第十二話
銀寒邸で話題に上げて以来、試したことがなかったがどうやらうまく行ったようだ。
緋燿は低くなった視界を動かして全身を確認する。黒くうねった毛、固くつるりとした光沢の蹄。目覚めた時の最初の姿、黒毛の羊に戻れたのだ。長い尻尾で夜露を払い田快見上げると、驚いた表情でこちらを見下ろしていた。
そして彼が口を開く前に、緋燿は胸を張って言い切る。
「俺は隷獣。聖道師・雪陵散人のお供なんだ。聖道師は俺みたいな生き物を連れているのが当たり前なんだよ。そんな俺の毛皮はこんな寒い時こそ役に立つはず! どうだい?」
なんてことはない。不思議なこと、可笑しな事ではないと堂々と声高らかに緋燿は宣言する。
「あ、でも聖道師じゃない人はびっくりするから内緒にね」
それでも最後に付け足して言うと、田快は恐る恐る頷いてから身を寄せてきた。
ふわんと弾力のある重さが緋燿の体に掛かる。そしてその重さが徐々に増していく。頭だけ動かして田快を見ると、少年の体の半分ほどが黒毛に埋まっていくのが分かった。よほどお気に召したらしい。
彼のように白叡にはまだ大胆に触れられたことがなかったが、力が抜けるくらい暖かく気持ちが良いのなら、今度己から提案してみるのも良いかもしれない。
緋燿は毛に田快を絡めたまま、顔を正面に戻した。霧が晴れる様子は全くない。
「もう少ししたらお母さんを探しに行こう。俺の上に乗っていいからさ」
「……わかった」
そして緋燿と田快は移動を始めるまで、始めてからも様々な話をした。
田快の母親を探すため手掛かりになるようなことを聞いたのは勿論だったが、それ以外のことも彼は話してくれた。
母・陳柘の得意料理。引き取られてからの陳莇との生活。村の子供や大人達をも巻き込んで楽しんだ収穫祭。村長の可笑しな知恵袋。
小さい思い出から大きな思い出まで、無音な時間が訪れないほど田快は語り続けた。本当は静かな空間が苦手だったのかもしれない。緋燿も足を止めずに、田快が指し示す方へ歩き続けた。幸せな時の話を聞いていると、こちらも心が暖かくなり、気分が高揚してくるようだった。
「それで世話を始めた子牛に尨って名前つけたんだ。結局あんまり大きくならないし、太らないしで母ちゃんと食べちゃったんだけどね。あー、あの時は楽しかった! 兄ちゃんは? 兄ちゃんは何か飼ったりしたことないの? ってそう言えば名前聞いてなかった。兄ちゃん名前は? 兄ちゃんの故郷には祭りとかあったの?」
しかし何気ない田快の問いに、緋燿は答えられなかった。尻尾を揺らし、唸り声を漏らす。
「俺の名前は緋燿。……けどそれ以外は分からないんだ」
「分からない?」
「うん。覚えてない、記憶がないんだ」
「親とか、故郷のこととかもわかんないのか?」
「そうだね……まあ、隷獣の親は聖道師みたいだから、白叡が俺の親なのかな?」
白叡も名付け親と言っていた。なので緋燿もそう表現してみる。正しい表現かと言われると首を傾げてしまうが、田快に説明するために言葉にするのも難しい。
整理がつかず再びうんうん唸っていると、背中から顔を上げた田快が緋燿の滑らかな毛を撫でながら明るい声で言った。
「だったらあの道師様が父ちゃんだな! これからいっぱい楽しい思い出作ってもらいなよ!」
それが当たり前だと、疑うことすらしない子供ながらの純粋な提案。
しかしその明るく真っ直ぐすぎる言葉は、かつて持っていただろう故郷や家族などの思い出全てを失った緋燿の不安を吹き飛ばすほどの力があった。
隷獣は聖道師に従うもの。主人や命令をただ求めるという本能のまま、彼の後を着いて回っていたが、白叡や田快のいうそれ以外の関係にもなれるのかもしれない。
(ああ。白叡に会いたくなってきたなぁ……)
勝手に飛び出してきてからそう時間は経っていないはずなのに、白叡の顔が浮かんだ。叱られるだろうに、それでも会いたいと考えてしまうのも隷獣の本能なのだろうか。緋燿が返答せずに黙ってしまったせいか、背中に乗っている田快はつまらなそうに黒毛の先をいじる。そして何かを思いついたのか口を開いた。
