予想を裏付けるように、彼女を呼ぶ声がした。
名前を呼ばれた本人は唄を止め、沼向こうへ体を向ける。
「あ、姉さん! この子ね、いま私の指を握って自分から振ったの。唄に合わせるみたいに。もう可愛いのなんの」
陽気に返答する彼女・陳柘は近づいてくる人影にもお包みを揺らしてみせた。
いささか噛み合っていない返事をする陳柘に構うことなく、ずんずんと沼を回って近づいてくる女性。
緋燿はこちらにも見覚えがあった。
(陳莇、だよね。でも村で見たよりずっと若い……?)
最後に目撃した彼女が常軌を逸した姿だったせいか、目の前の彼女は若返っていることも相まって別人ようだ。
陳莇は陳柘のそばまでやってくると、彼女の頭を小突いてから同じようにお包みを覗き込む。その表情はさすがは姉妹というべき程よく似通っていた。
「まったくもう。母親になったんだから、ぼんやりしないでしっかりなさい。この子にはあんたしかいないんだからね」
「そう言って色々手伝ってくれるくせに。ねー、田快。莇莇伯母ちゃんは世話焼きでしゅねー」
「あっ、こら。そんなに大きく揺らさない! 落としたらどうするの」
「そんなことしないよ、姉さんじゃないんだから!」
「あ、あたしだってしたことないわよ馬鹿! あー、ほら走らない。転ぶわよ」
「はーい!」
寄り添う二人は、陳莇がやってきた沼向こうへと歩いていく。仲睦まじげな姿に微笑ましく思いながらも、緋燿は頭を抱えてしまう。
故人であるはずの陳柘に、若返った陳莇。そして田快と呼ばれ、抱えられた赤子。
鬼妖の仕業か、はたまた死後の妄想か。
過去と呼べる目の前の光景を、緋燿は呆然と見つめることしかできなかった。
*****
緋燿は姉妹の後を追った。
沼の向こう側へ歩いていくとまず畑があり、そして村があった。緋燿も見た田快たちの村。
どうやら現実で濃霧に囲まれていた部分から水が引かれ、農耕や生活に利用されていたようだ。神様の寝床以前に、村の生命線であったが故に「ぬまとこさま」と大仰な呼び名が付けられたのかもしれない。
緋燿はただただ彼女を追った。
緋燿は誰にも見られないし、触れない。なぜか陳柘から大きく離れることもできない。風のように、ただそこにあるものとして緋燿は見続けた。
陳莇と田快から聞いていた通り、父親がいない母子の生活。朝日が登ったら、卓子で二人並んでの食事。畑を一緒に耕しては種を植え、水を撒く。交代で薪を割り、汗をかく。陳柘がすれ違う人と立ち話をして長引くと、田快が迎えにくる。たまに陳莇がやってきた時は近場の森まで出かけ、取った木の実をおやつにして食べる。実りの時期になったら村中で作物を収穫。日暮れまで豪華な宴会が行われることもあった。そして夜には筵の上で寄り添いながら眠りにつく。苦労も笑顔も絶えない日々が、田快の成長とともに積み重なっていく。
その営みは濃霧の中、少年が語った幸せの姿そのものであった。
田快が家族や村の話しをたくさんした理由が今なら理解できる。
陳柘の視点で体験する追憶は、記憶を無くし他者との繋がりが白紙となった緋燿の心を温めた。まるで彼女になったように田快の成長を見守ってしまう。
どれくらい立っただろうか。何年もかけたような、はたまた一瞬だったような、時の流れの感覚が麻痺したときだった。
緋燿が陳柘に合わせていた視線をふと上げた時、ぎくりと体が強張った。
霧だ。
まだまだ薄いものの、徐々に、這い寄るように村に霧が満ち始めていた。
弛緩していた緊張の糸が張り詰める。
緋燿は思い出した。この幸せの光景は過去のもの、変えることのできない陳柘の軌跡であったことを。




