海軍の街
鎌川市は海軍の街と言っていい。関東防衛を一手に担う鎌川鎮守府が置かれ、海兵団の水兵たちが日々訓練に励んでいるこの街では、士官向けの下宿や海軍御用達の料亭なども多い。
その砂浜は海水浴場となっていて、海に浸かったり、水練をしたり……という人々の姿が見える。
海水浴は、当初こそ療養などといってただ突っ立っているだけであったそうだが、現在では水泳や短艇など、海遊びを楽しむ場になっている。
「なんとなく物々しいですね」
バスを降りるなり、芙美子は呟いた。
それもそのはずで、海水浴場のそこここに水兵が立つ見張所が設置され、沖に向けて警戒の目を向けている。
いかに海兵団を有する海軍のお膝元とはいえ、尋常とは言い難い。
千代田市から鎌川市まで汽車で二時間弱、さらに駅からバスで十五分も揺られたためか、お付き女中のケイは青い顔でフラフラしている。
「おケイさん、しっかりしてよ」
芳子が声をかけるが、ケイはうなづくのが精一杯といった有様だった。
その様子を横目に見て苦笑しながら、芙美子は海水浴場へ降りていく。
空気中に溶け込んだ磯の香りが鼻を打つ。
潮騒に、海鳥の鳴く声。子供の歓声に沖合から聞こえる低い霧笛の音。
雑多な音が入り交じり、他にない独特の空気を作り上げている。
「あっ、芙美子じゃない!」
突然、そんな声がかかった。
見れば、春美と美代が驚いた顔をして立っていた。
最前まで海水浴をしていたようで頭までびっしょりと濡れているし、春美にいたっては体に浮き袋を巻いていた。
小柄な春美がそのような格好をしていると、とても同じ十五歳には見えない。
「奇遇ですね。春美さんたちは海水浴に?」
「当たり前じゃない。他にどんな用事があって鎌川に来るのよ?」
「それもそうですね。お二人はどう見ても海水浴に来たようですし、普通の人は他に用事なんてありませんよね」
「そう、その通りよ。誰も彼もがあんたみたいに秘術で魔物を操れるわけじゃないの」
春美はなぜか堂々と胸を張る。
そこに芳子とケイが追いついてきた。
「あっ、春美に美代まで。そういえば、来るって言ってたもんね」
「芳子ちゃん、こんにちは。芳子ちゃんたちも海水浴に来たの?」
「まあね。芙美子とちょっと気分転換がしたいねって話したんだ」
芳子が代わりに答えてくれた。
市立歌劇場でメリーを逃がしてから半月ほど。
芙美子は未だにあの時のことを夢に見る。
南はメリーが口走った外法衆という結社について調べてくれると言っていたが、その結果がいつわかるのか、そもそも芙美子に知らされるのかもわからない。
もしあの時、自分が怖じけずにメリーを捕らえようと行動していたら、むざむざ取り逃すことはなかったに違いない。
そう思うからこそ、芙美子は失敗を何度も夢に見るのだ。
夢の中で、芙美子は誰にも助けられることなくシャンデリアの下敷きになる。
その強い衝撃に悲鳴をあげ、そしてそのまま飛び起きるのだ。
そんなことを一晩に幾度も繰り返すのですっかり寝不足になってしまっていた。
それを見かねた芳子が、気分転換に鎌川の海水浴場へ行くことを提案してくれたのだ。
「水兵さんたちがたくさんいるのは、芙美子とは関わりないのね?」
「ええ、まったく。わたしはなにも聴いていませんけど……」
春美はなおも疑わしげに芙美子の顔を覗き込むが、美代が横から制止する。
「春美ちゃん、そんなに覗き込んじゃ失礼だよ」
「うーん、それもそうね。この様子だと本当に関わりはなさそうだわ」
「あの、つかぬことを伺いますが、水兵さんたちがいるのは、魔物と関わりがあるのですか?」
芙美子がたずねると、美代が小さくうなづいた。
「私たちもよくは知らないんだけど、沖の方に黒い波が見えたらすぐに陸へ上がれって言われたの。水兵さんたちもちょっとびくびくしてたし……」
「波だっていうんだから、きっと強い波が来たら黒く見えるとか、そんなところじゃないの?」
芳子の言うように、一際大きな波が起きたとしたら、それは黒い壁のように見えるのかもしれない。
だが、それだけではないかもしれない、と芙美子は思う。
以前にも来たことがあったが、その時はここまで物々しくはなかったのだ。
「もしやすると、なにか魔物が関わっているのかもしれませんが、軍にも専門の部隊がありますから、わたしのような駆け出し以前の見習い魔祓師に依頼は来ませんよ」
芙美子は曖昧に笑いながらそう言った。
「ふうん、そんなもんなの。軍隊ってもっと先進的かと思ってたけど、案外古いことも担ぐのね」
実際、宮森男爵は陸軍でその専門の部隊を率いているのだが、そこまでは話さなかった。
その自分の発言から、芙美子はふと疑問を抱いた。
「海軍には、魔物対策の専門部隊というものはあるのでしょうか?」
それは、男爵令嬢といえど一介の女学生にすぎない芙美子には知り得ないことだった。




