暗渠へ去りぬ
シャンデリアがまっすぐに落下してくるのを、芙美子はどこか人ごとのように眺めていた。
時の流れがいやに遅く感じた。
こんなところで死ぬのだろうか。
逃げなくてはまずい、とは思わなかった。
身が竦んだというのは違う。
おそらく、脳が生きることを諦めたのだ。
「――!!」
誰かがなにかを叫ぶのが聞こえた。
若い男の声がして。
そして、目の前が真っ暗になった。
衝撃。
轟音。
そして静寂。
気が付くと、芙美子は南に抱きかかえられるようにして床に倒れていた。
したたかに打ち付けた背中が痛むが、幸いにも他に大きなけがはないようだ。
どうやら、南が自分のマントで芙美子の体を覆ってくれたおかげで、破片による被害を避けられたらしい。
「ありがとうございます。助かりました」
「大事ないか、芙美子くん」
「ええ、おかげさまで……」
二人は互いに支え合うようにして立ち上がり、後ろを振り向いた。
シャンデリアの残骸が空間の大部分を占めているが、その向こうにメリーの姿はなかった。
壁に人ひとり通れるていどの大きさの穴が開けられていて、その向こうからは下水の匂いが漂ってきている。
「メリーさん……」
芙美子はその穴に近付こうとしたが、残骸に阻まれて果たせなかった。
墜落の轟音が通用路の先にまで届いたのか、慌ただしい足音が迫ってきた。
見れば、増村以下劇場の大道具係が駆けてきている。
「ど、どうしたってんだ、これは!?」
「あの、増村さん……」
増村はシャンデリアの残骸を目にすると、その場に呆然と立ち尽くした。
「一体誰がこんなことを……」
「ひでぇや……」
大道具係の男たちも口々に呟く。
「いまは、メリーの後を追うのは難しいな。一度、上に上がるとしよう」
南にうながされて、芙美子は渋々歩き始めた。
足が重い。
なにしろ、メリーが術師であることに気付かなかったばかりか、取り逃してしまったのだ。
シャンデリアだって、ただあそこに下がっていたわけではないだろう。この損害はとても大きなものになったはずだ。
うつむきがちになった芙美子の肩を、南が優しく叩いた。
「芙美子くんはできる限りのことをやったよ。きっと閣下もわかってくださる」
「そう、でしょうか……? わたしは、メリーさんを逃がしました。つまり、メリーさんは今後も桜花さんを狙ってくるということです。つまり、なにも解決していない、ということではないでしょうか?」
「そうかもしれないな」
南は芙美子の疑念を否定しなかった。
芙美子が理由をたずねようと顔を上げると、南は前方に目を向けたまま言葉を続ける。
「しかし、ことが露見した以上、いままでのようにおおっぴらに動けるとは考えにくい。なら、君は桜花さんや『さくら座』の人たちを守れたということなんじゃないか?」
行く手に通用路の出口が見えてきた。
奈落に出れば、桜花や七海、それに助け出された人質たちが待っていた。
「芙美子さんっ!」
七海がいの一番に駆け寄ってきた。その手を取り、安堵の笑顔を見ていると、ようやく芙美子の中にも「これで良かったのだ」という気持ちが芽生えてきた。
「七海、桜花さん。わたしは……」
「いや、皆まで言わなくていい。メリーには、メリーの事情があったんだ。今はそれでたくさんだろう」
桜花は首を振ると、パンッ、と一つ手を叩いた。
「さて、諸君……気持ちを切り替えようじゃないか」
笑顔で宣言し、上階へのドアへ向かう桜花の足元に、仔犬のような魔物の姿が見えた。
「あれはたしか、すねこすり……」
「夜道など、寂しい気持ちに反応して表れる魔物だったな」
顔は笑っていても、つまりはそういうことなのだろう。
この幕切れに納得できないのが自分だけではないと知り、芙美子はほんの少しだけ、気持ちが楽になったのだった。
「しかし、なぜメリーは魔物を扱うことができたんだ? 彼女の身辺を調べる必要があるかもしれない……」
南が思い出したようにぽつり、と呟いた。
芙美子は、メリーが口にしたことを思い出し、南に伝えた。
「そういえば、メリーさんは自分のことをげほうしゅう……とか言っていたような気がします」
「げほう? 外法のことか。だとするとこの一件、存外に大きな裏があるかもしれないな」
「南少尉は外法衆という人たちをご存じなのですか?」
「いや、初耳だ。だが、魔物を使役できるような者たちがそうやって徒党を組んでいるとなれば、見過ごすわけにはいかない」
南はなにかを考えるそぶりを見せたが、芙美子が見ていることを思い出したのか、すぐに歩き出す。
「芙美子くん、閣下のお戻りは一週間後だったか」
「はい、その予定です」
「わかった……それまでに外法衆のことを多少なりと調べておく」
その背を見送りながら、芙美子はもう一度、南に深く頭を下げた。




