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冬風よさらば  作者: 師走
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「………」

目の前は真っ暗に近かった。

私は光をつけていないと就寝できない体質だから、その蛍光灯スタンドからは白い明かりが覆うように伸びているのだけれど。


「………」

また、このまま寝てしまおうか。

ぼんやり考えた。

まだ体は動いていないのだ。

目を閉じればスッと夢の世界へ帰れそうな気もする。


第一、このまま起きるのも変だろう。

それでどうなるというのだ。

予定もなし。

考え事、悩み事だってないだろう。


早起きは三文の徳?

馬鹿馬鹿しい。

正確な生活リズムを刻もうと心がけた方がよっぽど清潔だ。

いつもより早くに起きると、その不足分の睡眠量は午後に急に現れてくるものだ。

それでボヤボヤして何もはかどらず、すぐに寝てしまう。


負のサイクルではないか。

これではダメだ。


明るくなるまでは寝なくちゃ………。

瞬きを数回して、意識を遠ざけようと思った。

全身は脱力しきっているから、大丈夫。これでゆっくり…


カリカリカリ


「ん……」

私は今度こそ明確に目を開けた。

かすかに音がする。

このノイズのせいで、こんな時間帯に目が覚めたのかもしれない。


カリカリカリ、カリカリカリ


「………ちっ」

喉の奥で、小さく舌打ちをする。

飼い犬のマユが、ゲージを引っ掻いている音だ。

出してくれ、散歩に行くぞ、という合図なのだろうが、今何時だと思っているんだ。

時間感覚の狂いも甚だしいな。


「んー……、んあっ」

両腕を伸ばして息を吸い込み、大きなあくびを生み出す。

暗い、そう、またこんなに暗い時間なんだ。

外も寒かろう。

出て行くメリットに欠けるね。

マユは辛抱してなさい。


カリカリカリ、カリ


ゴロン、と寝返りを打つ。

布団が滑らかに動く。


どうしてこんな時間なんだ。もう少し考えてくれ。


私はため息をついた。

そして、自分の両手を交差さして、イジイジと弄んでみる。

これが何になるとも知れないが、恐らく布団から出たくないのだろう。


カリカリカリ、ガッ、ガッ、ハウッハウッ


鳴き声がする。

マンションで飼うにあたって、他の住民に迷惑をかけないよう、この犬は声帯をぶっこ抜いているから、こんなにかすれた声が出る。


この手術は酷かった。

私はつらつら思い出す。


二度も施行したのだ。

マユも大変だったろう。


一度目は、不完全なちぎり方だった。

それによって、ダックスフントであるマユの甲高い声は音量を下げられたのだが、今度は濁った汚い音となって部屋に響き渡った。


獣医の話によれば、これ以上の声帯摘出手術は、犬の生命に関わることなのだそうだ。

声帯を切断した後は、その切断面の血管から血が吹き出て小さく潮を吹くらしい。それがすぐに止まる程度であれば良いのだが、やり過ぎると絶命する。


しかし、ここはマンションであった。共同住宅なのだ。なんとか声量を鎮めてもらわねばならない。そう頼んでみると、別の病院をあたって下さい、と言われた。死ぬかもしれないので、ここの病院では担当できない、と。


それで私はそこから少し離れた場所にある別の動物病院にマユを連れて行き、事情を説明した。

そこにいた獣医は、きりりとした黒メガネをかけた若い男だった。


二つの病院は、どれも規模は小さく、獣医も一人しかいないようだが、何よりそこが違ったと思う。一つ目の病院にいたのは、おっとりした表情の老年男性である。


そして、その外見の印象通り、二人の医者は性格が異なっていた。


「確かに命の危険は拭い去れないです」と、若い獣医は素早くハキハキした声で言った。「ですが、どうしてもと言うのであれば、手術しますよ」


私は素直にこの人を信頼できると思った。それで「お願いします」と頭を下げたのだ。どっちみち、声帯は残らず綺麗さっぱり途絶えさせてもらおうと考えていたし。


それで、マユは、しばらく時期をおいて、体力が回復してから、再度手術台に上った。

1日後、私が彼女を向かいに行くと、そこにはちゃんと生きた犬がいた。


「良かったですね」と獣医は言った。

「ありがとうございます」私も返した。


そんなことがあって、マユは完全に呼吸の音しか聞こえないような声に変わっている。

だが、そうとは分かっているだろうに、今でも声を出す時は全力で、前足をピョンと浮かせるようにして、体全体を使う。そして、そんな時には必ず、瞳がとっぷり濡れているのだ。本当に泣いてやがる。


