婚約未遂な幼馴染と名を告げた弟君、戸惑う私
かたかたと、軽快な調子で歯車が鳴る。たまに、がこんと心地よい弾みが、身体を揺らした。
私は座っている状態だ。一方、弟君は腰を屈めて窓枠に手をついている。見下ろされる形になっているのだけれど、威圧感も恐怖も全くない。濁りも偏見も含まず、ただまっすぐであたたかい眼差し。
魔法陣に感動していたのも忘れ、ぼぅっと弟君の笑みに見とれてしまった。
淡い笑みを灯した弟君に反して、私は無表情だ。我ながら、ちょっと怖いと思う。
「じっと見つめられると、照れてしまうな! 上目で食い入るような視線は、毒だ」
「もっ申し訳ありません! 無言で見上げられたら、気持ちいい状況じゃありませんものね」
私は沈黙が嫌いではない。むしろ、好きだ。仕事をする父様や編み物をする母様を、少し離れた場から眺めているのが楽しかった。父様も母様も、目が合うと、目じりを下げて笑いかけてくれた。そうして、特に何を言う訳でもなく、また作業に戻る。私はそんな空気が心地よかったし、庭師のゼファさんや料理人のリッツさんも、同様の反応をくれた。
ただ、姉は私の視線が癇に障るようで、感情が爆発したように叱咤された。姉の横顔は本当に綺麗で、私は好きだったのだけれど。本人がはっきりと嫌悪を示したということは、相当苦痛だったのだと、さすがの私も反省し、学習した。やめたのにも関わらず、
――嫌味な子――
と、抓られたのは何故だったんだろうか。手の甲の痛みよりも、姉の切羽詰まったような表情が、忘れられない。
ふと、暗い記憶に視線が落ちた。あの頃の私は、たぶん、大切な何かを見落としていたのだ。ふいに、そう思えた。
「確かにな。心臓には悪い。けれど、居心地が悪いのではないぞ?」
「はぁ」
「俺はヴィッテのまっすぐに心を射抜く視線は、好きだ」
ぼっと、全身くまなく火がついた。
いやいや! 好きって男女の好きじゃないし、っていうか、人としてもこんなに真っ直ぐ好意的な言葉をぶつけられたのは、あまりない!
加えて、控えめに髪を撫でられて。私、今なら消し炭になれると確信した。美しい花びらに交じって宙を舞うのは申し訳ない。ので、必死に耐えてみせる。
ヴィッテ、頑張れ! ここは可愛く、微笑んでお礼をさえずる場面だ。
「あっあの!」
「うん?」
床に膝をついたら汚れますよ、弟君。腰掛けの間は広く、男性が座り込める空間はある。が、そういう問題ではない。落ち着け、自分。
ぎゅっと太ももにかかるスカートを握る。見上げてくる弟君の瞳は、変わらず優しい。どもる私の言葉の続きも、じっと待ってくださる。姉はよく苛々していたな、なんて記憶が過ぎったが、珍しくあっという間に消えてくれた。というよりも、溶けていった。
弟君の空いた手を、勢いで握った。見た目よりもごつっとした感触に、自然と目元が緩んだ。
「あっあなたに、頂いた言葉、ぜんぶ、しっ……しあわせ、で、す」
勇気を振り絞った割に、発した声は情けないくらい掠れていた。しかも、幸せってなんだ! 普通はありがとうございますとか、嬉しい、だろうに! 重いよ! 圧倒的な重さだ。重い選手権が開催されたなら、群を抜いた成績で優勝だ。
見た目どおり大きい手が強張ったのが伝わってきた。嫌な緊張ではないのは、さすがの私にも察することが可能だったけれど。心内までは計れない。驚いているのだけは確か。
お礼の言葉もだが、自分らしくないの突拍子のない行動に焦ってしまう。あほな発言はともかく、行動に移すなんて。
とにかく手を離そう。指の力を抜くが、万歳をする前に、そっと押さえられていた。
「あっ、あれ? 森を抜けてくる時には、立派な魔法陣が、見えていなかったような。あんなに大きくて眩いなら、かなり遠くからでもわかるのにですね!」
