プロローグ
「行ったぞ! そっちだ!」
しんと静まり返った、夜の街。銀色の月光に照らされ、怪しく、何処かおどろおどろしい雰囲気が漂っている街の真ん中で。1人の男が、独特の虚無感を突き破るかのように、声を張った。
その声に、眉根を寄せる一人の少年。
「分かってるっつの! 全く。弱いくせに、右に左に忙しない野郎だな!」
「ばっつん。イライラしないで。ほら、牛乳飲む?」
「おめぇは、任務の最中に、何飲んでんだ!」
ブォン! ブォン!
家々の真上を駆ける、2台のバイク。
吹き付ける夜風が、容赦なく鼻腔に入って痛い。スピードを上げれば上げる程、息もし辛くなってくる中で。びしゃびしゃと、隣で牛乳をまき散らしながら飛ばれたら、そりゃあ、イライラせざるをえないだろう。
ばっつん。そう呼ばれた少年は、しっかりと、己の両の目を守ってくれている、ゴーグルレンズの奥から、対象を睨むようにして目を細めた。それにしても、速い。追いつけない。
ちっと舌打ち。
「初! 二手に分かれるぞ。挟み撃ちだ!」
「いやん、ばっつん。はっちゃんって呼んで」
「………後で、アイツのエサにしてやる」
どこまでもマイペースで、どこまでも空気が読めない彼女に、とうとう少年のこめかみに青筋が浮かんだ。
その塊となった怒りを爆発させるかのように、大きくハンドルを右に切る。
事は、一刻を争う状況なのだ。決して、牛乳など飲んでいる暇なんてない。
「手間、取らせやがって」
小さく呟き、アクセルを回す。自分の眼光に映るのは、細長い肢体を上下にウネウネとくねらせ、「キシャァ!」と奇声を上げている、気色悪い生物。……否。
「どうやって結界を破った? 雑魚妖怪」
妖怪だ。世間では、小説、伝説上の存在として語り継がれているその存在が、今現実として姿を現し、この至って何の変哲もない夜の街を、縦横無尽に飛び回っているのだ。
少年は、妖怪が進む進路方向を予測し、先回り。いきなり眼前に現れた少年に、妖怪の目が丸くなる。
十分に妖怪との間の間合いを詰め、短い呪文を、一つ。
「今すぐ、三枚下しにしてやる!」
明るい光が、彼の右手一点に集まり、形となって形成されていく。今まで銀の月明かりだけが照らしていた街並みに、じわりじわりと、オレンジのそれが浸食していった。
……剣だ。いつの間にか、オレンジ色に煌々と輝く大剣を、少年は握っていたのだ。
「秘密警察、公安部。妖規制取締部隊。人間居住区域不法侵入、及びに公務執行妨害の罪で、成敗する!」
逮捕ではない。あくまで、成敗をする。こういう、妖怪図鑑にも載っていないような、名前も頭脳もない、ただ本能のままに暴れ狂う妖怪を、生きたまま元の場所に戻したところで、同じことの繰り返しになるからだ。
少年は、1つ大きく息を吸うと、乗っていたバイクから大きく飛び上がった。
「今夜は、うな重だぁぁぁっ!」
勢いよく飛び上がった彼の真下には、上半身が人間の女の姿。下半身が蛇という、何とも直視し辛い妖怪の姿。長い髪が夜風に揺れ、これまた長い舌先が、レーダーの様に少年を捉えた。
「あ、あれ?」
ザシュっ!と、キレのいい音がした。……したのだが、彼がそのご立派な大剣で斬ったのは、妖怪の肉ではなかった。空気。言ってしまえば、虚空だ。
妖怪は、彼の持つ大剣の切っ先が自分に刺さるよりも早く、その身を翻したのだ。
「な、何でー!?」
「だから言ったでしょう。イライラしないで、と」
バイクからジャンプして、斬りかかっているのだ。そりゃあ、重力の法則に従って、落ちていくに決まっている。髪を逆立てながら落下する少年の体を、ドンっと何かが抱きとめた。
「あっぶねぇ! すまん、助かった!」
