少女歌劇団『さくら座』
中島重工の『すばる』は本朝初の大衆車として開発・発売された乗用自動車である。
峻険な山々に囲われた上州の地に生まれた同社らしく、箱根の山すら軽々と越える馬力と軽快な運動性を売りにしていたが、それが陸軍の目に留まり、司令部要員の迅速な移動手段として採用されることとなった。
そういうわけで、芙美子が乗っている『すばる』の運転手も、つい昨年陸軍を退役したばかりの元下士官だった。
陸軍でも長く男爵の運転手を務めた経験を買われたのだという。
「もうじき、市立歌劇場に到着しますよ」
隣の席に座るお付き女中のケイが小声で耳打ちをする。
芙美子はこの日、遠方で用事のある宮森男爵に代わって、男爵が後援する少女歌劇団『さくら座』の公演初日に立ち会うことになっていた。
父の名代として立ち会うのは初めてだが、『さくら座』の公演じたいはたまに観に行っており、月に一、二度手紙をやり取りしている団員もいる。
だから、彼女たちに会うのは楽しみではあったが、名代という立場が芙美子の心を重いものにしていた。
「粗相のないように務めることができるでしょうか?」
「なにを言うのです、お嬢様。なにも気負うことなどありません。普段通りに過ごせば良いのです」
「そうは言いますが……まあ、そうですね」
芙美子は言い返そうと思ったが、車が減速しつつあるので言葉を継ぐのをやめた。
ほどなくして、車は市立歌劇場前のロータリーに止まった。
先に降りたケイが芙美子側のドアを開けた。
芙美子は観念して車から一歩降り立つ。
靴が石畳を叩く、心地良い音がした。
歌劇場前の広場は一面石畳で舗装され、砂埃が立ちにくくなっている。
ただ欧風というにはいささか時代がかった、宮殿のような建物には『本日開演 さくら座新作』『春風桜花主演 大悲恋劇』の垂れ幕が下がっている。
「大悲恋劇……七海さんから聞いてはいましたが、やはり気が重いですね」
芙美子は悲劇があまり好きではない。
紆余曲折あっても、最後は大団円になるような話が好みなのは我ながら子供っぽいとは思うが、どうにも好きになれないのだ。
芙美子が重い体を引きずるように歩き出すと、ケイが車のドアを閉めた。
車はすぐに動き出した。
公演が終わる頃にまた迎えにくる手はずになっている。
もう少し融通を利かせて欲しいとは思うが、運転しているのはあくまで男爵の運転手であり、芙美子が雇っているわけではないのだから文句は言えない。
芙美子は嘆息しながらも劇場内へ足を踏み入れた。
劇場内は上品な内装が施され、床に敷かれた赤い絨毯が通路を表わしていた。
案内所には今回の『さくら座』の公演のみならず、他の劇団や楽団の公演のポスターも貼り出されている。
まだ開演まで時間があるせいか一般の観客は入っておらず、芙美子と同様に初日を祝いに来た関係者の姿も、劇団の規模のせいかさほど多くない。
「いつ見ても素晴らしい建物ですね、お嬢様」
ケイがうっとりしたような声を漏らす。
確かに、落ち着いた雰囲気で統一されていて、とても居心地が良い。
建物は悪くない。
芙美子の気が重いのは、演目が悲恋ものであるという、ただそれだけの理由でしかない。
わかっていても、どうにもならない。
「あっ、芙美子さん! お待ちしていました!」
芙美子の姿に気付いたのか、『さくら座』の女優の一人である大友七海が駆け寄ってきた。
普段はモダンな洋装をしている彼女だが、いまはどこかの令嬢のようなドレス姿である。
「七海さん、そのドレスは今回の衣装ですか?」
「そうなんです。ついさっきまで舞台で通し稽古をしてたんですよ」
「それはぜひ拝見したかったですね。実に残念です」
芙美子がそう言うと、七海はにやっと笑った。
「そう言うと思って呼びに来たんですよ。いまから、桜花さんが最後の追い込みをやるんですけど、良ければ芙美子さんも見学しませんか?」
「まあ、良いのですか? でしたら後学のためにお呼ばれしましょう」
重かった気持ちがふっと軽くなるような気がして、芙美子は先を行く七海に続いて歩き出した。
芙美子と七海は歳が近いせいもあって親交も深い。
だから一緒にいるとそれだけで気持ちが軽くなっていく。
「七海さん、今度の演目、あなたはどんな役なのですか?」
「あたし? あたしはね、ロシヤのお姫様。桜花さん演じる日本の海軍士官と相思相愛になるんですけど、日露戦役で引き裂かれてしまうの」
「それでは、七海がヒロイン……?」
「あ、いま似合わないって思いませんでした?」
「いえ、別にそんなことは……」
芙美子が口ごもると、七海はくすりと笑った。
「いいのいいの、そんなのわかってますから。さて、舞台袖へどうぞ」
七海が舞台袖へ通じる扉を開いた。
開演前の騒がしさの中を抜けて舞台袖へたどりつくと、舞台の上が見えた。
海軍の軍服に身を包んだ男装の麗人が舞台の上に立っていた。
『さくら座』の男役で看板役者でもある、春風桜花だった。