ついに決着の日
亜貴はセットしていた目覚まし時計の音で目を覚ました。身体がまだだるい。節々の痛みはなくなったのだが、重い感じだ。熱を計ると三十七度四分。微熱だった。でも今日は刻との勝負の決着をつける日。学校に行かないわけにはいかない。
ぐぅとお腹が鳴った。昨夜夕飯を食べないで寝てしまったせいでお腹が空いたのだろう。お腹が空くということは大分回復しているのだと思った亜貴は、ベッドから出ると制服に着替えた。セーラー服のリボンを締め直し、気合いを入れる。自室のドアを開けて廊下に出ると、朝食の美味しそうな香りが鼻をくすぐった。亜貴が階段を降りると、
「あら、亜貴、今日は学校行けるの?」
と奈津が聞いてきた。
「うん。まだ微熱はあるけど、行けないほどじゃないから」
「無理する必要はないんだぞ?」
父の透が心配そうに亜貴を見て言った。
「うん。でも、今日大切な用があるから行く」
「そうか」
透はまだ心配そうではあったが、亜貴の決意が伝わったのかそれ以上何も言わなかった。
「ご飯は食べられる?」
「うん。昨日食べないで寝たから、お腹空いちゃった」
「そう。じゃあ食べられるだけ食べていきなさい」
「うん。ありがとう」
亜貴はテーブルにつくと、白米と味噌汁、焼き鮭を食べ始めた。
朝の電車はいつも通り混んでいて、吊り革につかまって立っているのが辛かった。微熱で頭がぼうっとしている。亜貴はその靄のかかったような頭で一つのことをずっと考えていた。刻に今の亜貴の気持ちをどう伝えるかをだ。刻はもう心は決まっていると言っていた。でも、亜貴の気持ちはまだ定まっていない。
(こういう場合どうしたらいいのかしら)
まだ半分は焔に心があるから、刻に惚れなかったということになるのか。それとも、心の半分を刻が占めているのだから、刻を好きになったということになるのだろうか。
分からない。
でも、嘘はつけない。今の自分の心を正直に説明するしかない。
「亜貴」
学校への道を歩いていると背中を叩かれた。声からして美和子だろう。
振り返るとやはり彼女だった。
「熱はもう下がったの? 学校来て大丈夫なの?」
「微熱はまだあるんだけど、今日は特別な日だから」
決意をたたえた目で亜貴は言った。
「じゃあ、いよいよ今日なんだね? 樋口君との一ヶ月の最後の日」
「そう、今日なの」
「亜貴の中で、気持ちは決まったの?」
「正直、自分の気持ちが分からないままっていうのは変わらなくて……。だからそのままを伝えて、相手に判断を委ねようと思ってる」
「そっか。じゃあ、亜貴は勝てるか勝てないか今のところ分からない感じなんだね」
「うん。でも、もう、勝ち負けは私にとっては重要ではなくなっちゃった。本当にバカらしいこと始めたと自分でも思うけど、でも、この一ヶ月は無駄ではなかったと思う」
亜貴は微かに笑ってそう言った。
「亜貴が無駄でなかったと思えるならそれはそれでいいんじゃない? 頑張って伝えるんだよ? 自分の今の気持ち」
「うん、ありがとう」
「ほら、樋口君だよ。最後の日なんだし、一緒に登校したら?」
「……そうだね。行ってくる」
亜貴は刻の背中を目指して小走りになった。
「刻、おはよう」
「おう、亜貴。体調はもういいのか?」
亜貴の声に刻が振り返った。
「まだ微熱はあるけど、学校には来れるほどだから」
「そっか。なら、良かった」
目が合うと、一昨日のことを思い出し、二人とも赤くなった。
「あー、亜貴、えっと、こないだはごめんな。俺、柄にもなく暴走しちまって」
刻が鼻をこすりながらそう言った。
「えっと、本当の彼氏とのじゃないから、カウントしなきゃいいのよ、うん」
亜貴は我ながら悪くない思い付きだと思いながら言ったが、刻は顔を曇らせた。
「カウントしない、か……」
切ない響きを帯びた声に、亜貴は自分は失言したのだと悟った。
「こ、刻?」
「俺は大事なファーストキスだと思ってるんだけどな。まあ、亜貴に強制はできないから、そう思うなら勝手にしてくれ」
刻の語尾はきついのに、声に悲しさが溢れていて、亜貴はなんだか切なくなった。自分の言葉が刻を傷つけたのだと。
「刻? あの、私、刻を傷つけたならごめんなさい。そんなつもりはなかったの」
「いいさ、この話はやめよう。もともとは俺が悪かったことなんだし」
刻は珍しく泣きそうな笑顔を見せた。亜貴はその笑顔に胸が締め付けられる。カウントしない。それは刻の存在を認めないことに繋がるのだろうか。亜貴は今更ながら酷いことを言ってしまったと後悔した。刻について色々考えていると、
「亜貴、また変な顔になってるぞ?」
と刻が亜貴の右頬をつねった。これもお馴染みになったことだ。
「いひゃい」
「今日は晴れたな。いつものとこで弁当食べられるな」
「うん」
「最後の日に一緒に食べられるのは良かった」
「……そうね」
二人は晴れたことに感謝した。
「じゃあ、お昼な」
「うん」
教室の前で二人は分かれてそれぞれの教室に入った。いつもと変わりない朝。でも、今日で恋人ごっこは終わる。特別な日。亜貴は今日一日を大切にしようと思った。
亜貴は授業の間、刻との勝負が終わってからのことを考えていた。
挨拶をするのは別におかしくないと思う。お弁当を毎日一緒に食べることはないだろうな。一緒に帰るのはたまにならあるかもしれない。刻はブルームーンに亜貴と一緒に行ってもいいと言ってくれた。でも、お互い帰りの時間が違うのに、わざわざ待ってまで一緒に帰るかな。メールや電話は用事がある時にはしてもおかしくない。ただ、この一ヶ月みたいに二人で色んな所に行くことはもうないに違いない。勉強は分からないところは聞いていいと言われたのを覚えている。
大丈夫。別に全く交流がなくなるわけではない。友達ではいられるんだから。でも、友達ってどこまでなら許されるんだろう。
心に隙間風が吹くようなこの感覚はいったい何?
