メイド天使さんと衝立の人、助けられた私
覚悟していた痛みも感じず、目を覚ました。
そして、眼前に広がる光景に戸惑っている最中だ。それなりの商家に生まれた私だが、天蓋付きのベッドなどは提供する側だった。特にエキゾチックだと称されている国の品は、映写機の写真やら魔法映像でしか目にしたことがない。
今、私がいるのは、シンプルながらも趣味のよい家具が揃った部屋なのだ。壮年の上品な貴族婦人が好みそうなである。オーク材のサイドボードやガラスキャビネットなどがある。枕元に置かれた、何の変哲もない花びらが浮かんだガラスポットさえ、品良く見える空間を作り出している。
「えっと。ここは」
上半身だけ起こした私を、魔法灯が照らす。自然の火と違って、儚さのないあかり。
「あれ? 服が違う?」
おぉ! 肌触りがよい上等なワンピース型の寝巻きだ。
あたりを見渡すと、不自然な衝立が目についた。珍しいステンドグラス調のものだ。広い部屋の中、淡い色の蝶が舞う衝立の奥から、微かな声が漏れて来る。
空腹を耐えながら、口を開く。
「あのう」
「お目覚めですか?」
耳をくすぐったのは、柔らかい女性の声だった。私の呼びかけと言うよりもむしろ、同時になった腹の音に気付いたのだろう。それはもう。自分でもあっぱれと叫びたくなるような豪快な腹音だった。
窓ガラスの向こうは闇色だ。魔法灯とはいえ、決して煌々としているわけではない。けれど、衝立の奥から静々と現れた女性の美しさを示すには充分だ。はっと息を呑むほど、整っている。
「まるで、衝立の蝶が遊び出たみたい」
ほろっと零れた言葉に、優しく微笑み返され。頬が熱を持っていくのがわかった。相手は、女性です。いえいえ、美しいものを称賛し胸を高鳴らせるのに、性別など関係ないのよ。と自分の中の謎な会話が交わされてしまった。
女性は足首まであるスカートのメイド服をまとっていて、年は二十歳過ぎあたりだろうか。
あまりの異空間に、私はある可能性に気がついた。
「あの。ここは、天国ですか?」
メイド服の彼女は、わずかにだけ目を見開いた。天使には珍しくないであろう金の瞳は、満月のごとく私の前にある。メイドキャップから流れている髪も、銀髪と美しい。
思わず見とれた私に、天使――もといメイド天使さんは、淡く微笑みかけてくる。
「そう、思われますの?」
「もしくは、女神の園かと」
しまった。メイドさんの問いかけから微妙にずれた。しかし、メイドさんの妖艶な唇から発せられた声は、予想に違わず甘かったので、仕方がないと思う。
メイド天使さんは花が咲く瞬間のごとく微笑んだ。
「かも、しれませんね」
はい、信じまーす! ここはだれが突っ込もうと女神の園だ!!
腕を組み、ふむふむと首を振った。あっ、大切な質問を忘れていましたよ。
「であっても。ひとつ質問なのですが」
「はい、どうぞ」
「女神の園でも、ご飯は食べられますか?」
数秒の沈黙の後。衝立の向こう側から、男性の忍び笑いが流れてきた。
それはやがて、忍ぶどころか、どどんと私の前に姿を現した。声だけが。いわゆる、爆笑と言うやつだ。
だけれども、姿の見えない相手ってのはね。あれか、神様か。女神さまか。女神とは、女の姿ではなかったか。姿は女性で声は男というのは、ちょっと遠慮したい。
「お迎えの、声ですか」
ぼそりと呟けば。そんな呟きさえも漏らさぬと、笑い声は一層高くなった。
悟りさえ啓きそうになった私をよそに、ばんっという小気味良い音が響いた。これは御使いの楽器ではない。確実に、頭を叩いた音だ。私が幼馴染によくしていた動作を連想させる。
ついで、むせ返る音が鳴り、さすがに心配になった。
「あの。苦しそうですが、大丈夫でしょうか」
「放っておいて構いませんわ。大型犬が鳴いているだけです」
みごとに微笑まれるが、正直冷や汗しか流れない。
いやいや。犬って。どう考えても人の笑い声でしたけど。
思わず身を乗り出した私を見ながらも、メイドさんはうふふと笑いを零しつつ近づいてきます。陶酔した私の眼差しに気がついたのか、あらあらと小さく笑いを零しました。
「ごめんなさい。まだ、貴女はご存命でしてよ」
「ですよね」
この空腹感と疲労感。何よりも体の重さを感じます。あいにくと死んだ経験はないので、肉体的な質量が残るのかはわからない。
けれど、なんとなく。そう、なんとなくだが、私は生きているのだと思った。
「私、生きながらえて――」
ぽすんと。後ろに倒れると、やたら柔らかい音が鳴った。枕の後ろに立てられていた、クッションのおかげだろう。
顔を覆った私の頬に、冷たい雫が伝った。
「まずはお水をどうぞ」
そっと渡されたのは、果実水が満たされたコップのものだ。
「わっ! 光ってる花びらが浮いてます! 綺麗!」
手渡されたコップはもちろん。果実水が満たされたガラスポットの中には、ほのかに光を纏った花びらが浮いていた。さっきまでは、何の変哲もない花びらだったのに!