「街と外壁の境に結界がはられているのだ。あの魔法陣は、街に入らなければ認知できぬような細工が施されている。王宮の場所がまるわかりだからな」
なるほど、と。大げさに頷いて納得してみせても、状況は変わらなかった。髪が虚しく踊っただけ。
触れ合った体温は離れない。ずくんずくんと、全身の血が抗議の声をあげている気がした。しっかり動けと。
「アストラ、という名だ」
「へ?」
「俺の名だよ。アストラ」
あぁ、弟君の名前か。
アストラ、様。
響きが素敵だなと、漠然と思った。今まで耳にしたお名前よりも、何よりも。口の中で呟いてみると、ぽっと、心に灯りが咲いた。不思議だ。だれかの名前を、しかも声にも出していないのに、あたたかく思えるなんて。
「呼んでみてくれるか」
「アストラ、様?」
おいおい、なんで疑問系。
というか、名前を教えちゃっていいのか。突然の名乗りは、嬉しいはずなのに、疑問が勝ってしまう。気がつけば、首を傾げていた。
まさか名前を教えて頂けるなんて予想外すぎだ。だって、さっき私が家名を尋ねなかった云々の際も、口にしなかったのに。どうして、このタイミングなのだろう。
声に出した私の中には、ふんわりと、くすぐったいような、優しいような、なんとも言えない感情がわいてきた。胸の奥がこげるような。
「よろしいのですか? 私を助けて頂いた屋敷の主様に叱られたりしませんか? もちろん、公言などしませんが」
「あぁ、問題ない。だって、俺がその主様だからな。嘘をついて悪かった」
「ん、な?!」
見っとも無いほどの大声があがった。ついでに立ち上がって、天井に頭を打ち付けた。痛い、ものすっごく痛い。脳天直撃である。結構な音が響いた。馬が、ひんと鳴いたのが聞こえた。
瞬時に座込み、頭を抱える。絶対、涙目になっている。
目を見開いた弟君――アストラ様が、必死の形相で頭を撫でてくれる。これが噂の回復魔法かと思えるくらい、すっと痛みがひいていった。
「わっ悪い! 決してヴィッテを騙すつもりはなくてだな。遠慮しないで接してもらえるかと思って……! 末弟なのは間違いないのだぞ?! ただ、あそこは、自分の屋敷なだけで! ヴィッテに距離を置かれたくなくてだな!」
しょんぼりとした大型犬が目の前にいる。もとより弟君に怒りなど感じるはずもなく、単純に、気付かなかった自分に驚いたのだ。
けれど、床に座り込んだアストラ様は、私の言葉を待っている。上目遣いで。間違いなく、私よりもアストラ様の方が可愛い。
怒りではない別の感情が、物凄い勢いでわいてくる。
無性に笑いたくなった。実際、けらけらと、自分でもびっくりするような軽い笑いが飛び出てきた。おかしくて堪らない。
「ごっごめんなさい、だって、アストラ様ってば! そんなに、しょげなくても! あはっ! アストラ様は、悪いことなんて、してないのに! しょんぼりって、柔らかいにも、ほどがあるって、いうか!」
私の笑い声は外まで響いているかもしれない。お腹を抱えて爆笑しているのだから。
声をあげて、呼吸が苦しくなるほどまでに笑ってしまう。痛い、腰が痛い。苦しい。笑いすぎて涙が止まらない。
主様な時から、アストラ様は傍にいてくださった。姿を現しては下さらなかった主様だけれど、かざりっけのない反応は、とても嬉しかった。本当は名前だって聞きたかったし、繋がりだって絶たれたくなかった。
弟君にしたってそうだ。魅かれてやまない人柄。男女の色なんてものじゃないと自重はするが、そんな好きだなって思った方が同一人物だって事実、私にどうしろと。
はしたなく、じたばたと足を動かして笑ってしまう。腰掛けにかけた踵が、ずっと滑って床を鳴らす。
アストラ様を蹴ってはいけないと、ちゃんと身体はよじっている。多少のはしたなさには目を瞑って欲しい。
「ヴィッテ、笑いすぎだ」
「えと、失礼しました。あの、でもっ! ふふ」
「詫びとして、少しじっとしていろ」
