楽屋法師
廊下に出た芙美子は周囲を見回した。
裏方の廊下とはいえ壁には等間隔に窓と電灯が設置されており、昼も夜も明るさで不自由しないようになっている。
掃除の行き届いた廊下を隔ててすぐ向かいには通用口があって、道具の搬入や搬出が楽にできるようになっている。
芙美子はその通用口を注意深く観察してみた。
真鍮作りの握り手にはこれといって飾りはなく、ただ実用性だけを追求したようなものだった。
「表の入り口扉とは違いますね」
「そりゃあ、あっちはお客さんが出入りするハレの空間ですから。こっちはどちらかというとケに属する空間ですよ」
後ろで見ているメリーが答えた。
芙美子は握り手をつかむと、ぐいぐいと動かしてみた。
しかし、鍵がかかっているようで扉はびくともしない。
「ここの鍵は劇場の係員と劇団の座長しか持ってないんです。鍵が開いていないということは、術師は鍵を持っているか、ここを使わなかったか、ですね」
「そうだとすれば、ここを使わずに逃げたと考える方がいいと思います。ここを使ったら自分の正体を教えるようなものですから」
芙美子は通用口から離れ、廊下の奥へ目を向けた。
そちらにあるのは楽屋と衣装部屋。
反対側に目を向ければ、舞台の前を通ってロビーへ通じる。
「さて、術師はどちらに身を隠したのか……」
芙美子はそう言いながらも楽屋へ向かって歩を進める。
床板を靴が叩き、こつこつという硬い音が廊下に響く。
「あの、芙美子さん?」
「衣装部屋には人がいる、と言うのでしょう? 私もそれはわかっています。ですが、楽屋の方はどうでしょう?」
「楽屋だって人はいますよ。出番に向けて準備をしている子たちがいるんですから」
「その中に術師が紛れていないとも限りません。そうでなくても、逃げる術師を見た人でもいれば幸いです」
そう言いながら楽屋の前にたどり着いた時、芙美子はほんのかすかな気配を感じた。
小瓶を手にしたままドアノブに手を掛け、一呼吸おいてから一気に開く。
楽屋の中では端役の役者たちが向こう側の壁際で身を寄せ合うようにしていた。
その前で、奇怪な法師がこちらに背を向け、袋になにかを詰めている。
法師の体からは邪気がもやのように立ち上がり、周囲が揺らめいて見える。
「ふ、芙美子さん……あれって」
「人ではなさそうですね」
芙美子が小瓶の蓋を開くと、火の粉が散ってふらり火が姿を現わす。
それに気付いたか、法師がゆっくりと振り向いた。もぞもぞと動く袋を肩に担ぎ、薄く開いた目でじっ、と芙美子の方を見据える。
「その袋……まさか」
次の瞬間、法師が左の掌底を突き出した。
青白く光る妖気の塊が打ち出され、ふらり火に迫る。
「お行きなさい、ふらり火!」
『こけっ!』
芙美子の指示を受けてふらり火はとととっ、と床を走り、翼を広げて跳び上がった。
法師の顔めがけて蹴りを見舞う。
法師は左手で顔をかばうようにしてふらり火の攻撃をかわすと、床を滑るようにして芙美子の方へ近付いてきた。
芙美子はメリーを突き飛ばしつつ、自分も床に倒れ込んだ。
最前まで芙美子が立っていた場所を妖気の塊が通過する。
『かかかっ……』
笑った。
法師が笑っていた。
『こけっ!』
その背後からふたたびふらり火が飛びかかる。
ふらり火の嘴に後頭部を突かれた法師は担いだ袋を振り回した。
それがふらり火に当たることはなかったが、勢い余って壁に激突した袋からうめき声が漏れた。
「まさか、袋の中に人が!? ……そういえば楓ちゃんがいません! 蘭さんも!」
メリーの言った通りなら、袋の中には二人の少女が囚われていることになる。これ以上、あの法師に袋を振り回させるわけにはいかない。
「……っ。戻りなさい、ふらり火」
「こっ!」
ふらり火を小瓶に戻すと、芙美子は別の小瓶と取り替え、再び蓋を開けた。
「槍毛長! あの袋を奪うのです!」
『エイッ!』
飛び出した槍毛長は芙美子に言われた通り、法師の持つ袋めがけて飛びかかった。
しかし、法師はそうはさせじと体をかわし、掌底から妖気弾を打ち出す。
槍毛長は自慢の毛槍で妖気弾を迎え撃つ。
「たっ、大変っ!」
メリーが声を上げた。
法師は妖気弾を打ち出してすぐに身を翻し、奥の壁へと姿を消してしまったのだ。
「くっ、逃がしましたか……」
芙美子は急いで壁へと駆け寄った。壁には金属製の蓋が取り付けられている。
開けてみると、それはどうやらごみを捨てるためのダスト・シュートらしかった。
「ここから逃れたのでしょうか?」
「でもこれ、人が通れるような大きさじゃないですよ。あの魔物だって通れないんじゃないですか?」
「魔物ですから、かなり融通が利くとは思いますよ。しかし、素早さが気になります。舞台上に現れた際は、人を包んだら浮かび上がるのが精一杯という様子で、あれほど素早く逃げ去ることはできませんでした」
「それって、もしかして魔物が一匹だけじゃないってこと?」
「そうかもしれません。蘭さんや楓さんをさらっていったのは別の魔物であると考える方が良さそうです」