「挟み撃ちって自分が言ったくせに。全く。いっつも、先走るんだから」
「お前が来るのが遅すぎんだよ! いいから、さっさと倒せ!」
少年を抱きとめたのは、まだ十代であろう少女の、華奢な左腕。一体、この細い体のどこにそんな力があるのか、少女は腕一本で少年を支え、空飛ぶバイクを運転している。
そして、少年が自分の後ろに座り直した事を確認すると、ゴーグルの奥の目尻を下げ、恍惚な表情を浮かべた。
「ばっつんと、妖怪を追いかけながら、夜のドライブ。うふふ、このまま地平線の果てまで飛んでいきましょうか?」
「お前の脳味噌は、豆腐で出来てんのか!? いいから倒せ! 今すぐ倒せ!」
まだ彼女の左手には、牛乳瓶がしっかりと握られている。びちょびちょと顔に降りかかってくる白い液体を拭いながら、少年はこれでもかと怒鳴った。
「もう、分かったわよ。ほら、追いついた」
「え?」
一体、いつの間に。くだらないやり取りに夢中になっている間に、少女は、着々と妖怪との間合いを詰めていた。しかも、あれほど少年が追いつけなかった妖怪と、並行して飛行している。
そして、クスッと笑い、
「短気は、損気。えいっ」
あろう事か、妖怪の目に今まで持っていた牛乳をぶっかけた。
「ギシャァー!」
白い液体に、いきなり視界を奪われた妖怪は、その場でストップ。蛇がとぐろを巻く様に、ぐるぐると体を丸めて旋回している。少年は、開いた口が塞がらない。
「ほら、ばっつん。何やってんの。倒すんでしょ?」
「え? あ、あぁ!」
まさか、このマイペース女に急かされるなんて。と、頭の片隅に浮かぶ、屈辱。
だが、牛乳で妖怪に制裁を下すなんて、誰が想像するだろうか。
「全く、いつも想像の斜め上をいきやがる」
一体何を考えて、何をやらかすか分からないこの女と、いつもチームを組まされる自分の悲運を呪いながら、今度こそ少年は妖怪の肉を斬った。
「今回は、随分と時間がかかったな」
やっとの事で空飛ぶ蛇を倒し、地上へと下降してきた二人に、大柄な男が声をかけた。
この妖怪倒しの指揮官として、二人に指令を送っていた男だ。とはいっても、殆ど指令など二人は無視していたのだが。
バイクから降り、乱雑にゴーグルを取った少年が、盛大にちっと舌打ち。
「仕方ないっしょ。コイツが任務に出た時点で、そんなのは覚悟するべきです」
「あら、ばっつん。私がいなければ、あなたは今頃地面とディープキスよ」
「あれはっ!」
続く、言葉が無かった。本当だったからだ。中々妖怪に追いつけない自分にイライラして、パートナーある筈の少女に八つ当たり。終いには、勝手に地面へ落ちていくという、アホ丸出しの素行を、牛乳瓶片手に楽しんでいる女の前で披露したのは、他でもない自分なのだから。
……悔し紛れに、
「地面とぶつかっても、舌は出さねェっ!」
ぶっ!と、笑いを堪えきれなかった指揮官が、唾を吐き出す。
その姿に少年がじとっと目線を向けると、ゴホン!と、咳払い。
「ま、まぁ。最近、結界を破ってこっち側へ入って来る妖怪が増えている。雑魚だからと言って、気を抜いてちゃ、いかんという事だな!」
「それですよ。何でこんなに、妖怪の力が高まってるんすか? 結界も破っちゃうくらいに」
「太陽神が、弱ってるからよ」
少年が指揮官へと投げた質問に、代わりに少女が答えた。
こちらもゴーグルを外して、長い漆黒の髪をほどいている。白い肌と対照的なコントラストが、印象的だ。
くりくりとした大きな双眼で少年を見つめ、何故だか嬉しそうにニタリと笑う。
「太陽神って、あの天照大御神? だけど、日本の最高神だろ?」
「えぇ」
「それが、弱ってるって……」
