行きたかった水族館に行きました
帰宅して、夕飯を食べた後、亜貴は明日何を着ようかと鏡の前に立った。
(刻は本当の彼氏じゃないわよ? で、でもせっかく水族館に行くんだから、ちょっと可愛い格好したいだけ)
亜貴は自分に言い聞かせながら服をとっては鏡の前で合わせる。こんなことならもっといい服買っとくんだったと思わずため息が漏れた。
その時、部屋がノックされた。
「亜貴、まだ起きてるの?」
奈津の声に、
「う、うん」
と返事をすると、奈津が部屋に入ってきた。
「あら、明日どこか行くの?」
「うん。水族館に、友達と」
「ふうん。友達って男の子?」
奈津の言葉にどきっとして、亜貴は持っていた服を落とした。
「あらあら」
「べ、別に彼氏とかじゃないのよ? 友達なの!」
奈津は、
「そうなの?」
と言って、亜貴のクローゼットの服を触りだした。
「お母さん?」
「清楚で可愛い服がいいわよ。その子を彼氏にしたいなら」
「だから、そう言うのじゃないの!」
亜貴の言葉を無視して奈津は一枚のワンピースを取り出した。白の袖なしのワンピース。
「白は清楚でいいんじゃない? これに明るい色のカーディガンでも羽織って」
「でも、まだ寒いよ? それに、なんか恥ずかしい……」
「上に春用のコートでも羽織れば?
恥ずかしいって何がなの? お母さんの娘は白のワンピースが似合う可愛い子だと思うけど?」
「……」
結局奈津に押し切られる形になって、亜貴は白のリネンのワンピースに、薄いラベンダー色のカーディガン、アイボリーのコートを着て行くことになった。
その日亜貴は不思議な夢を見た。
夢の中で亜貴は姫だった。そして、焔の顔をした王子と刻の顔をした王子から求婚されるのだ。亜貴は困り果ててしまう。結局どちらを選んだのか分からないまま目が覚めた。
日曜日。
亜貴は薄く化粧をすると、用意した服で身を包んで家を出た。足元には白のコンバース。
寒いのもだが、恥ずかしいのでコートの前ボタンを全てとめた。
駅に着くと、すでに刻が来ていた。
デニムのパンツに白のニット。刻は普段と変わらない格好だった。
「亜貴、それわざとコートのボタン全部とめてんの?」
不思議そうに刻が言った。
「……さ、寒いからね」
「ふーん」
「刻はいつも時間より早く来るよね?」
「まあな。だいたい十分前には着いてないと落ち着かねーから。亜貴は別に急がなくていいぞ?」
押し付けないのが刻らしいと亜貴は思った。
「ここから電車で9駅。乗り換えて6駅。んでバスだな」
「ちょっと遠いけど、水族館結構大きいし、前からずっと行きたかったから……」
「おう、分かってる。行くぞ」
「うん」
二人は電車に乗り込む。日曜日はやはり人が多い。並んでつり革を掴み、立つ。
9駅立ちっぱなしか、と亜貴はため息をついた。隣の刻を見上げようとすると、
「また接触事故起こすぞ?」
と刻から言われ、慌てて亜貴は前を向いた。
「亜貴、香水かなんかいつもつけてんの?」
刻が前を向いたまま言った。
「なんで?」
「亜貴の髪からいい匂いがいつもする」
亜貴は自分の体温が急に上がるのを感じた。
「シャ、シャンプーの匂いだと思うけど……。恥ずかしいからそういうこと言わないで」
亜貴の目の前に座っていたおばあちゃんが、亜貴と刻を見て目を細めて笑っている。
「……わ、わりぃ。ちょうど身長差で……」
刻が気まずそうに言った。嫌な沈黙が流れる。
「刻は水族館、行ったことある?」
耐えきれず、亜貴は刻に話しかけた。
「あー、小さい時にな。いつだったっけ。小学生の頃かな。家族で行った」
「私も小学生くらいの時に一度だけ連れて行ってもらった」
「で、なんで一度行ってるのに行きたいんだ? 好きな魚でもいるのか?」
「うーん。あえて言うなら、イルカとかラッコ?」
「魚じゃねーし」
「タツノオトシゴとかも可愛い。クラゲも見るのは好き」
「ふーん。俺はウミガメとかいいなと思って見たのを覚えてる」
「ウミガメもいいね!
