第十話
夕飯は村長から頂いた饅頭と主に豆が入っている湯(*スープのこと)だった。相変わらず素材の味を感じさせる饅頭をあっさりとした湯と一緒に口に入れれば、腹を満たすのは十分であった。
明日は起床次第銀寒邸に向けて出立しようと、二人は早めに床に就く。服から覗く素肌を筵が刺す不快感があるものの、隣で眠る白叡の熱の安心感にそれがかなうことはない。
うつらうつらと、意識を手放しそうになったその時だった。
ばさりと何かが動く音がした。夜になって涼しくなった空気が流れ込んでくる。衾(*寝具。掛け布団のこと)代わりに掛けていた衣の裾が捲られたようだった。
暗い空間の中、目を擦って音の元を探れば、予想通りの人物が立ち上がろうとしていた。
「白叡、何が起こったの?」
緋燿もすぐさま立ち上がると、今度は忘れないうちに自分から衣を被る。
白叡は返事をすることなく周囲を窺っているようだった。緋燿も神経を研ぎ澄ますと、虫の声や風の音に混ざって小さいが人の声も聞こえてきた。聞こえてくる声は内容までわからないものの、村の中をあちこち巡っているようだった。僅かな緊張感が走る中、その声がこの家の前までやってくる。
そしてとんとんとん、と戸が叩かれた。
「道師様、夜分にすみません。少々よろしいですか?」
聞き覚えのある男性の声。この村で最初に聞いた村長の声だ。
白叡は筵に置いていた剣を片手に戸を開け放った。夜の闇は予想以上に深く、村長の姿だけが松明の明かりによってぼんやりと浮かんでいる。
「どうされました」
「へえ、実は霧が立ち込めてきましてね。この辺の濃霧は方向感覚を狂わせるほど深くて晴れにくいんです。慣れない人が出歩くと危険なんで、確認しにきました。いやぁ、家にいらっしゃってよかったよかった」
「それはわざわざ、ありがとうございます」
「んで、それでなんですがね、もし今晩のうちに霧が晴れなかったらなんですが、少々お願いしたいことがあるんでさ」
「……中へどうぞ。戸口では冷えます」
「いやいや、もう帰りますんで。頼み事というのも、明日霧が晴れなかった場合だけですから。その時は朝食と一緒にこちらから尋ねさせてもらいます」
夜分にすみませんでした、ともう一度村長は言うと闇の中へ消えて行った。
人影がいなくなってから、緋燿は戸口から外を覗いてみた。先が見えないのはどうやら濃霧が原因のようだ。道理で夜闇が普段以上に深いと思った。月明かりが霧のせいで霞んで地上まで届いてこないのも一因だろう。
一段と温度が下がったような心地がして、衣を胸の前でぎゅっと掻き抱く。
「明日までに晴れるかな?」
初めて見た気象はどこか不安を誘う。緋燿は思わず白叡を見上げると、彼は何故かじっと暗闇の先を見つめていた。
何か見えるのだろうか。緋燿もその視線を辿ってもう一度外を見やるが、相変わらず隣の家の影すら捉えられなかった。
無言のまま様子を窺っていると、不意に白叡の眉間がよった。
「道師様! 道師様!」
今度聞こえてきたのは女性の声だった。こちらも聞き覚えがあるが、焦りが混じった声色でぼんやりと火の灯りと共に道があった先からやってくる。
白叡が卓子に置いていた灯籠に火を灯す。油脂の燃える匂いとともに室内を頼りなく照らした。増えた光源のおかげか、先ほどの村長よりはっきりとした姿の陳莇が駆けてくるのが見える。
「どうされた」
「田快が! 田快がこちらに来ませんでしたか!?」
薄着のまま、乱れた髪のままの震えた姿。昼間の打って変わった様子と、彼女が呼ぶ名前から非常事態が起こっていることが、緋燿にも察せられた。
(この先も見えない霧の中、田快がいなくなったのか?)
