第十一話
「どこに行ってしまったんだ……?」
霧闇の中をいったいどれだけ探し回っただろうか。緋燿は時の感覚が分からなくなるほど駆けずり回ったものの、一向に陳莇を見つけることができないでいた。
先に白叡に知らせるべきかと途中で思い立ったものの、すでに遅く己の帰り道さえ霧に覆われてしまっていた。すれ違う人影もなく、隣家や目印になるものはない。
むしろ足を取られるほど伸びきった草葉が徐々に増え始め、そこに溜まった夜露が衣の裾を濡らしていく。どうやら村の中から外れてしまったようだ。
己の方向感覚のなさに緋燿は思わず溜め息をつき、そして陳莇を見ているという任された役目を果たせなかったことに頭を抱えた。このままではさらなる迷惑な役立たずに成り下がってしまうことだろう。
せめて陳莇か田快の安全だけでも確保しなければ。
そうして緋燿が濡れた裾を払い、草葉に足を踏み入れた時だった。
「痛っ」
突如、額の一角が熱を持った。
思わず声を出してしまったものの、実際そこまで痛かったわけではなく、燃えるような熱さが一角を支配した。疼く角に触れてみると体感している熱さはないものの、人肌ほどの温もりを放っていた。
変化の際や術を使おうと気を編んだ際も一角が起点だった。
これは己の中の力が反応している証なのかもしれない。緋燿は疼く一角を道標とし、道なき道を進み出した。
そして一角の疼きに従い歩き始めてから、再び足が止まるのは早かった。
今まで空に向かって伸びていた草葉が、何かによって倒され獣道のようになっていたのだ。緋燿もその道を踏み締め、辿り始める。そして抜けた先、ぼんやりと見えた樹木の根本に探し人の内の一人が蹲っていた。
「田快!」
少年は緋燿の声にはっと顔を上げたが、すぐに顔を歪めて再び膝に埋めてしまった。
その表情に緋燿は見覚えがあった。
彼が空き家になった元自宅に駆け込んできた初対面、期待から失望へ変わった時の姿だ。
鼻を啜る田快の隣へ緋燿は恐る恐る近く。そして逃げられないことを確認した後、同じく樹木の根本に蹲み込んだ。
「……お母さんを探していたの?」
緋燿の問いに田快は濡れた顔を無造作に擦りながら、こちらを睨み付けてきた。
「あんたおれの家にいたやつだろ。なんでここにいんだよ」
「陳莇さんが探してたよ。夜遅いし、霧も出てる。危ないから帰ろう」
「いやだ! せっかく霧が出たんだ。母ちゃん見つけるまでは帰るもんか!」
田快の決意は固いのか、ぎゅっと強く握り拳を作っている。
動く気配がないので緋燿も立ち上がり一人で去ることなどはしなかったものの、少年の言葉に引っ掛かりを覚えた。
「霧が出たから?」
田快の母親と霧に関係があるというのか。思わず緋燿が少年の言葉を繰り返すと、今度は気まずげな表情を浮かべてこちらの様子を伺ってきた。
「……伯母ちゃんからおれの母さんのこと聞いた?」
「う、うん。三年前にいなくなったって」
「まったく、おしゃべりだな。一晩泊まるだけの他所者に話すなんて」
不満げに顎を膝に乗せ、こてんと顔を緋燿の方へ向ける。先ほどまでの不機嫌さは見当たらない。
「まあ、小さい村だから村の人みんな知ってるし、隠す事でもないか」
「……ごめん、勝手だったよね」
「いいさ。その代わり無理矢理帰らせようとするのなしな! 陳伯母ちゃんが探してるっていうなら、あんまり時間もないし。あ、その分お前も協力しろよ!」
家族という踏み入った事情をを聞いたことを緋燿が謝るも、田快は朗らかに、冗談めかした口調で笑う。いなくなった母を探しつつも、伯母の心配もわかってしまう少年は言葉通り長居する気はなかったのかもしれない。
それでも彼は大の大人さえ危険だという、先も見えぬ霧闇の中を抜け出してきた。小さな体一つで歩き回る姿を想像すると、いかに家族への情が深いのか、緋燿は胸が締め付けられる思いがした。
「わかった。一緒に探そう」
だからこそ緋燿も内に生まれた情のまま、少年を真っ直ぐ見つめつつ、はっきりと応えた。
田快はそう返って来るとは思っていなかったのだろう。ぽかんと口を開けてしまった。
「えっ、でもあんた、おれを連れ戻しにきたんじゃないのか?」
「確かに探しにきたけど、それはこの霧闇が危険だからだよ。だったら一緒にいればその危険も少しは減るし、目的を早く達成すれば早く帰れる。いいこと尽くめさ」
白叡には呆れられてしまうかもしれなかったが、ここで泣いていた少年をただ連れ帰るのは道理に合わない。緋燿はそう考えた。命令されれば無理矢理引きずっていくことも出来ただろうが、現在傍に白叡はいない。緋燿は己の考えに従うことにした。