なんかさ、水族館て全体が暗い中水槽だけが青く光ってるみたいで、小さな私は大人な印象を持ったのよね。素敵だなって」
「まあ、動物園とはまた違う雰囲気ではあるよな」
亜貴は刻と話しながら、小学生の時の記憶をたどって水族館に思いを馳せると胸が高鳴るのを感じた。思わず口角が上がる。
「ふ。亜貴、幸せそうな顔だな。そんなに行きたいんだったら早く言えば良かったのに」
「だって、刻に『彼氏との初デートは水族館がいいんだ~』なんて言おうものなら笑われると思ったんだもん」
「まあ、笑ったかもな。しかも俺は一ヶ月彼氏だしな」
「そうそう」
話していると、前のおばあちゃんが、
「よいしょ」
と言いながら席を立った。
「私は次降りますから、お嬢ちゃんお座りなさいな。水族館、楽しんできてくださいね」
すっかり話を聞かれていたらしい。
「楽しんできます」
亜貴は笑って返した。
「私、座っていいの?」
刻に聞くと、
「俺が座るとかないだろ?」
と返されたので亜貴はありがたく座った。刻は亜貴の前に立ち、亜貴と目が合い、
「あれ?」
と声を上げた。
「な、何?」
「亜貴、今日、化粧してんのか?」
「今頃気付いたの?」
「ああ」
「べ、別に深い意味はないわよ? ちょっとおしゃれしようかなと思っただけで」
亜貴は視線をうろうろさせて、頬を赤らめた。
「ああ。
……悪くねーよ、それ。いや、素顔が悪いわけじゃねーけど、まあ、その、口紅? の色とか似合ってる」
刻が亜貴の顔を見ないようにして言った。その顔が赤い。亜貴はそんな刻にますます恥ずかしくなって、
「あんまり私の顔なんて見なくていいから」
とつっけんどんに返してしまった。会話が途切れる。電車の立てる音が急に大きく聞こえだす。電車内は暑いくらいだったが、亜貴はコートを脱ぐことが躊躇わられた。刻の反応にいちいち心が乱されている自分に亜貴は気付いていた。何故だか亜貴は分からずもやもやする。結局二人は乗り換えの駅まで無言で、視線も合わせることができなかった。
乗り換えた電車も人が多かった。
二人はまた並んでつり革に掴まる。
亜貴はぼんやりと焔にハンカチを買って返さなきゃな、と思った。なぜこのタイミングで焔のことを思い出したのかは分からない。でも、刻との時間が楽しければ楽しいほど、焔へ罪悪感を覚えるからかもしれない。
「あ」
亜貴はハンカチより大切なことを思い出した。
「ねえ、刻。樋口先輩の受験大学の合格発表って今日じゃなかった?」
「? ああ、たぶん、今日」
「やっぱり!」
「亜貴が息巻いても何もならないさ。夜メールで教えてやるよ」
「……うん、ありがとう。お願い」
「その代わり、今日はもう兄貴のことは口にしないこと」
刻の真面目な声に亜貴は戸惑う。
「え? でも私、水族館のお土産屋さんで、樋口先輩にハンカチ買いたいんだけど」
「別に選べばいいじゃん」
「刻に一緒に選んでもらっちゃだめ?」
亜貴の願いに、
「あー! もう! 分かったよ、選べばいいんだろ?」
と刻は降参したように承諾した。
「ありがとう! 」
亜貴は全開の笑顔を見せた。刻はそんな亜貴から顔をふいと背けたが、その耳が赤かった。亜貴自身は気付いていないが、最近の亜貴は無防備になっていた。
電車を降り、水族館前に止まるバスのバス停に行くと子供連れの夫婦や高校生のカップルなどが数組いた。亜貴は自分たち二人はどんな風に見えているのかなと思った。あと僅かでこの不思議な関係も終わるが、こんな下らない勝負で付き合っているような恋人同士はそうはいないだろう。
「何だ?」
刻を見上げて見ていた亜貴に刻が気付いた。
「私たちみたいな事情で水族館に来る人いないだろうなと思って」
「まあな。考えてみれば初めて会ったあの日から亜貴の無謀さに振り回されてるんだろうな」
「別に振り回してなんかいないけど」
「自覚ないのか?」
刻が笑い、亜貴は頬を膨らませた。
水族館前でバスを降りると、すぐに建物が見えた。亜貴の記憶より小さい気がした。
「小学生の時は随分大きく感じたんだけど、このくらいなのね」
亜貴が感慨深く言うと、
「早く中に入ろうぜ!」
と刻に急かされた。何だかんだいいつつ、刻も楽しみにしているようだ。
「ふふっ! 刻、子供みたい!」
「うるせーっ!