白叡が落ち着かせるように陳莇に視線を合わせる。
「落ち着いて。何があったのです?」
「田快がいないのです! ああどうして、霧が出たら家から出るなと三年間ずっと言い聞かせたのに! この家にも帰ってないならあの子はどこに行ってしまったの!? ああ田快が、田快までいなくなってしまったら! あたしがしてしまった、ああ、どうしよう! 一体何のためだったの!?」
落ち着く様子はなく、むしろがたがたと大きく震え出してしまう。
陳莇に、田快に何が起こっているのだろう。
緋燿は尋常じゃないと思ったものの白叡はそれでも冷静なまま、すっと彼女を室内へ促した。落ち着くよう囁きながら凳へ陳莇を座らせると、元々の持ち物にあった手持ち用の灯籠に火を分ける。
「私は村長へこのことを伝えてくる。緋燿は彼女を見ていてくれ」
陳莇は現在混乱状態だ。村長がわざわざ警告しに来るほどの霧の中、それでも陳莇は田快を探しにここまでやってきた。再び探し回りに飛び出してしまうのではと簡単に予測ができてしまう。
緋燿は素直に頷いた。
「わかった」
「……少しの間とはいえ、気をつけなさい」
そう言って白叡は緋燿の頭をぽんと軽く撫でると、颯爽と闇の中へ消えていった。
一角が見えないよう深く衣をかぶり直し、見送った戸を閉める。そろりと振り返れば、いまだ陳莇は座ったまま震えていた。ぎゅっと握りしめる拳は強すぎる力で白くなってしまっている。
何か話しかけたほうがいいのだろうか。そろそろと緋燿も凳に近くが、唇が上下張り付いているように開かない。
記憶がなくなってから緋燿が接した人は余りにも少ない。白叡、嘉甘。一応劉俊冉を含んでも僅か三人。それ以外はすれ違うだけの、いっときの関係であり言葉を交わすこともなかった。どう話しかけたら良いのか、圧倒的に経験が少なすぎる。
改めて全て白叡に任せきりにしていたことを自覚し、後悔した。
(銀寒邸に帰るまでに、もう少し会話の練習をしよう……)
心のうちで決心すると、緋燿も凳に腰掛ける。
村長宅まで行った白叡がいつ帰ってくるかはわからない。僅かな時間だとは思うものの、このまま黙って彼女を見ていることは緋燿にとっても落ち着けない状況だった。
白叡は陳莇を宥めるため、言葉をかけていた。衝動を鎮めるようにゆっくりと、静かに、穏やかに。
そう、手本となる姿はいつも目の前にあったのだ。
緋燿は乾燥していた唇を舐めてから陳莇へ真っ直ぐと顔を向けた。
「大丈夫ですよ。白叡がいま村長に知らせに行きましたからね」
昼間の朗らかに笑う彼女を想像しながら語りかける。
「俺も探すの手伝いますし、白叡も優しいから一緒に探してくれます。白叡は凄いんですよ。だから田快も大丈夫です。あ、村長の呼びかけで村の人も協力してくれれば大勢で探せますよね。そしたらあっという間ですよ」
浮かんだ言葉を何とか形にしながら、大丈夫、大丈夫と緋燿は繰り返した。曖昧な現状もきっと何とかなると信じながら。しかし何かがいけなかったのだろう。
陳莇の震えていた体がぴたりと止まった。落ち着いたと緋燿は安堵したものの彼女の瞳を見た瞬間、緋燿の方が体が凍りついたように停止してしまった。
(濁っている)
光のない、混濁した瞳。
戸外の霧闇のように霞み、何が潜んでいるのか窺うこともできない。しかしその瞳が現実を捉えていないことは確かだった。
固まった喉を溶かすように、緋燿は生唾を飲み込んだ。
「あの、陳」
しかし緋燿の声が届くことはなかった。
突如、陳莇は頭を掻きむしり、叫び出した。
「ああああああ! 違う! 違う! もうあの子はいない! あたしは悪くない! 全部、全部悪いのは、いや。なんで、どうして今、霧が出るの!? あの子が、探しにきたんだ! 田快……ああ、田快! どこに行ったの? あんたは、あんたにだけは!」
不穏な単語を撒き散らしながら、それでも甥を探す姿は、乱れた髪と揺らめく陰影のせいも相まって人間をいっとき逸脱した姿に見せた。
緋燿が咄嗟に動けずにいると、彼女はその隙に素早く立ち上がる。そして凳に足を引っ掛けながらも戸外へ駆け出してしまった。
「陳莇さん!?」
一瞬遅れて緋燿も飛び出すが、深い霧はあっという間に陳莇を覆い隠してしまう。
このままでは田快だけでなく、陳莇も危ない。
緋燿は着の身着のまま、彼女を追うため夜闇の中へ走り出した。




