第十三話
泥濘んだ土に足を取られ、草葉で素肌を傷つけながら緋燿と田快は走り続けた。
濃霧のせいで迫る蔓の総数も分からないが、何度切り裂いても猛襲が途切れないことから、想像以上の数がこちらを狙っているのだと分かった。
隣を走る田快を見上げる。緋燿以上に息が上がり、腕には草葉のせいで出来た何本もの細い傷が生じていた。これ以上は彼の体力が限界だ。
しかし幾ら濃霧とはいえ、こんなにも人や家などの目印が見当たらないものなのだろうか。
緋燿がそう思案した時だった。
突如、霧のない空間に躍り出た。
思わず振り返れば背後にはまだ濃霧が残っている。しかし先ほどまで二人を捕まえようとしていた蔓が伸びてこなくなった。霧のない世界を拒むように、境を壁として濃霧の向こう側からこちらの様子を伺い続けている。
緋燿は濃霧と蔓から視線を離さずに後退り、風の刃で対応できそうな距離を取ったところでようやく一息ついた。
「なんだったんだ、あれ……」
緋燿が疑問を零した隣で、田快も膝をついて息を吐く。かたかたと揺れる膝の上に握り拳を作って少年は安全圏から、蔓を睨む。
「あれだ。母ちゃんはあれに連れ去られたんだ」
田快の明るく朗らかな声音は潜められ、仇に向ける低く鋭い声音。三年間求めていた元凶の尻尾を彼はようやく掴んだのだ。
だが現状今すぐに退治できるわけでもなく、あの蔓を滅したからとはいえ陳柘が帰ってくる確証もない。真実、蔓が元凶なのか緋燿にはまだ判断もつかないのだ。しかし田快の話から怪しいという霧の状況下の中現れた蔓が無関係とも考えづらい。
緋燿は少年にかける言葉が見つからず、無言で注意を払ったまま辺りを見渡した。視界が広がるこの場所でも空には霧が掛かっているのか月明かりは届いておらず、相変わらず暗い。草葉は少なく、土と砂利が大地を占めている。そして何より特徴的なのが、霧向こうに何割か覆われた、そこそこ大きな水場があることだった。夜闇を映しているせいか、墨を落としたように黒く底は見えない。しかし濁った様子はなく、清い印象を見るものに抱かせた。
唄の歌詞が思い浮かぶ。
「ここは、ぬまとこさまか……?」
田快も気がついたのか、水辺の縁まで寄ってくると水面に指先を付けた。凪いでいた沼に波紋が広がってゆく。
「間違いない。ここ、ぬまとこだ。この沼が蔓から俺たちを守ってくれたのかな」
田快はここでようやく安堵したのか、ほっと溜め息を吐いて座り込んだ。
しかし緋燿は蔓がまだ霧中にあるせいなのか、表皮が粟立っていて落ち着かない。腰を落ち着けることなく、田快の隣まで移動してからも視線を巡らせ続ける。
そのおかげで緋燿はいち早く気付くことができた。
田快が生んだ水面の波紋が止むことなく、むしろ返答するように増えている。ぽこり、水面に気泡が浮かんだ瞬間に黒毛が逆立った。
深淵から、何かがやってくる。
緋燿は反射的に田快の衣の裾を咥えてその場から大きく跳び上がった。驚く少年を気にかける余裕がないほど、初めて感じる恐怖感に従い沼から距離を取る。
そして次の瞬間、水飛沫を上げながら沼から這い出てきたのは「異形」と呼ぶに相応しい姿をしたものであった。
「これも、鬼妖なのか……?」
その異形はゆうに人の身丈を超えていた。目算高さ一丈五寸(約5m)以上の巨体が水を滴らせながら、長い腕を使って大地に這い出そうとしてくる。枯れ木のように嗄れた表皮からは脆さではなく、老いという死の象徴を表しているかのようだった。何より印象的なのが頭。本来一つしかない部分が表皮に花咲くように無数に生えていた。さらにその頭の形はこちらの恐怖感を掻き立てる。