刻に彼女ができたらまた状況は変わる。友達と言えども接触を控えないと、彼女が心配する。男女の友情って、そう考えるとなんて心もとないんだろう。
ーー寂しい。
浮かんだ言葉に、亜貴は動揺する。
刻といられなくなると寂しい。そう思っている自分に、亜貴はなんて自己中心的なんだろうと情けなくなる。それでもやっぱり寂しい。焔と会えなくなるときのように寂しい。
ぽたりとノートに小さな染みができた。その染みが大きくなる前に亜貴は、
「すみません。体調が優れないので保健室に行ってもいいですか?」
と授業をしていた先生に願い出た。
「大丈夫か? 昨日は欠席していたからな。いいぞ。保健室に行きなさい。一人で大丈夫か?」
「大丈夫です」
亜貴は席を立つと後ろに回って教室を出た。音が立たないようにゆっくりドアを閉めて、亜貴は保健室に歩き出す。涙がまた一筋溢れた。
保健室のベッドに寝ていると、ますます色々考えて涙が溢れた。
焔とはもう会えないかもしれない。だから寂しいのは分かる。刻とは会える。なのになぜここまで寂しいのか。会える距離にいるのに理由がないと会えない、それはそれで寂しいことなんだと亜貴は思った。
刻と弁当を食べるのは最後だから一緒に食べたい。でもなんだか泣いていると頭がぼんやりしてきて、身体もだるくなってきた。意識が遠くなる……。
「亜貴」
刻の声の幻聴がする。
「亜貴。寝てるのか?」
「?!」
幻聴じゃない。亜貴はうっすらと目を開けた。どうやら泣きながら寝てしまっていたようだ。
「……泣いてたのか?」
刻がそっと亜貴の目元を拭う。
「また兄貴のことでも考えてたのか?」
少し寂しそうな刻の言葉に、亜貴は首を横に振った。
「明日からのことを考えていたの」
「明日からのこと?」
「そう。刻と恋人ではなくて友達になってからのこと」
「それでどうして泣くんだよ?」
「どうしてかな。どうしてこんなに悲しくなるのかな」
「友達でも今とそんなに変わらないさ」
「刻は寂しくないの?」
亜貴の濡れた目で問われ、刻はどきりとした。
「そりゃあ、まあ、これだけ一緒にいたのが急に一緒にいられなくなるのは寂しいっちゃ寂しいさ」
刻の言葉に亜貴は少し安心した。自分だけじゃないんだと。
「亜貴、具合が悪いんだったらもう帰った方がいいんじゃないか?」
「え? お弁当一緒に食べられないじゃない」
残念そうに息を吐いた亜貴に、
「俺、亜貴を送っていくからさ」
と刻は小声で言った。
「え?」
亜貴が話が飲み込めずにいると、刻は一度亜貴に意味ありげに笑った。
そして亜貴のベッドから離れると、刻は何やら保険教諭の方に歩いて行った。先程までの元気な声が嘘のようなきつそうな声で先生に何か言っている。
結局、刻は仮病を使って早退をした。
校門を出て少し経ったところで、亜貴と刻は合流した。
「それにしてもよく刻、早退きできたわね?」
「日頃の行いかな? 成績優秀で態度も良い。だから仮病も疑われない」
亜貴はふふふと笑む。
「自分で言うことじゃないわよ? でも、刻が一緒で良かった」
「鞄、持つよ。きつかったら俺につかまっていいからな?」
「ありがとう」
亜貴は刻の袖を持ってゆっくりと歩いた。刻もそれに合わせて歩いてくれる。
「うちの近くには小さな公園があるの。そこでお弁当食べない?」
「おれはいいけど、亜貴、きつくないのか?」
「本当はちょっときついけれど。でもお弁当一緒に食べるの今日が最後だから。だから一緒に食べたい」
「亜貴がそう言うなら……」
昼間近の電車は少し空すいていた。
刻は亜貴を空いていた席に座らせ、自分は亜貴の前に立った。
亜貴はぼんやりと刻の顔を見上げる。
「いい男だろ? 俺」
刻の言葉に亜貴は笑った。
「そうね。いい男の樋口先輩に似てるわ」
「けっ、また兄貴かよ?」
刻はとたんに不機嫌になる。
「嘘。刻もかっこいいと思うよ。だから顔につられて好きになっちゃう子もいるんだろうね」
刻は益々顔をしかめた。
