なぞの男
『三栗谷荘』は鎌川市に点在する旅館の中ではそこそこの大きさだろう。
夕食の約束をして一度解散したあと、芙美子はケイ一人を伴って、旅館の中庭に散歩に出てきた。庭に植えられた木々はどれも青々と茂っていのちの季節である夏を満喫しているように見える。
中心にある池には橋がかけられ、橋の上からのぞけば大きな鯉が何匹も悠々と泳いでいるのが見える。
「きれいな池ですね。鯉たちもよく世話されています」
芙美子が感嘆の声を上げると、それまで半歩後ろに控えていたケイも隣に立って鯉をのぞき込んだ。
「本当に見事な鯉ですね。これほどに育てるのに、どれだけの手間暇をかけていることか」
「なに、実は大したことでもないのかもしれないよ」
ケイの言葉にかぶせるように、若い男の声がした。
見れば、白い背広に身を包んだ若い男が橋を渡ってくるところだった。
細く鋭い目はまっすぐ芙美子を見つめていて、そして口元は意味深な笑みを浮かべている。
「やあ、失礼。知人にこうした観賞魚の売買を仲買している男がいてね。すでに育った魚を買い入れたのかもしれない、なんて思ってしまったのですよ」
男は無遠慮に芙美子のそばまでやってきて、ぱちりとウィンクを飛ばした。
ケイがあわてて芙美子との間に割って入る。
「あなた、馴れ馴れしいですよ。お嬢様から離れなさい」
「おや、それは失礼しました。ときに、そちらは一体、どちらのお嬢様でしょう?」
男は悪びれもなくたずねるが、芙美子もケイも答えない。
「行きましょう」
芙美子がその場を離れようとすると、男が思い出したように話し出した。
「ところで、海水浴場に出るという魔物のことは知っているかね? なんでも、若い女がいると狙ってくるそうだよ」
芙美子は無視しようとしたが、男はなおもついてくる。
「海軍も頑張って入るようだが、さすがに艦砲を持ち出すわけにはいかないようだね。だからこそ、外法衆も海水浴場なんて場所を選んだのだがね」
「えっ、外法衆……?」
思いもよらない言葉が出てきたことで、芙美子は思わず足を止めてしまった。
そこに男が追いついてくる。
「外法衆について、なにかご存じなのですか……?」
「ああ、知っている。知っているが、そういう君はなぜ外法衆のことを知っているんだ?」
「そ、それは……」
芙美子が答えようとした時、中庭に新たな人影が入ってきた。
「あっ、芙美子! こんなとこにいたのね!」
春美がバタバタと走ってきたのを見て、男は黙ってその場を離れていった。
「あれ? さっきの人は?」
「春美、助かりました。軟派な男にしつこく絡まれて困っていたんです」
「そっか、じゃああたしが芙美子を助けたことになるわけね」
春美は得意げに笑った。
芙美子はそんな春美をよそに、こっそりとケイに話を振った。
「それにしても、あの男は一体なぜ、外法衆のことを知っていたのでしょう?」
「外法衆のことは南少尉もよく知らなかったようですし、もしやあの男も外法衆の一員なのでは?」
「でしたら、あの男を捕らえれば外法衆のことがなにかわかるのでは……? ケイ、南少尉はいまどこに?」
「そ、そんなことわかりませんよ」
「そうでしたね……」
芙美子は南に万一の時の連絡先を聞いておかなかったことを後悔した。
南は軍の任務としてこの街へ来ている。だとしたら、まだ街中で聞き込みをしているかもしれない。そう考え、芙美子はすぐ行動に移った。
中庭を出る直前に振り返り、春美に伝言を託す。
「少々出かけてきます。芳子たちに伝えておいてください」
「ちょっと、どこへ行くのよ!?」
困惑する春海をその場に残して、芙美子は暗くなりつつある鎌川の街へ飛び出していった。