人だ。
その異形の無数の頭は人間の頭がそのまま生えているかのようだった。
水中から息を吹き返した異形の頭達が一斉に音をがなり立てる。それは人の形を模しているせいか、言葉を発しているようにも、ただ鳴き声を上げているようにも聞こえた。
静寂から一変し鼓膜に響く大音量に、緋燿は思わず顔をしかめた。
この異形は蔦以上に危険であると全身で感じ取ってしまう。しかしここから離れようにも、霧向こうには蔓がまだ蔓延っている。そこで緋燿は後退りながら、沼が守ってくれたなんて短絡的な思考をした己を恥じた。蔓はただ追うのを止めたのではない。この場所へ誘導し、逃さないように取り囲んでいたのだ。
霧や蔓の原因がこの異形、あるいは沼にあるという疑惑が確信へと変わっていく。でなければ霧、蔓、異形といった脅威が一夜にして揃うことはないだろう。
この場をどう切り抜けようかと緋燿は衣を噛みしめながら、気を編み、いつでも放てる準備をする。異形を退けられるほど己の力量は信じられず、むしろ再び濃霧の中に逃げ込む方が安全だといえよう。
緋燿は田快にもっと離れるようにと、衣を引っ張ったが、少年は異形を見上げたまま固まってしまっている。
目を見開き、唇を戦慄かせるその姿は、緋燿の感じる恐怖とはまた違う何かを秘めているようだった。田快の視線は一直線に、異形の中央、一際大きく目立つ頭に向かっている。
「かあ、ちゃん……?」
そして無意識に落とされであろう言葉に、緋燿も田快が固まった理由を理解した。
彼の呟きに反応するように異形がいっそう大きな奇声を上げる。呼応するように漆黒の水面から細い何かが無数に這い出てくる。蔓だ。
先ほどの仮説が正しかったことを恨みながら緋燿は田快を引っ張り続ける。ここで人型に変化して抱き上げた方が良いかとも一瞬考えたが、慣れない術にどれだけ時間がかかるのか、むしろ再び成功するか分からないことを考慮すれば、むしろ視線を外す方が危険だとすぐさま却下した。考える時間が足りない。
こちらに伸びる蔓をひたすら風刃で切り裂きながら、とにかく鬼妖から距離を取る。
だが衣を強く噛みしめながら、四方八方へ刃を飛ばすのにも限界があった。
されるがままだった田快が反対方向、つまり沼の方へ体勢をを向けた反動で緋燿の口から衣が外れてしまったのだ。
転げるように駆け出した田快に緋燿のような恐れはなく、困惑と焦燥が彼を鬼妖の前まで連れ戻す。風の刃で牽制した蔓の中を駆け、体制を崩しながらも沼の側まで戻る。
「母ちゃん! おれだよ、快快だよぅ! どうしてそんなところにいるの? どうしておれを一人にしたの! 帰ってきて。お願いだから一緒に家に帰ろうよぉ!!」
頬を濡らしながら乞う少年の目には異形としてではなく、母親として映っていた。必死に近づこうと、沼の中にまで飛び込んでいきそうな様子に、緋燿も逆走せざるを得なかった。蹄が削れてしまうのではないかというほどの力を込めて地面を蹴る。
(間に合えっ!)
獲物が自ら飛び込んできたと、鬼妖は水面から今まで以上の蔓を少年へ伸ばす。
だが紙一重の差で滑り込み、腰帯に一角を引っ掛けることに成功する。とにかく田快を鬼妖から引き離す。それだけを果たすために、緋燿は力の限り少年を後方へと投げ飛ばした。入れ替わるように鬼妖の前に躍り出てしまうが、その勢いを止めることはもう出来なかった。
圧倒的な暴力によって引きずり込まれる。水飛沫を上げて、深淵へ落ちていく。
霞む視界の中、最後に映ったのは黒水の中で淡く光る一角と、それに反射する気泡だけだった。