「気づいてなかったの? 最近の太陽の光には、邪気を清める力がないってこと」
少女は、全身を使って、少年を馬鹿にした様に、「はんっ!」と笑う。
その姿にまた、少年のこめかみに青筋が。
「こ、狛犬が! 狛犬がいないんだよ! 天照には」
「狛犬?」
今にも大剣を出現させて襲いかかりそうな少年に、指揮官の男が慌てて割って入った。
手のかかる部下。いや、手に負えない部下を一度に二人も相手しているせいで、その額にはぐっしょりと、あぶら汗。
「狛犬。神を護る守護獣さ。狛犬伝説ってのは、聞いた事あるだろ?」
「……狛犬伝説?」
「はんっ!」
今度は本当に、オレンジ色に光る大剣を、少年が出現させた。勢いよく斬りかかろうとするが、全身全霊を持って、男が少年を羽交い絞めにし、食い止める。
だがしかし、斬りかかろうとされている少女は、どこ吹く風で、ぴっと細い人差し指を少年の眼前に突き立てた。
「無知なばっつんに、初が教えてあげよーうっ!」
「先輩。離してください。コイツの首切り落として、二度と牛乳を飲めなくしてみせます」
「落ち着け! 落ち着くんだ!」
「その昔、千年程前の大昔!妖怪と人間の、天下分け目の大戦争が起こったのです!」
少女が、がるる。と威嚇する少年の前で、得意げに話を始める。
「強大な妖力、強大な戦闘力を持った、おびただしい数の妖怪たち。陰陽師を初めとした術者、妖怪退治屋達がこぞって応戦したけど、全く歯がたちません!」
まるで、幼稚園児に絵本の読み聞かせをするかの様に。
わざとらしく、身振り手振りを混じえながら、感情を込めて話す彼女に、益々少年のイライラが募る。
今すぐ、目の前に差し出された人差し指を、折ってやりたくて仕方がなかった。
「そこで、人々が神に助けを求めます。だがしかし、神はこの世の万物に直接手は下せません。じゃあ、どうするか」
「狛犬を使って、妖怪たちを鎮めようとしたんだ。この世界を治める、アマテラス・スサノオ・月読の、三貴子という、三人の神々と一緒にね。だけど、狛犬の中でも絶大な力を誇っていた、アマテラスの狛犬が」
そこで、指揮官の男は言葉を切った。
その不自然な物の言い方に、自然と少年が自分を羽交い絞めにしている指揮官へと、視線を移す。
「殺したんだ。アマテラスを。そして挙句には、三貴子の一人、スサノオを根の国へと封印した」
「狛犬が、神を殺して、封印? そんな事、出来るんすか?」
「赤犬。そう呼ばれてたみたい。後にも先にも、神を裏切った狛犬は、それ一匹だけよ。まぁ、そいつも、どこかに封印された様だけど」
「それから先は、残った狛犬たちで何とか妖怪たちを退け、人間たちと交わらないよう結界で無理やり抑えつけた。そして、その名残が俺たちってわけだ」
もう気が静まったのを悟ったのか、やれやれと指揮官の男が少年から手を離す。
少年は、何だか納得がいかない表情で、天を仰いだ。
天空には、銀に煌めく妖艶な月。
「最高神を裏切った、狛犬……か。そいつのおかげで、俺たちがこんな苦労する羽目に」
何せ、荒ぶる神・スサノオを封印するまでに至った狛犬だ。
大人しく妖怪たちを殲滅してくれさえいれば、夜な夜な変人の女に牛乳を顔にぶち撒けられながら、妖怪退治をせずにすんだだろう。
悲哀と、無念。両方の畏敬の念を抱きながら、ハハッと乾いた笑いが漏れた。「ばっつん気色わるーい!」と、ほほをつついてくる、この凄まじくウザい少女の行動さえ、もうどうでも良く思えてくる。
「……赤犬さんよ。俺の青春を返してくれ」
せめて、その面拝んでみたいぜと、少年は、肺を丸ごとひっくり返したかのように、大きなため息をついた。