「それって中身がないのにってこと?」
「そんなことは言ってないわよ? 中身はもっといいから、顔につられるなんて勿体ないわよね? ってこと」
「なんだよ、亜貴。今日はなんだか素直じゃねえか。今更演出しても、もう結果は変わらないぞ?」
「それは残念。でも確かに刻はもう決まってるって言ってたものね」
「亜貴は決まったのか?」
刻の問いに、亜貴は少し考える素振りを見せた。
「うーん。答えになるかは分からないけれど、素直な自分の気持ちを刻には言おうと思う」
亜貴の答えに、刻は目を伏せて笑った。
「そっか。じゃあ、俺は心してそれを聞かなきゃな」
刻は亜貴の家の近くの駅に着くと、手を差し出した。
「お嬢様、お手をどうぞ」
亜貴は少し躊躇う。でも。
「……じゃあ、遠慮なく」
亜貴は刻の手に手を重ねて立ち上がった。その後、亜貴は刻の腕に手を回して、歩いた。
「なんだか見っともないし、恥ずかしいんだけど、身体に力が入らなくて」
「病人なんだから遠慮するな。
それでどっちだ?」
「こっち」
亜貴が指差した方に二人は並んで歩いていく。
「無理しないでいいんだぞ? 弁当はまた別の機会にでも……」
「別の機会っていつ?
いいの。私が食べたいんだから」
亜貴は静かな住宅街をしばらく歩いてから見えてきた小さな公園を指差す。
「あの公園よ。惜しいな。桜がね、凄く綺麗なところなの。あと一週間も経てば咲いてたかもしれないのに」
「また来ればいいさ」
二人は公園内の小さなベンチに並んで座った。桜の蕾が膨らみ花びらの部分が薄桃色に色づいているのが見えた。
「刻。別の機会、とか、また、とか言ってるけど、友達ってそんなに会ったりでかけたりするものかな?」
「亜貴は同性の友達と会ったりでかけたりしないのか?」
「え? するけど」
「じゃあ、俺とだってしてもおかしくないだろ?」
亜貴は刻の言葉に半眼になって、口をへの字にした。
「なんだ? その顔?」
刻が亜貴の頬をつねる。
「いひゃい。
……こういうのだって、彼女ができたら、彼女がきっと嫌だと思うよ? 男女の友情は同性の友情とは違うんだよ」
「今はまだ亜貴が彼女だし、それ以後は彼女ができるまでは分からない話だろ? 分からない未来の話をしたってしょうがねえよ。男女の友情だって、人によるさ。俺と亜貴は大丈夫だよ。それとも俺たちはそんなに仲良くないとでも?」
「……」
亜貴は何も言えなくなって黙った。そんな亜貴に刻は、
「ほら、弁当食べるんだろ? 食おうぜ!」
と弁当箱を取り出して振った。そして、亜貴の分の弁当箱を亜貴に渡す。亜貴はしぶしぶそれを受け取った。
「頂きます」
蓋を開けて、亜貴は、
「私、食欲があまりないから、刻、好きなのとっていいよ? 風邪がうつったら困るから、先にどうぞ?」
と弁当箱を刻の方に向けた。
「大丈夫か? でもいいならもらおうかな?」
「どうぞ」
刻はいつものようにおにぎりを一つと、フライドポテト、ミートボールを自分の弁当箱の蓋に入れた。
住宅地の中の公園は昼時だからか人気があまりなかった。小さな滑り台で遊んでいる女の子とそれを見守る母親がいるだけだ。
「平和だな」
「ほんとね」
二人はいつもより弁当の味を噛み締めながら食べた。二人でいられるこの時間がとても貴重に思えた。
「寒くないか?」
「大丈夫」
熱があるせいか、少し頬がぽかぽかしていて、風が涼しく感じられて気持ちよかった。
「亜貴」
刻が改まって亜貴を見て口を開いたので、亜貴も背筋を伸ばして刻に向き直った。
「亜貴とはあんな出会いだったけど、一ヶ月、すげえ楽しかった」
刻の心からの言葉に、亜貴も頷く。
「私も。私もとても楽しかったよ」
「もう一度確認していいか? どんな結果になっても友達ではいる、これでいいんだな?」
刻の問いに亜貴は、
「うん。刻もいいんだよね?」
と問い返した。
「もちろん。
よし。……それじゃあ、決着、つけるか?」
「……そうだね」
亜貴と刻は見つめ合い、頷いた。




