8(完結)
「あっ」
おばさんは慌てて落とした包丁を拾い、風呂敷に包んで持ち直した。
「糸ちゃん、勝っちゃん、何でもないんよ。ちょっと錆が浮いたから研ぎに出そうと思って」
そう言って、虚ろな目を僕たちに向けた。
それから、僅か数分後のこと。
「どいて! どいてよ!! 」
おばさんは本田とその後ろに庇われた姉に出刃包丁を向け、泣きながら叫んでいた。僕はおばさんの後ろからそれを見ていた。おばさんは包丁を握りしめながら二人に向けて走るが、本田が容易くその手首を捉えて抑え込んでしまった。その隙に姉は僕のところに駆け寄り、僕を背に庇って立った。おばさんが大人しくなると、本田は抑えるのをやめて僕らのところに歩いた。
「どうする」
本田が姉に訊いた。姉は眉を寄せておばさんの姿を見ていた。
おばさんは、ふらりと立ち上がり、崖っぷちまでふらふらと歩き、そこでくずおれるように座り込むと、自分の首に包丁を向けた。
「あっ」
叫んだのは姉だろうか。
「駄目よ、やめて、やめなさい! 」
姉は本田を押しのけて走り出した。しかし姉の手が届く前に、おばさんは自分の首を掻き切った。
赤い霧が空を舞い、崖下に降り注いでゆく。ぐったりと倒れ込むおばさんを、姉が抱き留めた。
「なんで! どうしてこんなこと! 」
噴き出す血で着物を朱に染めた姉は美しかった。おばさんがまだ出刃包丁を握っていたことなど誰が気に留めただろうか。
「糸子! 危ない、離れなさい! 」
本田だけが気付いていた。そしておばさんは、どこにそんな力が残っていたのかと驚くほどに、力強く動いた。
すっ とおばさんの手が弧を描き、その直後姉の首からもまた鮮血が迸った。
「え? 」
姉は自分の首を抑えた。そして不思議そうに本田を見上げた。
「どけ! 」
本田は、姉に寄りかかって事切れていたおばさんの体を強引に引きはがし、姉を担いで走り出した。
僕もまた本田の後を追った。石段には姉の血が落ちていて、その血だまりで足を滑らせながら懸命に走った。
「誰か! 誰かいないか!? 」
神社の入り口で本田に追いついた。大声で人を呼んでいた本田は、僕を見ると姉を降ろし、鳥居に寄りかからせて座らせた。
「すまない、ここを抑えてくれないか」
本田は僕の手を、首を抑えている姉の手の上に重ねた。
「もっと強く! …そうだ。私は車を取りに行く。頼んだよ」
目を閉じているかと思ったが、姉は力強く目を開け、まっすぐ前を睨みつけていた。手も指先まで暖かく、口調もしっかりとしていた。
「失敗したわ」
姉はそう言って唇を引き結んだ。「何を? 」と聞かなくとも、何となく分かるような気がした。姉は情を見せるべきでなかった。それは姉の落ち度だった。どこまでも傲慢に驕慢に冷酷に、姉は傲然と在るべきだった。
すぐに、本田の車が神社の前に走り込み、僕は後部座席に潜り込んで後ろから姉の首を抑え続けた。乗り込んだとき、姉は気丈にしていた。しかし、田舎のことで病院までの道は遠く、姉は徐々に弱っていった。傷口を抑えている手が冷えて力が抜け、呼吸が早く、目がうつろになり、額に冷たい汗が滲んだ。本田は姉に声をかけ、元気づけ続けていたが、いつしか返事もなくなった。
町に入ったとき、ぼんやりとしていた姉の目が輝いた。
「啓二さん」
その声に何かを感じ取ったか、本田は車を停めて姉を胸に抱いた。
「啓二さん、愛してるわ。本当に愛しているの」
「分かってるよ」
僕は本田の後ろから姉を見ていた。血の気の失せた肌は白く、頬は血で汚れている。瞳だけが炯々と輝き、本田を全霊で見ている。
「泣かないで」
それが姉の最期だった。僕は、泣き崩れた本田を見てそのことを知った。姉は白い着物を赤く染め、微笑みを浮かべて死んだ。裾と袖が丸く広がり、その姿は串刺しにされた蝶の様で、僕はただ魅入ることしかできない。




