鏡に嘘つくと呪われるんだって
――鏡に嘘をつくと呪われるんだって。
そんな都市伝説を、絢子はふと思い出した。
電車に揺られながら手鏡に映る自分の顔を見やる。透けるように白い肌に、繊細な鼻梁。大きな丸い目は長い睫毛に縁取られ、瞳と髪は綺麗な胡桃色をしている。
絢子は薄桃の唇に笑みを乗せた。間違いなく美人だ。『鏡に嘘をつく』なんて、馬鹿らしい。
(ああでも、ああいう人ならありえそう)
手鏡をずらして向かいの座席を見やると、じっとりとした視線に絡め取られ肌が粟立った。
真向かいに座っている女性が、ヒラメに似たのっぺりした顔に張り付いた目を見開き、ぎょろりと絢子を見据えている。乾ききった髪はパサパサで、肌は浅黒くニキビ跡だらけだった。歪んだ口元は僅かに戦慄いていて、何かを繰り返し呟いている。
(――気味が悪い)
絢子は眉根を寄せると女性から目を逸らして手鏡を仕舞った。
大学に入学して一ヶ月。電車通学になって暫く経ってからというもの、絢子はこの見知らぬ女性に付き纏われていた。時間を変えても、車両を変えても、女性は気がつくと絢子の目の前に現れ、あの濁った目を零れそうに見開いて絢子を見つめているのだ。
行きの電車だけでなく帰りの電車で見かけることもあり、絢子の恐怖心は積もるばかりであった。こんな人に付き纏われる身覚えはない。
(思いつくのは嫉妬くらいだけど……)
絢子は自分の容姿に強い自信を持っていた。この女性は、お世辞にも美人とは言えない。美しい容姿を持つ絢子に嫉妬しても仕方ないと思った。
それにしても、ぶつぶつ言いながら見ているだけなんて、理解できなかったが。
大学の最寄り駅に着くと、絢子はすぐに立ち上がり電車を降りた。あの視線が背中を追ってくる感覚がして、少し吐き気がする。
「なんだっていうの」
強がりながらも早鐘を打つ心臓を押さえながら息を吐いた。そっと振り返るが女性の姿はない。追いかけては来ないようだ。これまでもそうだった。あんなにも見てくるのに、付けて来られたことは一度も無い。一体どういう意図があるのか、皆目見当も付かなかった。
ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、改札を抜けた絢子は信じられない光景に思わず悲鳴を上げた。
「――ひっ」
切符売り場の側にぽつんと立っている少女が、じっと絢子を見ている、少女の顔は――、さっきの女性と全く同じであった。
少女の細い首ががくんと折れ曲がる。身体は華奢なのに顔だけがひどくごつごつとしていて、まるで頭だけを切り落として違うものを繋ぎ直したカのようだった。
少女の唇が緩慢に動く。何か言ったようだが駅の雑踏に紛れて聞き取れなかった。
胃の奥が冷える感覚がする。何故か目が離せなかった。
やっとの事で少女の横を通り過ぎ、絢子は駆けだした。
他人の空似にしては似すぎている。親子? 姉妹? 従妹? いくら考えても結論など出ずに、少女の顔が繰り返し脳裏に浮かんだ。
女性も、少女も、何かを呟いていた。感情の籠もらない瞳で絢子を眺めているのに、何かを伝えたがっているのだろうか。
そこまで考えて、頭を振った。
(ばかばかしい。そんなわけない。ただの頭がおかしい人に決まってる。頭がおかしい姉妹か何かだ)
夢中になって走ったせいで、前を歩いていた人に気がつかずぶつかってしまった。
「――わ、す、すみませ……」
慌てて面を上げ、絢子は言いかけた謝罪の言葉を飲み込んだ。呼吸が上手く出来ない。
ぶつかった背の高い男性は、ヒラメの様なのっぺりとした顔で舐めるように絢子を見下ろしていた。その濁った瞳と目が合った瞬間、絢子はその場にへたり込んでしまった。
とうとう、おかしくなってしまったのかもしれない。こんな筈はない。同じ顔をした人がこの世にそう何人もいる筈がない。
「……き」