魔法があるとはいえ、ここまで生活に密着していなかった自国では見られなかった光景だ。
絶望も忘れ、わぁっとコップを掲げてみる。魔法灯をあびたコップは、さらに不思議な光を纏った。ここは、本当に女神の国か。ではなければ、目的のフィオーレ――花の都――なのだと、心が躍った。
「コップにあるお水自体ではなく、見た目を楽しまれるくらい憔悴されていないのは、喜ばしいことですわ。でも、まずはお飲みになって?」
メイドさんの諭すような声で我に返り、こくりと水を喉へ流し込む。心地よい冷たさが喉を潤してくれる。
心なしかメイドさんの視線が何かを探っているように思えた。いや、自分でも不審な自覚はあるんです。行き倒れていた人間なのに、はしゃいだり、水を前に飲むよりも感動したりしているのだから。
「一応治癒魔法もかけていますし、それがあり得ない勢いで効いたとはいえ、栄養補給も数日の点滴だけでしたのに……血色も良いですわ」
ついっと頬を撫でられて恥ずかしさを感じるのと同時、冷や汗まで出て体が硬直してしまった。
「わっ私、幼い頃から怪我をしても病気をしても、寝ていれば回復してしまう、ちょっと特殊な体質なんです。体力はもちろん、健康状態も健康な時以上に回復するというか」
「本当に。しっかりとした調子でお話しになられてますわ」
「はい、食欲も人一倍わくうえに、内容もしっかりしたものを――」
ぎゃっ! 墓穴を掘った!
不審感を払拭しようとした結果、自らが掘った穴に飛び込んでしまうとは……情けなさすぎる。
肩を竦めた私の肩を、メイドさんがとても優しく撫でて下さった。
「ここは、フィオーレにある、とあるお方のお屋敷でございます。我が主は、行き倒れていた貴女を拾われたのです」
「え?! それは、なんというか、みつけてしまわれた方が、ご不幸と言いますか。恐縮です。ありがとうございます」
「お気になさらずに。我が主はご幼少の頃、犬や猫、色んな動物を連れて帰っておられますので」
フィオーレに着いた喜びよりも、ちょっとまって、美しいメイドさん。犬猫って。同列ですかい。
とは思いつつ、つい好奇心が勝ってしまうのが悲しいところ。
「でしたら、私のことは、一体何だと思われたのでしょう。うーん。尻尾のない飢えた狼、または飯喰い悪魔か。あっ、後者は動物になってませんね」
うーんと首を傾げて見たモノの。衝立の向こうから、ぶほっと息が漏れるのが聞こえ。さすがに変なことを尋ねてしまったかと頭を下げました。
メイドさんは私のけったいな質問を不審に思った風でもなく。ただ、優しく目を細めてくださいました。
「すぐにお食事の用意をいたしますので。別室でお着替えください」
「いえ! 拾って頂いただけではなく、介抱もして頂いたあげく食事までなんて――」
ぐるぐるきゅー。
食事という単語に興奮しつつも、辞退をしかけた私の言葉を遮ったのは、他の誰のものでもない自身の腹の音だった。
衝立の向こうからは、殊更大きな笑い声が聞こえてきた。
「今更だ。遠慮などせず、しっかり食べて元気になってくれ」
もしかして、衝立の向こうにいらっしゃる方が、このお屋敷のご主人なのだろうか。私を拾ってくださった方は、もう少し怖い声色だった気がするけれど。
慌ててベッドから降り、衝立に向かって腰を折る。
「あの! ありがとうございました。それに助かりました。色々と」
衝立の横で、大きな男性の手がひらひらと揺れている。上品というよりは、子どものような可愛い動きに、親しみがわいてしまう。
視界を細めてみると、貴族の手ではなく、どちらかというと私がよく知る部類の手の甲に見受けられた。ごつっとして、頼りがいがあって。まるで――父様のような。
「ご挨拶が遅れまして、申し訳ございません。私、ヴィッテ・アルファ・アクイラエと申します。年は十八になりました」
「わたくしはステラと申します。アクイラエ様はお生まれはこちらですの? 言葉も堪能でいらっしゃるし。失礼ながら、お荷物を拝見したところ、旅券がございましたけれど」
