販売員の見たものは
会計を済ませてパーラーを出ると、大きな吹き抜けを挟んで反対側に舶来の化粧品を多く扱う売り場が見える。
芙美子は、先を行く芳子を見失わないように気をつけながらそちらへ向けて歩いて行った。
この化粧品売り場には母の付き添いで幾度か来たことがあるが、いつも舶来の洒落た横文字をどうにも読むことができずに、担当の店員にたずねている。
芙美子は売り場についてまず、そのいつも読み方をたずねている店員を探した。
「芙美子お嬢様、いらっしゃいませ」
見るからにモダンな制服に身を包んだ、店員の貞代がめざとく芙美子を見つけてやってくる。
「貞代さん、少し伺いたいのですが――」
芳子の方に視線を向けると、こくり、とうなづく。話していいということだろう。
「ここ十日ほど、なにやら奇怪な出来事が起きているという話ですが、なにかご存じですか?」
たずねると、貞代は周囲をうかがうようにしながら、小声で答えた。
「これは、お客様には伏せておくように言われているのですが……数日前、遅くまで居残っていた者が幽霊のような人影を見たそうなのです。薄ボンヤリとしていて、すぐに消えてしまったのですが、どうやら、その……」
「どうしました? なにも奇妙な気配はしませんが……?」
芙美子が答えると、貞代は安心したように息を吐いた。
「実は、その人影を見た場所というのがまさにここ、なのだそうです。向こうの、昇降機ホールの方からゆらりと近付いてきたように見えた、と」
「そうでしたか。ですが、私の見る限りおかしな点はありませんね」
芙美子はなだめるように言いながら、周囲を見回す。
洒落た横文字のラベルが貼られた、色とりどりの瓶が並び、どこからともなく香水の良い香りが漂っている。
しかし、やはりその店員たちはどこかそわそわと落ち着かない様子であった。
「ねぇ、貞代さん。他に何かきいてない? 芙美子の助けになるならどんなことでもいいんだけど」
「ああ、いえ……私がきいたのは、そのくらいです」
申し訳なさそうに頭を下げる貞代を、芙美子はあわてて直らせた。
「そう恐縮しないでください。ここに奇妙な気配がない、ということがわかれば今日の所は充分です」
「そ、そうでしたか……。芙美子お嬢様、どうかこの騒ぎを鎮めてください。でないと、若い者の中には店を去ろうという話も出ているそうなんです」
「わかりました、微力を尽します」
芙美子は拝み倒さんばかりに頭を下げる貞代の手を取ってそう答えた。
実際、芙美子に言えるのはその程度のことだが、貞代はそれでもいくぶんか安心したようだった。
貞代と別れて化粧品売り場を離れた二人は、次に一つ下の階にある紳士服売り場へ向かった。
落ち着いた空気が漂う紳士服売り場では、巻き尺を手にしたテーラーが慣れた手つきで客の体を採寸し、表にまとめている。
壁には見本として、立派な背広や小洒落たチョッキなどを着せられた蝋人形が何体か立ち並んでいた。
芙美子はそんな売り場の様子を一瞥したが、やはり奇妙な気配などはまるで感じられないし、変わった人やものも見あたらなかった。
「ねえ、どうなの、芙美子? やっぱりだめ……?」
「そうですね、私にはなにも感じられませんし、魔物が潜んでいる様子もありません」
「じゃあ、もうこの売り場にも危険はないってこと?」
「おそらく……ですが、断言はできません」
芙美子は、ふと蝋人形の土台に目を留めた。
そこには、三角形を組み合わせて作る、籠目の図……六芒星が刻まれていた。
「この籠目はどのような理由で刻まれているのですか?」
「あー、それ? 私にもよくわからないんだよね。たぶん、この蝋人形を作ったメーカーがなにかの意味を持たせてやったんだと思うんだけど」
「そうですか……。しかし、こんなところに籠目があるのは、少し気になりますね」
芙美子は六芒星に手を触れてみた。
なにやらひんやりとした、冷たい感触が伝わってくる。
「ふむ……」
「なにかわかった?」
「芳子、蝋人形が置かれたのはいつ頃か、わかりますか?」
「うーんと、半月くらい前だったかな。新しく六体の人形を導入したんだって。それがどうかした?」
「それでは、その六体の置かれている売り場はわかりますね?」
芙美子がたずねると、芳子は頬に手を当てて「うーん」と考えるそぶりを見せた。
「たしか、全身像がここの他に婦人服売り場と呉服売り場……胸から上だけの胸像が宝飾品売り場と帽子売り場に二体だったはず」
「なるほど。ではそっちの人形も一つひとつ、確認していった方が良さそうですね」
「この人形が関係あるの?」
「直接関わりがあるかどうかはわかりませんが、なにかあるかもしれません。行ってみましょう」
今度は芙美子が先に立って歩き出した。
芙美子たちは紳士服と同じ四階にある帽子売り場、一つ上がって五階の宝飾品売り場、三階呉服売り場に二階婦人服売り場と回ってみた。
そこに置かれている蝋人形にも六芒星は刻まれていたが、他におかしな点は見当たらず、店員に話を聞いても、直接人影を見た者が休んでいるせいもあってこれといった証言は得られなかった。
「籠目が刻まれた人形が魔物を呼び込み、店内に閉じ込めているのかもしれませんが……」
屋上庭園のベンチに座って、芙美子は大きくため息をついた。
「籠目を刻んだ者が何者なのかもわかりませんし、もう手詰まりなのかもしれません」
「うーん……やっぱりおじ様に頼まないとだめ?」
「そうですね……いえ、待ってください。まだ、熱発して入院したという方々のお話をきいていません」
「あっ、そうだった! 病院に行こうよ!」
芳子は向こうに見えるやや高い建物を指さした。
欧州より充実した設備を取り寄せたことで知られる帝都随一の大病院、来栖病院だった。