あ、ここは俺に払わせろ」
亜貴の頭をわしゃわしゃしなでてから、刻は財布を取り出した。亜貴はぐしゃぐしゃになった髪を整えながら、
「いいよ。自分の分くらい出す。結構高いし」
と答える。
「いいから少しは男を立てろよ」
「……」
亜貴は少し考えてから結局出そうとした財布を引っ込めた。
「ありがとう」
「そうそう。お礼言っときゃいいんだよ! って、何だよ、その申し訳なさそうな顔! どうせなら笑って言えよな~」
刻の言葉に無理やり笑顔を作ると、
「ほんと、可愛くねーとこが亜貴らしい」
と笑われ、亜貴はポカリと刻の肩を叩いた。
水族館の中はやはり人が多かったが見て回るには十分なスペースがあった。
「イルカのショーは外せないよね!」
亜貴の言葉に刻は手にしていた館内案内図を見る。イルカショーの時間が載っていた。
「今が十一時だから、十一時半のを見るか?」
「そうね。あと三十分かあ。他のはショーの後にじっくり見ることになりそうね」
「イルカショーのある広場までの時間を考えると、今から広場の方に行っといた方が良さそうだもんな」
刻は館内案内図をもう一度見て、距離を確認しながら頷く。
「じゃあ、行こうぜ」
二人はイルカショーの広場まで足速に歩いた。
「刻、イワシの群れだよ」
「ああ。後でゆっくり見るから、今は急ごう」
途中、亜貴が足を止めるたびに刻が急かした。
イルカショーの広場には十分前に着くともう人がいっぱい集まっていた。
「あそこが空いてるな」
水槽から向かって右の中間くらいの席に二人は座った。
早足で歩いたら暑くなったが、亜貴はコートを脱ぐのをまだ躊躇っていた。
「どうした? 顔赤いけど暑いのか?」
「う、うん」
「コート脱げばいいじゃん?」
「う。そうなんだけど」
刻が怪訝な顔をする。
「なんか問題でもあんのか? 脱ぐならカバン持っててやるよ?」
「……。じゃあカバンお願い」
亜貴は観念してカバンを刻に預けた。立ってからコートのボタンを外して脱ぐ。
「えっ」
刻の驚く声が聞こえた。コートをたたんで席に座り、たたんだコートを膝の上に乗せる。
「何か文句ある?」
「文句なんか……。いや、今日はなんだか雰囲気が違う、な……」
刻が少し眩しそうに目を細めて言った。
「私のチョイスじゃないわよ? 母が着ていけって言うから……」
亜貴は刻の方が見られず、俯きながら言う。
「白のワンピース、いいんじゃねえ? す、凄く似合ってると、思う」
刻は自分の言葉に自分で照れて赤くなった。亜貴は刻の言葉に、
「ほ、本当?」
と自信なさげに返す。
「ああ、可愛いよ」
刻が今度は下を向き、亜貴はそんな刻を見て、
「なら、良かった」
と頬を赤く染めた。 亜貴は刻にこんな顔をさせられるなら白のワンピースも悪くないと思った。
二人が黙ったまま座っていると、いつのまにかショーが始まる時間になったようで、大きな音楽が流れ出し、水槽の奥のステージに快活そうな女性が出てきた。
「刻、始まった」
「ああ」
アシカとアザラシがその女性の指示で台に乗る。
「皆さんこーんにーちはー!」
女性が元気な声で挨拶するとアシカとアザラシが顔を下げた。
「はい、上手に挨拶出来ましたね!」
女性が言うと今度はアシカたちは手をバタバタして拍手を自らした。
「ふふっ! 可愛い!」
思わず亜貴が声を漏らす。
