黒波来る
おそるおそる波打ち際に進むと、足元に飛沫がかかった。
波が足首までを濡らして、沖へと戻っていく。
足元で、流されてきた蟹がせかせかと横歩きをしている。
「あれ、芙美子ちゃんって泳げないの?」
美代が意外そうに首を傾げた。
「いえ、そうではないのですが、今日は気分転換のつもりでしたから」
つまり、泳ぐつもりはないのだ。
水泳の技術は一応身に付けてはいるものの、芙美子にとってそれは娯楽ではなく、魔祓師になるための修行の一環であった。
水棲の魔物を相手取る時に、泳ぐことができなくては思わぬ不覚を取ることもあるだろうというわけだ。
「お嬢様、お荷物に水泳着も入っていますが、どうなされますか?」
ようやく乗物酔いが醒めたらしいケイが旅行鞄を持ってきた。
「せっかく海水浴場まで来たんだから、泳がないなんてもったいないと思うよ」
芳子がそう勧めるが、芙美子は曖昧に首を振っただけだった。
当然ながら、軍隊は男社会である。ことに海軍となると、入営直後から徴兵三年、志願五年という長期間にわたって海兵団や軍艦など、周囲に男しかいない世界を生きることになる。そんな男たちである水兵の見ている前で水着姿になるということに抵抗があったのだ。
芙美子の心中を見抜いたように、春美がにやりと笑った。
「平気よ、水兵さんたちは沖しか見てないもの。あたしたちがなにをしようと気付かないに違いないわ」
「そうでしょうか……?」
「そうよそうよ。せっかく来たんだからさ」
芳子にも繰り返し誘われるので、芙美子は少しだけ心が揺らいだ。
周囲に知り合いといえばこの四人だけだ。それなら、少しくらいは羽目を外していいかもしれない。
それに、春美の言う通り水兵たちは簡易の見張所から沖を見張っているだけで、近くに市民がいてもなにも言わないし、気にする素振りも見えない。
「そうですね……わかりました。芳子、ケイ、着替えのできる場所へ行きましょう」
芙美子はケイにそう言うと、近場にある掘っ立て小屋へと足を向けた。
小屋で水着に着替えた芙美子だったが、身体の線がはっきりと出るこの類いの衣服はどうにも好きになれず、自然と周囲の目線が気になってしまう。
しかし、幸いというべきか、そんな芙美子に目を留める人はなく、波打ち際で待つ友人たちのところへ戻るまでに、軟派な男に声をかけられるということもなかった。
「あっ、おかえり。よく似合ってるよ」
一足先に着替えが終わっていた芳子が手を振って迎えてくれた。
一方で春美と美代はもう一泳ぎと海に浸かっている。
長身でスタイルのいい美代と小柄な春美という組み合わせは、ここでは同級生どころか、姉妹のようにも見えてしまうのが不思議なものだ。
「似合ってる、と言われても困ってしまいます」
「なんで? 別にいいじゃない。減るもんじゃないし」
「それはそうですが、やはり、人目に触れるというのは気になってしまいます」
芙美子はそう言いながらもやはりきょろきょろと周囲を見てしまう。
「んもう、誰も見てないって……」
芳子が呆れたような声を出した。
その時だった。
嫌な風が吹き抜けたかと思うと、沖合にこれまでとは違う波が起こった。
深い海の底がそのまま起き上がったかのような黒い波が、陸地めがけてぐんぐんと近付いてくる。
「ふっ、芙美子!!」
自分を呼ぶ叫び声に目をやれば、春美と美代が少しずつ沖合へと引っ張られていた。
「自分で抜けることはできないんですか!?」
「無理だわ、突然潮の流れが速くなって……!!」
すぐにでも海へ飛び込もうとする芳子を、芙美子は腕を掴んで止めた。
「だめです、ただ行ったところで一緒に流されるだけです!」
「じゃあ、どうすればいいの!?」
「それは……」
海軍に、と言いかけた言葉をかき消すように、重いサイレンの音が鳴り響いた。
見張所に立っている水兵たちが沖に向けて小銃を構え、狙いを定めていた。
それとは別に、小さな短艇が運ばれてきて、数人の水兵が海に取り残された人を救出すべく動き出していた。
「あとは海軍に任せましょう」
「う、うん……」




