第九話
目当ての人物ではなかったのだろう。少年は緋燿たちが視界に入るとひどく落ち込んだ様子を見せたが、すぐにその表情を怒りに染め、中に踏み込んできた。
「あんたたちいったい誰だ!? どうしておれの家にいるんだ!」
「おれの家?」
見たところ空き家のようだったが、違ったのだろうか?
緋燿が白叡の顔を思わず見ると、白叡は緋燿に向けてわずかに首を振ってから少年に向き直る。そして凳から立ち上がると、少年の前に視線を合わせるように少し膝を曲げた。それでも高い背に少年は少し気圧されたようだったが、逃げることなく負けじと白叡を睨み付けている。
「村長に宿にと案内されたのだが、ここが君の家だというのは本当か?」
「そうだよ! 村長がいいって言ってもおれが許さない! 荒らす前にさっさと出てけ!」
「……確認してこよう」
「いいからさっさとこの家から出てけよ!」
白叡は冷静に言葉を紡ぐものの、少年の熱が冷める様子はない。無作法にも初対面の白叡の衣を握り締めると、ぐいぐいと外へ引っ張り出そうとした。勿論少年の力で白叡の体躯が動くことはなかったものの、彼が少年に手を出せるわけもない。
膠着してしまった状況に緋燿が止めに入ろうとすると、それと同時に今度は女性が戸外から飛び込んできた。
「田快!」
その声はさほど大きくなかったものの、少年には何より効果があったようだ。一瞬で掴んでいた衣を離すと、ばつが悪そうに数歩後ずさって俯いた。
白叡は皺になった衣も気にせず、彼女に向かって軽く礼をした。緋燿も慌ててそれに習う。
少年・田快の両肩を抑えるように手を置いた彼女も申し訳なさそうに頭を下げる。
「申し訳ございません道師様。この子は以前この家に住んでいたものですから、親類以外が立ち入るのを嫌ってしまうのです。しかし現在は別の家で生活していますし、空き家なのは本当です。村長がおっしゃる通りご自由にお過ごしください」
「陳伯母ちゃん!」
「ほら、あんたも謝んなさい」
すみませんねぇと謝る彼女は、同じく少年に頭を下げるよう軽く頭を叩く。しかしそれに激高が振り返したのか、田快は諫める手を振り払った。
「いやだいやだ! いつか絶対に母ちゃんは帰ってくるんだ! だからここを守るんだ! 分からず屋の陳伯母ちゃんにおれの気持ちなんかわからないよ!」
大声を上げ、伯母をも強く睨みつけた少年はもう一度緋燿たちをきっと睨み付けて身を翻す。そして小さい背中は再び勢いよく戸外へと飛び出して行ってしまった。
「こら田快! ああもう。本当に申し訳ございません。後できつく言い聞かせておきますので、ご勘弁を」
「いいえ、お気になさらず」
陳伯母さんと呼ばれていた彼女は、再び白叡に対して深く頭を下げた。
道中の対応でもなんとなく感じていたことだが、聖道師はいろんな人から畏怖と尊敬を受ける立場にあるようだった。確かに道術は聖道師しか扱えず、鬼妖などの驚異の前では彼らに頼るしかない環境下の中、それは当然のことかもしれない。
頭の片隅で彼女が謙る理由を考えながらも、緋燿は田快の方が気になっていた。
母の帰りを待つ少年。
最初に入った時の埃っぽさからこの家に暫く人が住み着いていないことは確かだ。田快さえ中に入ってはいなかっただろう。しかし人の気配があれば、母親だと勘違いして飛び込んできた。瞳は怒りを帯びて緋燿たちを強く貫いたが、一人で出て行った背中は寂しいと叫んでいるようだった。
「あの、あの子の母親は?」
緋燿は被った衣を押さえながら尋ねた。
陳莇と名乗った少年の伯母は顔を隠した緋燿の姿に一瞬訝しげな表情を浮かべたものの、三人が席に着けば、余り他所様に離すことじゃないのだけれどもと前置きを置いて、ぽつりぽつりと語り出した。
元々、この家は田快とその母親である陳柘の二人で暮らしていたらしい。
父親は田快が生まれる前から既におらず、陳柘は女手一人で子を産み育てた。陳柘の姉である陳莇も時間がある時は手助けをしつつ、親子は貧しくも幸せに過ごしていたらしい。
しかしそんな生活は今から三年前に終わってしまった。
陳柘が行方知れずになったのだ。前触れもなく忽然と姿を消した彼女を小さな村の仲間たちは探し回った。それでも見つけることはできず、自宅を改めたところ一組の耳飾りが出てきた。
「それは妹が何時も身につけているもので、亡き旦那からの贈り物だったんです。唯一の形見であるそれを置いて行ったということは余程のことがあったか……新しい男でも見つけて出て行ったんじゃないかと言われました」
それで村人たちはぱたりと捜索を辞めてしまったが、納得しなかったのが田快だった。
「田快はあの時からずっと言うのです、おれを置いていくわけないんだって。それでも当時六歳のあの子を一人にすることは出来ませんで、あたしが引き取ったんです」
それから田快は陳莇の家に移り、村長には次の住居者が決まるか、有事の際以外では陳柘の家を残しておいて欲しいと頼んだそうだ。だから埃はあるものの荒れることなく家が保たれているそうだ。
「村の人にとっては過去の人の家でも、田快にとっては今でも大切な人が帰ってくる大切な場所ってことなんですね」
「そうなの。大切な思い出が詰まっている、あの子にもあたしにとっても大事な家。まあ、結局住めずに放置しちまってるから伝わってないかもしれないけどね」
陳莇はそう言って微笑んでから溜め息を吐くと、ふと外を見て声を上げた。
「あらやだ、長居しすぎちゃいましたね。それでは道師様、あたしはこれで失礼いたします。もしまた田快が何か文句を言いにやって来たらすぐにあたしが連れ戻しますのでお知らせくださいな。ここから少し離れてますが五軒先向こうの、二股の木が目印ですので」
ほほほと口元を押さえて陽気に笑うと、陳莇は出て行った。思ったより時間が経っていたようで、日が濃い橙色に変わり始めている。
緋燿は僅かに差し込む日明かりを衣で遮りながら、冷たくなった茶を一気に喉へ流し込んだ。軽くなった茶杯を卓上へ置く。
遠ざかって行った田快の背を思い出した。緋燿も白叡と一緒にいたい、置いて行かれたくないという気持ちがある。そんな彼がもし、なんの前触れもなく消えてしまったら自分はどうなってしまうのだろうか。
卓子の木目を指先でなぞる。複数に枝分かれする線は複数の答えを表しているのか、それとも結局は淵で落ちるという一つの答えを表しているのか。
卓上で何度も指を滑らせていると、ふとその手が包まれる。
緋燿よりもひんやりとした、それでいて力強い手。
白叡は忙しなかった手を無言で握って動きを止めたかと思うと、上方へ手のひらを向けさせて、そこへころりと白っぽい塊を置いた。饅頭だった。
ぽかんと白叡を見上げれば、彼は少しだけ視線を合わせた後、空になった茶杯や皿を回収して立ち上がる。
「夕食に何か頂けないか尋ねてくる。緋燿は私が食べきれなかったその饅頭を片付けるように」
そう言い残すと、白叡は早足に出て行ってしまった。
手のひらに残った饅頭。小さく、手付かずなそれを緋燿は一口齧る。相変わらず固いものの、先ほどより甘く、優しい味のような気がした。