アシカたちは、輪投げの輪を首で器用にはめてとったり、ボールを鼻にのせたまま歩いたりと愛嬌たっぷりに芸をした。
亜貴も刻も拍手をする。
「はい、次はお待たせしました! イルカたちのショーです! まずはご挨拶にジャーンプ!」
女性の掛け声に二頭のイルカが交差するように左右からジャンプした。大きな水しぶきが上がる。
「わあ!」
会場に歓声が上がった。
イルカはジャンプした後、ステージの方に来て、女性の合図に合わせて鳴いたりクルクル回ったりした。その後はジャンプを何度も跳んだ。イルカが跳ぶ度に陽の光がイルカの滑らかな肌に反射する。イルカの描く弧がまた美しい。
イルカたちは天井から吊り下げられた輪を跳んで潜ったり、ボールの高さまで跳んだりと、なかなかの迫力だった。
「すごーい! イルカ凄いね!!」
亜貴は楽しそうに身を乗り出し、刻はそんな亜貴を目を細めて見ていた。
イルカショーが終わって人が散っていく。イルカはジャンプはしないが、前の水槽の中で泳いでいた。亜貴はその水槽に近づいていく。
「刻、ほら、イルカ泳いでる!」
亜貴は水槽を覗き込もうとしてガラスに額をぶつけた。
「おいおい、大丈夫か? 亜貴、そんなキャラだったか?」
「べ、別に! もっと見ようと思っただけよ! 」
でこをさすりながら亜貴は言い、また水槽の中を夢中で見る。
「ほら、こっち見てる!! 可愛い!!」
再びぶつけそうになる亜貴の額と水槽の間に刻が手を入れた。
「見ていて危なっかしい奴だな」
刻は初めて見る亜貴の一面に目を細めて言った。
「そんなことないわよ! でもこんなに可愛いんだから仕方ないわ!」
亜貴は言い返すものの、また刻の手で額を守られる形になった。
「それででこをコブだらけにするのか?
バカなオネーサンですね~」
刻が後半はイルカに話しかけるように言った。亜貴は負けじと、
「このオニーサンは意地悪ですね~」
とイルカに話しかける。刻は笑いを堪える。イルカはそんな二人を興味深そうに見ていた。
「そろそろ他の魚も見に行くぞ」
笑いが治おさまらないまま刻は亜貴を水槽から離した。無理矢理水槽から剥がされて亜貴は、
「はあーい」
とむくれながら返事をした。
「昼だけど、先に見て回ってから水族館出て食事しようぜ」
「うん、わかった」
亜貴と刻はまた入り口付近まで戻って、魚を眺めた。
「見て! ニモがいる!」
「クマノミな」
「橙色って明るくていいよね。ニモの映画見た?」
「ああ」
「私はファインディング・ドリーの方が好きなのよね」
「あー、二作目の? 俺もそっちの方が面白かったかな」
「何でも忘れちゃうドリー可愛いよね」
そう言って笑った亜貴の方が可愛いと思って、刻はふっと笑った。そして思いついたように言う。
「そういや、映画見に行ってねーな。一ヶ月最終日は映画にするか」
「いいけど……。刻は出かけるの好きなの?」
「まあ、意外と」
「そうなのね」
焔はどうなんだろうと聞きたくなったが、亜貴は刻との約束を思い出して口を閉じた。
歩いているとイルカショー前に通ったイワシの水槽があった。
「あ、イワシの群れ! こんな大群で動き合わせて泳ぐって凄いよね。ほら、スイミーって絵本あったの覚えてる?」
「ああ、群れで大きな魚になるやつな」
刻の記憶では赤だったような気がして、赤で群れる魚なんていたかなと考えていると、
「ほら、ウミガメもいるよ?」