「…………。ふぅ」

私は右腕を目の上へかざすようにした。


カリカリカリカリッ


「…もぅちっと、ゲージを遠くにおけば良かったかな……」

唇だけで、自分にアドバイスをする。

だが、もう遅過ぎた。


ハウッ、ハウッ、ハウッ


左手で床を押しつけ、むくり、と上体を起こす。

焦点が定まらず、右手の甲で擦る。

多分私は今、二重になっているのだろう。


それから、ゆっくりした動きで、電気スタンドのスイッチを切る。

触れただけで消えるタイプのものなので、いまいち自分が操作した感じはしない。

だが、明かりは消えて、本当に闇が部屋全体を漂ってくる。


「んっ。んっ」

頭を強引に左右へ振って、首の骨をポキポキ鳴らした。


「……………」

マユの鳴らす音が止んだ。

だが、私はもう起きてしまっている。

タイミングの悪いことだ。


パチン、と頰を両手で叩いた。

その途端、ガタガタッ、とドアの向こうで反応がある。マユは、敏感にも、私が起きたことに気づいたようだ。


ハウッ、ハウッ、ハウッ、ハウッ


「急げ急げ」と言われているようで、何かイラつく。こういう時。逆にダラけてやろうかな、と思わせるような不快な音。


こめかみの辺りをぽりぽり掻いて、フッと息を吐きながら両足に体重を乗せ、立ち上がる。

布団は私を引き止めようと太ももあたりまで手を伸ばしてきていたが、流石に完全に膝を伸ばすと後ろに引いていった。垂直だと耐えられないんだな、この薄茶の染みがついた白布団も。


「よー、こいしょぉっ」

踝にまだ抱きつこうとしている掛け布団を足の甲で払って、私は部屋のドアに手をかけた。


力を込める。

ガチャリと音がする。


そして出た先には………


「…………」

マユだ。期待の目でこっちを見ながら、尻尾をブンブンブンブン大きく早く振りまくって、とうとうハウッ、ハウッ、ハウッ、ハウッ。


「あああああ!!」

だが、私は次の瞬間、頭を抱えた。

ゲージの横に水たまりができている。


「トイレからはみ出すなぁ!」

私はそう叫び、ドタドタと走り始める。

覚醒していく、覚醒していく、覚醒していく。


乱暴にタオルを数枚取って、その水たまりにぶつけると、また別のタオルをキッチンの水で濡らして持ってくる。


「もぉぉー!こいつはこいつはこいつはこいつはぁぁぁ!!!」


だが、マユは反省の色を微塵も見せない。


平気な顔で、

ハウッ、ハウッ、ハウッ

だ。


私は数え切れないくらい舌を鳴らしながら、瞬く間に掃除していく。

クソゥ、小型犬のくせしやがって、なんでこんなにションベンの量が多いんだよ。世話が比較的簡単だっつって聞いたからお前を選んだってのにぃ。


ダダダダッ

使い終わったタオルは洗濯カゴにつぎ込む。


しかし、それを終えた後で、「しまったな、このままじゃいけねぇ」と考え直し、カゴからすぐ洗濯機へ移してしまう。


液体洗剤をゴポポ、その蓋をがしゃん。

目にも留まらぬ早業で複数のボタンを押すと、それについていくような格好で、ピピッ、ピッ、チャーーラーラーチャーラララーという洗濯開始の音楽が流れた。


「はぁっ、はぁっ」

壁に手をつきながら、隣に下げる鏡に目をやる。

自分と、目が合う。


「…………」

呼吸を整えると、私はマユの散歩へ行くことを決心した。

まず歯磨きがしたいが、そんなことは後回しだ。

口の中が少し粘ついていても、我慢すれば良いだけのことである。


顔を洗うのも後だ。目クソなんてどぅってことない。

それより、マユの小便第二弾がいつ襲ってくるか分からないのが怖い。

さっきのでほぼ出し切ったはずだから、90%以上安全なのだが、最後の10%も駆逐すべきだ。徹底しなくては。


私は大股で荒々しくマユのゲージへ近づき、戸を開けてやる。

ガシャガシャン


すると、同時にその小さな犬が走り出てきて、部屋の中を駆け回る。

……良かった。寝ぼけて油断していたのだが、マユの足には、しっこが付いていなかったようだ。もし汚れを広げられたらどうしようかと思った。


「……よっ、行くぞ」

私はゲージのようにつっかけてあるリードを手にして、マユへ近づく。

マユは依然として、尻尾を強力なメトロノームにしている。


カチッ


「よぅし、じゃあかなり早めの散歩行っちゃおうかな。これからはこういうのやめてくれよ…」

私は、マユを抱きかかえ、廊下を突っ切って外に出て、二重ロックをちゃんと掛け、引っ張って開かないことを確認した上で、エレベーターへと向かった。

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