メイドさん、もといステラさんが、可愛く首を傾げた。頬に手を当てたご様子は惚れ惚れする。
くらりとめまいが起きそうになったが、そこは根性で乗り切った。
「私の出身国は旅券通りです。曽祖父の代にフィオーレから移り住んだと聞いております。代々、こちらの言語から名前をつけているらしいです。荷物のことは当然だと思いますので、お気になさらずに」
「まぁ、そうでしたの。では、家系を辿る旅というところでしょうか。年頃の可愛らしいお嬢様がお一人なんて、アクイラエ様のご両親、ご心配されておられるのでは?」
お世辞や枕詞とは承知しているが、言われなれない『可愛い』という単語に心臓が跳ねた。しかも、お嬢様って。数名いたお手伝いさんも長い人が多く、ヴィッテちゃんとかヴィッテ嬢ちゃんと呼ばれていたから、よけいにだ。
深呼吸をすると、ステラさんの言葉の意図を理解し、慌てて両手を振る。
「家出ではありませんので! そのあたりのご迷惑はおかけせずに済むかと。あと、出来れば、名前で呼んでいただけると、嬉しいです」
誇りだったアクイラエの家名は、今の私にとっては心の傷をえぐるものでしかない。
私の事情など無関係の方に、不躾なお願いかとは思ったが。呼ばれる度に、白昼夢でも見そうなので、怪しまれるよりは無礼だと思われたほうが良いという、まぁ、浅はかな願いからだ。
「では、ヴィッテ様と。生命、ですか素敵なお名前です。こちらには、アクアヴィッテ(生命の水)と呼ばれる泉もございますのよ。体調が戻られたら、ぜひ」
「ステラさんは『星』ですね。とってもお似合いです」
慣れない誉め言葉の連続に、ヴィッテは動揺している。秘技、誉め返しである!
が、ステラさんにはきかなかったようだ。「嬉しいです」とだけ囁かれただけで、じっと見つめてくる。動かない。ヴィッテの心は折れた。家庭教師のカイ先生を思い出す。
素直にお礼を返すのは、大切ですね。はい、よりよい関係を築く基本です。
「素敵なんて、初めて誉めていただきました。ありがとうございます。本来は男に多い名前とは聞いていましたので。本当は、アクア・ヴィッテと付けられる予定だったらしいのですが……姉が、届けに悪戯をしたらしくアクアが削られた状態で提出されてしまったようです」
「それは、なんと、まぁ。ですが、ヴィッテという響き、わたくしは好きですわ」
諸々察してくださったのか。心も美しいステラさんは、そっと私の手をとり――なぜに! キスされましたか!! 跪いてはいらっしゃいませんが、まるで騎士がするような、しぐさで!
ほんとは、めぐり巡って受理されちゃうなんてひどいですよねと、豪快に笑い飛ばすつもりだったのに! そんなオチは羽が生えて天国に召されちゃったよ!
「あっあっありがとう、ございます! でも、なんで、キス!」
全身の血が沸騰しそうなのは、キスだけじゃない。うふふと妖艶な色を湛えた瞳でじっと見つめられているのだ。同性でも、これはきつい。心臓を破裂させる勢いで、やばい。
ついでに、衝立の奥で椅子が盛大に鳴ったが、先ほどと同じように、ぱこんという音の後、静かになった。「落ち着きなさい」と天の声が聞こえた気がした。うん、実際に男性のもので囁かれた。
「生命の水のご加護を受けたくて。それに、わたくし、愛らしいものに目がありませんの」
「はぁ」
「そちらの趣味ではないので、ご安心なさって?」
念を押すように微笑まれ、私は頷くしかなかった。衝立の向こうから鳴る音といい、目の前のステラさんといい。一癖ありそう。恩人宅での暴言をお許しください。ヴィッテはたくましく強かに生きていくと誓ったのです。
そうだ。まず生きていくにはご飯だ、ご飯。思わず、お腹をさすってしまう。
「では、参りましょうか」
「えと、あの。その――慎みがございませんけれど。ご馳走になります!」
腹の虫を伴った挨拶に、衝立を挟んだ人物はまた心地よい笑い声を漏らした。