と亜貴が指を指していた。
「おお! ほんとだ!」
刻は思考を放り出して、ウミガメの水槽に近づく。
二匹泳いでいたが少し水槽が小さめで窮屈そうだった。でも泳ぎは滑らかでゆったりしていて、二人は見ていて癒された。
「カブトガニがいる。生きた化石って言われてるのよね?」
「よく知ってんじゃねぇか」
二人は小さな水槽を一つ一つ覗いて行く。
「タツノオトシゴ! このプカプカ上下に浮き沈みするところが可愛くて好きなのよ」
「しっぽみたいなところに指絡ませてみたいな」
クラゲのコーナーはライトが当てられていて幻想的だった。ふわふわと漂うレースのようなクラゲが様々な色に染められる。
「綺麗だね」
「刺さなきゃなおいいんだけどな。海では会いたくない」
確かに、と亜貴も、頷く。
「でも、海の生き物ってなんかゆったりしていて羨ましい。生まれ変わるならクラゲもいいかも」
「水族館にいるからゆったりしてるだけだろ。海の中では食うか食われるかで大変だと思うぞ」
「そ、そうかも」
水族館の中央には大きな水槽があって、暗がりの中で神秘的に青く光って見えた。中ではサメやエイや他の大きな魚が泳いでいた。
「大きいわね、あのサメ」
「ああ」
二人はしばらくぼうっとその水槽を眺めていた。ゆったりした時間が流れる。
「なあ、亜貴。俺がこの勝負に勝ったら、聞いてほしいことがあんだけど」
「? 負けたら?」
「好きなだけ笑えばいいいいさ」
「……。
変な付き合い方だけど、でも刻といると最近楽しいのよね。だから、なんか樋口先輩に悪い気がするの」
「兄貴の話はしないって言っただろ?
……なんで兄貴に悪い気がするんだよ?」
ちょっと怒った様な刻の声。
「なんでかな?」
「亜貴が分からないなら俺はもっとわからね」
「そうよね」
水槽の中で泳ぐ大きなエイを見ていると、なんだか全てがどうでもいいような気がした。刻は水族館の中だからゆったりしてると言ったけど、魚たちは水族館と海ならどちらを選ぶのかなとふと亜貴は思った。水族館しか知らないなら、それはそれで幸せな気もする。
(籠の中の鳥と同じね。鳥も魚もやっぱり自由が欲しいのかな)
「亜貴?」
「……幸せって何だろうね」
「はあ? また不思議なこと考えてんのか? 自分が幸せと思ってるなら幸せなんじゃねーの?」
「水槽の中でも?」
「まあ、そうだな」
(私、今、結構幸せな気もする)
「ほら、次行くぞ」
刻が手を引いた。手を繋ぐ形になって亜貴はあっと声を上げた。
「ま、待って! 手を繋ぐのは、その、とっときたいから」
「……分かったよ」
亜貴から手を取ることはあるのに、と思いながらも刻はパッと手を離した。
「気を悪くしないでね? その、刻とが嫌なんじゃなくて」
「分かってるよ。でも、亜貴も変わってんな。間接キスは大丈夫で、手を繋ぐのはダメ」
「だって、直接触れ合ってるじゃない? 手が」
「はいはい。悪かったよ」
「こっちこそごめん」
亜貴が申し訳なさそうに言うと、
「いいから、今日は水族館を楽しむんだろ? そんな顔しないで行くぞ」
と刻は言った。
「ごめん。ありがとう、刻」
二人で魚のいる水槽を見ているのを後ろから見れば誰もがカップルだと思うだろう。でも、まだ本当の恋人同士ではない。亜貴と刻は恋人ごっこをしているだけだ。ごっこで手は繋げない、と亜貴は思っていた。




