黒波ふたたび
日がゆっくりと落ちてゆく、黄昏の浜辺。
まるでひとけのなくなった海水浴場を、芙美子はひとり歩いていた。
足元に打ち寄せる波は穏やかで、魔物が潜んでいるとは思えない。
「黒波は、本当に起こるでしょうか」
芙美子は誰に言うともなくつぶやくと、沖の方へ眼をやった。
そこも、特に変わりのない、穏やかな海が広がっている。
手の中に隠した小瓶を、芙美子はぐっ、と握り締めた。
といっても、それはふらり火の赤い小瓶ではなく、黄色い蓋の小瓶だ。
「今回は、あなたの力を当てにさせてもらいます。……お願いしますね」
小瓶の中の魔物に呼びかけながら、芙美子は浜辺を歩き続ける。
しばらくの間、波の打ち寄せる音だけが聞こえていた。
やがて、日もだいぶ落ちてきた頃になって、沖合に波が起きた。
波はぐんぐんと大きくなりながら、海水浴場へ向けて迫ってくる。
「……来ましたね」
芙美子が小瓶の蓋を開くと、小さな土塊が飛び出し、すぐに大きな獣の姿になる。
『もーっ!』
角のない牛のような姿をした魔物が、太い脚でしっかりと大地を踏みしめて立つ。
「わいら、あの黒波の注意を引きつつ後退します。できますね?」
『もー』
芙美子がわいらの背に横座りすると、わいらは波打ち際へ出て一声鳴いた。その声に引き寄せられるように、黒波の中から青白く光る手が何本も伸びてくる。わいらはその手が届く寸前で動き出し、内陸へ向けて走り出す。
「功を焦って姿を現しましたね」
わいらの背で、芙美子はぽつりと呟いた。周囲に視線を巡らせると、遠くの岩の上に白い影が見えた。
「あそこですね。南少尉が見つけてくれればよいのですが……」
なおも芙美子を捕らえようと手が伸びてくる。
芙美子は適当なところでわいらを止め、地面に降りる。
黒波の中から死に装束に身を包み、ざんばら髪を振り乱した魔物がその全身を現した。左手に持った柄杓を差し出すようにしながらゆらゆらと歩いている。
「やはり船幽霊でしたね。わいら、やりますよ」
芙美子がそう声をかけた時、海の中から別の船幽霊が現れた。さらにもう一体。続けてまた一体。
「昼間見た時から首を突っ込んでくるとは思ったけど、こんなに早く出てくるとはね」
人を小ばかにしたような、笑い混じりの声がした。
目を凝らしてみれば、船幽霊たちの背後にもう一つ、夕闇に溶けそうな濃紺の影があった。
「メリー……さん?」
メリーは海面に立っていた。いや、海面下に潜む何者かの上に立っていた。
異国風の、フリルで飾り立てた濃紺のドレスに身を包み、下ろした髪を潮風になびかせている。
「また会ったわね、宮森芙美子。まったく、あんたはどうしてそう、首を突っ込んでくるの?」
「それは、あなた方の行いを見過ごせないからです」
「ふうん? つまり、あんたはくだらない正義感でやらなくていいことをしてるわけ」
メリーは口元に手を当ててくすくすと笑った。
「海難法師、宮森芙美子をひっ捕らえておしまい!」
メリーの命令に応じるように、足元の海面が盛り上がった。
海水を割って姿を現したのは、巨大な白い坊主頭だ。
「……っ! あなた方は、そんな魔物まで手なずけているのですか?」
「このくらいの魔物は使役できなければ、あたしたちの目的には力不足だもの」
わずかなやり取りの間に、坊主頭は完全に海面に浮きあがってきた。
険しい顔をして、両目はしっかりと閉じている。そのまぶたが、少しずつ開いていた。
「さあ、やっておしまい! 外法衆の敵を海に引きずり込んで!」
海難法師にばかり気を取られているわけにもいかない。
気が付けば、船幽霊たちもゆらゆらと近づいてきていた。