「つーないーで、まーわぁーて、だーきあーげてー。いーいこや、よーいこや、ねーむりましょう」
聞こえてきたのは唄だった。一定の調子で刻まれる歌詞はあまり長くないようで、繰り返し唱えている。つまずくことなく誦じる様子から、馴染み深い唄であることが感じ取れた。
「それは何の唄なの?」
「子守唄! 昔から母ちゃんと伯母ちゃんが寝るときによく聞かせてくれたんだ。あの村の人はみんなこの唄を聞いて育つんだよって」
緋燿の問いに答えながらも、田快は唄うこと続ける。
つないで まわって だきあげて いいこや よいこや ねむりましょう
とう かあ ぼうと てをくんで ぬまとこさまへ いのりましょう
すべてをだいちへ かえしましょう すべてをそらへ かえしましょう
確かに田快の唄う声を聞いていると眠気を誘われるようだった。短いため何度も繰り返される詞が脳へ染み込んでゆく。実際現在は夜、普段なら就寝中だ。
緋燿は頭を振って迫りくる眠気を振り払った。
「ねえ、歌詞の中の「ぬまとこさま」っていうのは何?」
「ぬまとこさまはねぇ、村はずれにある沼の名前だよ。澄んでいて綺麗だから神様がたまに寝にやってくるって言われてるの。だから神様の寝床って意味で「ぬまとこさま」って名前になったんだって」
「神様の寝床? いつも神様がいるわけじゃないんだ」
「兄ちゃん何言ってんの? 神様は天にいるんだよ。この地上にいるわけないじゃん。……それも忘れちゃったことなのかな、ごめん笑って」
田快は気まずそうに謝ると知ってる範囲で、と神様について話し出した。
と言ってもこの地や人を作った神様は天に住んでいて、地上に降りてくることは滅多にないということしか理解できなかった。実際田快も解説できるほど詳しく知らないようだった。
(後で白叡に聞いてみよう)
そうして田快の唄を聞き続けている時だった。
がざり。闇から物音がしたと緋燿が視線を向けた途端、四足が何かに絡め取られ、強い力で引っ張り倒された。
「うわぁあ!」
田快もその衝撃に耐えられず背中から投げ出されてしまうものの、緋燿を捉えた何かは少年を逃すことはしなかった。目の前を細く長いものが横切って田快を捕らえる。
暗くとも近い距離だったため、緋燿はその正体を視界に捉えることができた。
(蔓?)
そう、何本もの蔓が霧闇の先から這い寄ってきたのだ。肉に食い込むほど力強く二人の体を締め付ける。そして湿った大地の上を引き摺り出した。何処かへ連れて行こうとしているのか。
「なんだよこれ!? くそっ、離せよぉ!」
田快ももがいているものの、蔓が解けることはない。徐々に少年の顔が悔しさのせいか、痛みのせいか歪み始めた。
「このっ!」
せめて田快だけでもこの蔓から脱出させねばならない。
緋燿は慣れない四足で何とか踏ん張りながら、一角に集中する。全身を流れる気を意識して、気を編み込む。脳裏に浮かぶは白叡の氷雪。
ぼんやりと角が光り出した時、緋燿はそれを外へ解き放った。
「凍れ!」
心象通り、二人を捕らえた蔓が一気に凍りついていく。しかし白叡がやったように一瞬で鬼妖全体を覆うような威力にならなかったせいか、蔓が目的地へ戻るために伸縮するたびに氷晶が剥がれてしまった。これ以降凍らせて動きを止めるためには、根元から先端まで一気に氷漬けにする必要があるだろう。
しかし今の緋燿にそんな力はない。
この状況を打破できる何かはないか、少ない記憶をほじくり返す。
そして思い出したのは、白叡に凍らされた方だった。
再び気を編んで、力を放つ。
「切り裂けっ!!」
緋燿から飛び出したのは風。地面や木々、人の肉さえ切り裂いた風の刃だった。
予想通り蔓は切り裂かれると、力を失ったのか締め付けがなくなる。しかし痛覚も引く意思も持たない蔓は残った部分で再び二人を捉えようとする。
倒れ込んでいた田快の側に駆け寄って、緋燿は彼を押し上げる。
「立って! 逃げるよ! このままじゃいけない!」
田快も混乱する中、それでも捕まってはいけないと感じ取ったのだろう。擦りむいた手足で立ち上がると、緋燿と共に駆け出した。