男性は野太い声で何かを囁きながら、絢子に向かって手を伸ばした。起こそうとしてくれている様だったが、絢子は指先が近付くと、背中を油汗が伝っていくのを感じた。
足を奮い立たせてどうにか立ち上がる。そのまま絢子は走り出した。
背後からまた声がする。
「……つき」
どうにか辿り着いた大学で、辺りを見回した絢子は荒い息を整えた。
いつもと変わらない風景。講師、学生、清掃員。皆、あの顔とは全く違う顔をしていた。見覚えのある顔もある。
安心すると、同時に大量の汗が溢れた。未だ震える手でそれを拭いながら講義室へ向かう。
この時間は数少ない座席指定の授業だ。絢子の前の席である友達の里沙はもう来ていた。里沙は大学からの友達で、学籍番号が前後だったために仲良くなった。
挨拶を交わし、席に座って髪を整える。完璧にセットしていたのに、台無しだ。
里沙は心配そうに眉尻を下げて絢子の顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 疲れた顔して」
絢子は力なく笑った。確かに疲れた。耐えられなければ早退しようかとも考えたが、また電車に乗るのも怖い。
「前に、女の人に付き纏われてるって話、したでしょ? その人と今日もあったんだけど……」
「え、また? 大丈夫?」
「それだけなら大丈夫だったんだけどね、その後で同じ顔した人に二度も会ったの」
絢子は里沙に一連の出来事を語った。話が終わると、里沙は顎に手をやってうーん、と唸る。
「絢子、精神的にまいっちゃったんじゃない? その女の人のせいで追い詰められちゃったんだよ。警察に相談してみたら?」
「……そうだね。ありがとう、里沙」
里沙は笑って頷いた。
こんな話、信じられなくて当然だ。絢子だって、見間違いだと思いたい。
(本当に勘違いかもしれないしね。ちょっと疲れてたのかも)
里沙のおかげで落ち着きを取り戻した絢子は、鞄から筆記用具を取り出した。
教授が入ってきて、広い大講義室が僅かに静かになる。
すると、にこにこしていた里沙の顔から、突然表情が消えた。壊れた人形のように里沙は首を横に傾ける。
「その女の人の顔って、どんなのだっけ」
「――え、ど、どんなって」
「どんなのだっけ」
質問を繰り返す里沙の声色は、さっきと寸分違わなかった。
「ひ、ヒラメみたいにのっぺりしてて、唇が分厚くて歪で……」
「あれ、おかしいな? それってさ、見たことある顔じゃない?」
心底不思議そうに、里沙は目を剥いた。
絢子は生唾を飲んだ。
「どうしたの、里沙。見たことなんて……」
「――嘘つき」
瞬間、里沙の顔がぐにゃりと曲がった。
「ひぃいっ!」
大声で叫び、絢子は立ち上がった。講義室中の顔が一斉に絢子の方を向く。
「嫌……」
絢子は小刻みに首を横に振った。
ぎょろりと見開かれた双眸があちこちから絢子を見ている。全く同じ、浅黒いのっぺりした顔が講義室の隅までずらりと並んでいた。
その歪んだ唇が一斉に開かれ、彼らは口々に呟いた。
「嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき」
「――いやあああああああ!」
絢子は耳を覆って講義室を飛び出した。じっとりとした視線が全身にこびり付き、皮膚を徘徊する感覚がする。
目に付いたトイレへ駆け込み個室へ向かおうとした刹那、絢子の足は固まって動かなくなった。
浅い呼吸を何度も繰り返す。手も足も動かないのに、首だけが勝手に捻られていく。
「嫌……違う……違う……私じゃない……」
洗面台の鏡に映ったそのヒラメに似たのっぺりとした顔は、張り付いた目でじっとこちらを見つめていた。
――知ってる? 鏡に嘘つくと呪われるって都市伝説。
――呪われた人はね、一生自分の顔しか見れなくなるの。
――自分以外の人の顔も、みーんな自分の顔になっちゃうんだって。