消えた術者
芙美子が梯子を登っていくと、先に登っていたメリーが手を貸してきた。
その手を取って体を持ち上げ、梯子を登り切った先は縦横に梁が走る、舞台上の空間だった。
太い梁はそれ自体が足場であり、梁の間には四つ一組になった脚光が配置されていて、舞台を明るく照らしている。
「ここが舞台上です。どうですか、芙美子さん?」
「どう、ときかれましても……」
そう答えながら、芙美子は舞台を見下ろし、さっきまで自分がいた位置を探した。
不安そうにこちらを見上げるケイの姿がとても小さく見える。
芙美子は軽く身震いしてから、舞台の中央近くにある脚光のところへ歩み寄った。
さきほどの騒ぎの時、魔物はここに立つ人影の元ヘ逃げて、消えたのだ。
とはいえ、脚光の周囲を調べてみても、特におかしなものは見当たらない。
それに、脚光じたいもおかしなものは特になかった。
ついで、芙美子は人影が走り去った方向に目をやった。
いましがた登ってきた梯子があるのとは逆側の舞台袖だったが、こちらには梯子のようなものは見当たらず、壁になっている。
「あの壁、どうかしました?」
「ああ、いえ……やっぱり壁なんですね」
近付いてよく見ても、それはしっかりとした板壁で、とうてい人間が通ることなどできそうにない。
大道具を吊る糸を操作するためのものか、レバーが設置されているが、ただそれだけだ。
芙美子は困って、考え込んでしまった。
「たしかに、術師はこっちに向かっていたはず……となると、どういうことでしょう……?」
「この壁をすり抜けるなんて芸当ができるとすれば、忍者か魔物でしょうね」
メリーはそう言って、一人でくすくすと笑った。
「忍者……猿飛佐助のような忍術名人であれば魔物すら操って色々と暗躍できそうですが、実はここ、ただの壁じゃないんですよ」
メリーはそう言って、壁板に設置されていたレバーをぐいっと押し上げた。
すると、なにかが近付いてくるような音がしたあと、壁板がまるで襖のようにするすると開いた。
その向こうは、三畳ぶんほどの部屋になっており、壁にはレバーがついていて、こちらと同様に上がった位置で止まっている。
「天井から下げるような大道具や大がかりな仕掛け、背景の幕なんかを上げ下ろしするための昇降機なんです」
「そんなものがあるんですね。だとすると、恐らく術師はこれを使って逃げたのでしょうか?」
「たぶん、そうだと思います。ここなら人目に付かずに下へ降りられます」
芙美子は昇降機の中に入ってみた。
ついてきたメリーがレバーを動かすと、壁板が元のように閉じ、下へ向かって昇降機が動き始めた。
東雲堂のものは人を運ぶ昇降機だったが、こちらは物を運ぶ昇降機で、快適さはあまり求められていないらしい。
明かりのない真っ暗な部屋の中で、浮遊感と地響きのような音だけが昇降機の動きを伝えている。
それでも、恐らく三十と数え終わるか、終わらないかというところで昇降機は停まる。
壁板が開くと、そこは大道具置き場だった。
裏方の大道具係が忙しそうに立ち回っていて、とても声をかけられそうな雰囲気ではない。
芙美子は、責任者の増村が書き割りの軍艦を前に腕組みしているのを見つけ、近くへ行って声をかけた。
「増村さん、少しよろしいでしょうか?」
「えっ? ああ、これはこれはお嬢さん。こんなところへようこそ」
増村は芙美子の姿を認めると腕を解いて頭をかいた。
「その書き割りをじっと見ていましたけど、どうかしたのですか?」
「いえね、この書き割りをこれから舞台の上に持っていくはずだったんですが、ほら」
増村が書き割りに付けられた溝を指さした。
「ここには作り物の機関銃があったんですが、誰かがぶつかったようでしてね、いま修理してるんです」
よくよく見れば、船縁の内側に、なにかが勢い良くぶつかったような後がついていた。
人がぶつかったことで機関銃が回転し、船縁に当たってしまったのかもしれない。
「ふむ……。増村さん、実は先ほど、舞台でちょっとした騒ぎがありまして」
「騒ぎですか? もしかして、例の布きれみたいなのが出たんですか?」
「ご存じでしたか。その布の魔物が春風さんを連れ去ろうとしたのです」
「なっ、なんですって!? それで、桜子……いや、桜花は無事でしたか?」
「ええ、無事です。今はもう、舞台で稽古の続きをしていますよ」
「そうですか、それは良かった……」
「あの、それで増村さん、その魔物は術師に使役されている恐れがあります。術師はその後、梁の上から昇降機でこちらへ降りてきて、逃げる際に機関銃にぶつかったのかもしれません」
「それなら辻褄は合いますね。しかし、魔物を使ってまで公演を邪魔しようだなんて、とんでもない人間もいるもんです」
「ところで、誰か怪しい人を見かけたりはしませんでしたか?」
「残念ながら、あの時は別の書き割りの組立をしてましてね、いちいち誰がどこにいるとか、そういうことを見ているような余裕はありませんでしたよ」
「そうですか……すみません」
芙美子は増村に礼を言うと、周囲を見回した。
本来あるていどの広さがあるはずの道具置き場は、いまは書き割りがいくつも並べられ、かなり手狭になっている。
その出口になりそうな場所は一箇所だけ。
観音開きの扉を開けると、そこは劇場の廊下だった。