お詫び、ですか。ぎゅっと抱きしめられているのが、お詫びですか。
数秒前まで暴れていたのが嘘のように、硬直している。肩に顔を埋められて、免疫のない私は心臓どころか全身で爆発しそうだよ。きつくまわされた腕に、どうしてか泣きたくなった。たぶん、アストラ様の心が揺れていたからだと思う。お屋敷で楽しげに触れられたよりも、じりっと熱が肌を焦がすような感情。
私を抱きしめるアストラ様は、泣き出す寸前の子どもみたいだ。
「私でよければ。いつでも」
私を助けてくれた人の役に立てることがある。堪らなく、嬉しい。この身ひとつで、受け止められる感情があるなら、この上なく幸せだ。
私は不特定多数を受け入れる心の広さはない。でも、命の恩人を、導だと思えた方の止まり木になれたらなら、生き延びた価値もあるってもんだ。
ぎゅっと、痛くないようにとは思いながらも、アストラ様の頭を抱く。薄紫色の髪は、私の好きな花と一緒だ。人の癒しになどなった機会がない私には、ちゃんと出来ているかわからない。それでも、いいかと思った。珍しく、ちゃんとしてなくてもいいのかなって、あるがままで大丈夫かなって。
「騎士に力の限り抱きしめられて、痛くは、ないか?」
「アストラ様は騎士なんですね。やった。予想があってました」
自分の思考回路に戸惑いつつも、吐き気はしなくて。アストラ様の頭を、ぐっと引き寄せた。胸や鎖骨辺りの素肌に触れてくれる感触が愛しいと笑えた。
首筋に落とされる吐息がくすぐったい。身をよじると、私を抱き寄せる力は一層強くなった。まるで、鼓動を確かめるかのようだ。アストラ様が耳を澄まして、私の鼓動を確かめている。そう思った。
「私、主様――アストラ様に、こうして、触れられるのが、とても、くすぐったくて、でもうっとりするんです。主様と弟君が、同一人物で、よかったなって」
人生の中で、一番柔らかい声が出た。わからないけど。理由なんてさっぱり皆目検討もつかないけれど。
はふっと落ちた息に、アストラ様の髪がふわりと舞った。それにまた、笑みが零れてくれる。
と、がつっと二の腕をつかまれた。ついで、がばっと音を立てて身体を押された。背中に当たった衝撃に、少しばかり眉をしかめてしまう。上質とは言ってもね、勢いが勢いだからさ、結構痛い。
唖然と瞬きを繰り返す。仰け反っているアストラ様は、ぐっと唇を結んでいる。心なしか、赤みを帯びて。
「お怒りです、か?」
出すぎた真似だったかと、血の気が引いていく。ぽかぽかとしていた身体が急速に冷えていった。
目を伏せた私には、アストラ様の表情が伺えない。が、アストラ様が全身を揺らしたのは、繋がった腕から伝わってきた。
「ちっがーう! ヴィッテは、ヴィッテで! あぁ、もう! 純粋な想いを邪に変換してしまう己が情けなくはあるが、ヴィッテとて、もっと警戒心を抱くべきだろうに! こんな密室で己の身の危険は考慮せぬのか!」
「危険、ですか? 私は、特に危険を感じる要因がございませんが」
「だぁ! あのなぁ。ヴィッテは、例の幼馴染が自分の婚約者にさせられそうだったのを知っていたのか?! むしろ、本人はすでに一部の人間には婚約者であるように言いまわっていたとか」
はいぃ?! 驚きのあまり、声にならなかった。初耳なんですけど! ってか、アストラ様、話の切り出しに関して、タイミングが掴めません。なぜ、今。
それはさておき。尋ねられたら考えるしかない。うーん。私の身元を調査した際、デマでもあったのだろうか。
顔を掌で覆ったアストラ様が、ちらりと、恨めしそうな視線を寄越した。何故に。
不覚にも、アストラ様の目つきに跳ねた鼓動。おバカだとおっしゃりたいのですよね、わかります。自分でも呆れます。当事者ながら、噂のうの字も把握していなかった事実に。
「駆け落ちした姉との対比で、面白おかしく脚色されたネタでしょうか」