そして緋燿が冗談を言っているわけではないと伝わったのか、田快は瞳を滲ませて小さく頷いたのだった。
彼は緋燿に触れるか触れないかのところまで身を寄せて、内緒話をするように語る。
「三年前、母ちゃんは突然いなくなった。村の人や陳伯母ちゃんは男と出て行ったんだって言うんだっていうけど、絶対に違うと思うんだ。この霧がさらって行ったんだ。逃げられなかった鈍臭い母ちゃんはおれが連れ戻しに行ってあげないと。……きっとどこかで待ってる」
開いた両手のひらに息を吐きかけ、温もりを閉じ込めるように擦り合わせる。熱も、思い出も全て逃さないように。緋燿は田快の視線を辿り、こちらを見上げていないことを確認してから頭に被っていた衣を彼に掛けた。
「お母さんの失踪には、この霧が関係あると思うの?」
「いなくなったのが母ちゃんの意思じゃないのは絶対だけど、霧の方は多分、かな。でもそれ以外に原因が思いつかないんだ。だって母ちゃんがいなくなった日も霧が出てたし」
「霧が発生するのはこの村では珍しい?」
「うん。靄程度ならたまにあるけど、それはすぐに晴れるし。先が見えなくなるほどの霧は俺が覚えている限りでは三年前のあの時だけだった」
村の住民である彼にとってもこの霧は異常事態のようだ。しかし村長が白叡達に知らせに来たと言うことは、過去にもこの異常気象は起こっていたのだろう。でなければ危険性など分かりはしない。
「でもその時いなくなったのはお母さんだけなんだよね? 昔からあったみたいだし、一人だけいなくなるのも変な気がするけど……」
「あんたも母ちゃんが出てったと思うんだ。確かにこの村小さいし、遊ぶもの少ないし、つまんないけどいいとこなんだよ! 村の人は優しいし、畑とかいっつも豊作だからお腹減ったりしないんだ」
田快は指折り数えながら故郷の特徴を挙げていく。緋燿にあれこれと紹介する姿は、宝物を自慢するかのように自信に溢れている。
この村に来る際気が滅入っていたため緋燿は畑など目にしていなかったが、このような規模が小さな村で豊作続きはさぞ良いことだろう。失せ人探しも村人総出でやってくれたと陳莇も言っていたし、繋がりが深いのも感じられる。
緋燿はふと、いただいた食事を思い出した。
小麦味の饅頭と、豆だけ具材の入った湯。
(あれ?)
馳走になっておきながら失礼な考えが浮かんだものの、田快の話が続いているので口を挟まずに耳を傾けた。
「それにもう少ししたら秘密の場所に連れてってくれるって言ってたんだ」
「秘密の場所?」
「母ちゃんと父ちゃんの思い出の場所なんだって。村の外で少し遠出するから、準備をしっかりしようねって言ってた。だから母ちゃんは父さんのこと好きだし、その場所に行く前に一人で出てくなんてしない」
ただの事故・事件ならば村人総出で捜索した際に手がかりがあっただろう。しかしそれでも何も出てこなかったから陳柘は自らいなくなったと思われているのだ。しかしいなくなる理由が彼女にはなかった。
そこまで聞くと、流石の緋燿も失踪が不可解であると理解する。
残る手がかりはこの異常気象である「霧」のみ。きっと田快はこの霧が発生することを心待ちにしていたのだ。
「でもこの視界の悪い中を探すのも、難しいと思う……」
緋燿は直面している現実問題に目を向ける。そう、原因は霧だと当たりを付けても明かりが満足にない状況では歩くのさえ困難だった。
田快もその状況は理解していたようだが、彼が懐から取り出した小さな小さな筒状のもの、おそらく火を灯すべき道具が湿っていることからうまくいかなかったことが想像できた。濃霧はその中を通るだけで肌を濡らすほど湿気っているのだ。
「もうちょっと立派なのが家にあればよかったんだけどなぁ。っくしゅん」
不平を零しながら田快は筒を懐にしまうと、不意に小さな音を出して自分の両肩を抱きしめた。
触れるほど近い二の腕からかたかたと振動が伝わってくる。太陽の温もりがない夜は濃霧も相まって緋燿以上に田快の体温を奪っていた。衣一枚程度では効果がなかったようだ。
しかし緋燿もこれ以上熱を逃さない、温める道具は持っていない。今から家に帰るとしても、道が分からないので耐えられず時間切れになる可能性もある。
緋燿はちらりと、少年を見下ろす。考える時間もあまりなさそうだった。
(こういう状況なら白叡も許してくれるかな。くれるといいなぁ……)
緋燿は今まで特に注意された事柄を思い出しながら一角に集中し、気を全身に巡らせる。
そうして田快の足元に転がったのは、一つの黒い塊であった。