「ではない。情報では、子爵の息子はかなりヴィッテに惚れ込んでいたとあるぞ? 頭の固い子爵も、どこぞの貴族の養子に入れてからならばと譲歩していたとも。ただ、ヴィッテのご両親が難色を示していたらしく、纏まってはいなかったようだが」
「えぇっと。あのステフが? 私に? 有り得ません。断じて」
スチュアートことステフは、身分違いの幼馴染である。
うちとて、元を辿れば私のおじい様の親類は、フィオーレで伯爵であったらしい。どの程度の血族かまでは不明だけれど。
我が家の商売が軌道に乗っているのと、過去を調べた結果、友としてあるのを許可するとなったらしい、とステフから聞いた覚えがある。無邪気とは恐ろしい。にこにこと笑いかけてくるステフを前に、私は貴族社会の末端を垣間見た気がして、頬を引きつらせていた。友達ってそういうものなのだろうかと、疑問を抱いたものだ。
「彼、女性恐怖症なふしがありましたから、女っぽくない幼馴染の私に白羽の矢が立ったと言えば、まだ納得ですが。しかし、あの子爵がお許しになるはずもなく、そもそも駆け落ちした姉と私は対極のタイプです」
当のステフは、女子である私よりも乙女傾向にあったしなぁ。
姉に蔑まれながらも、それでも鈍感で自由を許されていた幼い私は、かなりのお転婆だった。庭を駆け回ったり、馬に跨っていたりな私の後ろを、いつもべそをかきながらついてきたのがステフだ。
他にも諸々エピソードはあるが、両サイドからどう考えても、恋愛対象ではない。ステフだって、だからこそ、私と正反対である姉におち、駆け落ちしたのだろう。
「情報に間違いはないと思うのだが。ヴィッテには全くその気はなかったと」
「当たり前です! 彼が私を女としてみていたなんて記憶もないですし、私も同じです」
腰掛けを叩いて主張する。どんな泥沼劇だ。自分で明言するのも虚しいが、私は、ぶっちゃけもてた験しがない。男性の誘惑など受けた覚えもない。いくら経験のない私だって、幼馴染の心境の変化くらいは悟れるはずだ。……たぶん。
全力で否定する。そんな私を訝しげに見ていたアストラ様。しばらく顎に手をあて考え込んでしまった。が、馬車が止まると、満面の笑みで頷いた。
「うむ。今の話は綺麗さっぱり忘れてくれ」
「まったくです。新境地なんですから、過去のしがらみには囚われません。折角、アストラ様や漆黒の君、それに屋敷の皆さんに拾われたんですもん。まぁ、今後お会いできるかも知れない仲ですが」
馬の嘶きが聞こえた。目的地に着いたのだろう。りんりんと、数回鈴が鳴らされる。
荷物を抱えようと伸ばした手を、アストラ様につかまれた。特に疑問も抱かず向き直ると、つっと毛先をつままれた。手入れの行き届いていない毛先を擦られて、苦虫をかんだような表情が浮かんでしまった。
私から離れていったアストラ様の一部たち。ぶすりと可愛くなくむくれた私を、頬杖をついたアストラ様が見てくる。とても、妖しげな笑みを口の端に浮かべて。
「ヴィッテは拾われたのではなく、囚われたのかもしれないぞ。君が思うより、縁――執着は切れぬものだよ」
「がっ頑張ります!」
縁が切れないのは願ったり叶ったりだ。
自分としては、かなり頑張って願望を述べたのだが。両の手をぐっと握った私に注がれるのは、呆けた視線だった。間髪入れない返答に、どん引きされたのかと冷や汗が流れる。あぁぁ。私のバカ! 間合いが読めなさ過ぎるだろう!
それでも、一度出てしまった言葉を消す能力はない。固まったアストラ様が解凍されるのをじっとまった。
再び、りんと鳴った鈴が耳に届く。
「――ふ、はっ! ヴィッテが力む必要はない! むしろ、頑張るのは俺だ」
アストラ様が、頑張るとは。はて。首を傾げた私に、笑いは大きくなる。
「アストラ、煩い。近所迷惑だ。商売の邪魔をするな」
馬車の扉が開けられ、うんざりとした声がかけられた。