花の都フィオーレと案内人の弟君、見惚れる私
私は今、馬車に揺られている。大人同士が膝を合わせても触れ合わないほども、空間がある。しかも、座り心地抜群だ。お尻だけではなく、背中にまで心遣いを感じる感触に職人さんに、敬意を払わずにはいられない。
「弟君の執務に触りはございませんか?」
「俺の頷きは、そんなに信用できないかな」
私の薄っぺらい謝辞など必要ない。そう呆れるように、片眉を垂らした弟君。これが道楽息子なら、甘んじて擦り寄る図太さは持ち合わせているつもりだ。だが、眼前の弟君の手には書類が握られている。
分厚いフォルダに詰め込まれた書類が、どうあっても弟君の忙しさを伝えてくる。
「すまない。馬車の中でくらい、ヴィッテも今後の生活を思案する時間にしたいのかと考え、仕事を持ち込んだのだが。女性への配慮が足りないと、叱られてしまうな」
「いえ! まったく! 私が、弟君のお邪魔をしていると危惧はすれども。弟君の雰囲気は、その、とても優しいので。というか、その。父様のお仕事姿を眺めているのも、好きでしたし。あの」
全く必要ございません、そんなお気遣い。全力で辞退する。
子どもだった私は、当然父様に構って欲しいとは願っていた。けれど、それ以上に、仕事に取り組み父様の横顔や姿を見ているのが好きだった。分不相応に、羨ましいとさえ思って。夢中になれる物事がある父様に。
「あまりに心地よい馬車の走り具合に、うとっときていたのもありますし」
さすが花の都フィオーレだ。多少の揺れはあるものの、衝撃という弾みはほとんどない。旅の馬車と比べたら、段違いにお尻に優しい。馬車の作り自体、違うのだろうけれど。
「そうか」
小さく笑った弟君は、再び手元の書類に視線を落とした。
お世話になった屋敷の皆さんとお別れして、街の中央に向かっているところだ。皆さんとは言っても、ステラさん、ばあやさん、執事さん、シーナさんだ。皆さん別れを惜しんでくれて、また泣きそうになったのを我慢した。皆さんの微笑みと、抱きしめてもらったぬくりもりを思い出しながら、この街で頑張ろう。ぎゅっと拳を握った。
「あぁ、ヴィッテ。頃合だろう。外を覗いてご覧」
弟君は、私と伴にいらっしゃる。というのも、私が今後住む場所に案内してくださるらしいのだ。はい。決めてきてくださったそうですよ。住居まで。聴いた瞬間、血の気がひいた。いや、本当にさぁっと。
私が辞退するのがわかっていたのか、部屋を見てから考えろとか、懇意にしている大家さんだからとか、言いくるめられてしまった。保証人としては当然の手配らしい。確かに、のたれ死なれたら困るだろう。保証人的に。
「どうした? 馬車に酔ってしまったか?」
「大丈夫です。もう、いいのですか?」
私の向かい側に座っている弟君が、カーテンに手をかけて微笑んだ。馬車の中は広い。とはいえ、男性とふたりっきりでいるには居心地が悪い狭さではある。
屋敷の場所を隠すためだと推測できるが、馬車に乗り込んでから随分とぐるぐると回っていた。もちろん、カーテンはひかれっ放しだった。
「窮屈な思いをさせて悪かったな」
「いえ、違うのです。憧れだった街を目に出来るのに、ちょっと、どきどきして」
眉をさげた弟君。慌てて頭を振って否定する。まさか男性と二人の空間に戸惑ってましたなどとは口に出来ない。
深呼吸を繰り返す。肩を上下させている私を見て、弟君は両手を広げた。きらっきらの笑顔で。
「フィオーレは花の都だけではなく、魔術都市とも呼ばれているからな。腰を抜かさないようにな? まぁ、抜かすなら俺の膝の上にくるといい」
頬が熱を持ったのがわかる。子ども扱いだと、きっと、鋭く睨んでみても迫力はなかったらしい。弟君は変わらない笑みを浮かべたまま――むしろ笑みを深めて自分の膝を叩いただけだった。
さっきまで真剣な眼差しを向けられていた書類たちが、わずかに浮かんだ。真面目な顔つきの時は大人っぽく感じられたのに。笑った途端、年齢がぐんと下がる人だ。激しいギャップは心臓に悪い。
「喜んで膝を借りるほど、子どもではありませんので、どうにか踏ん張らせていただきます」
「残念だ。けれど、俺はフィオーレに出会った君の反応が楽しみだからな。今は、我慢しておこう」
からからと笑った弟君だったが、すぐにカーテンをつっついた。私はやっとのことで答えたのに。子どもな自分に肩が落ちるのを隠すため、一気にカーテンを引っ張った。
急に差し込んできた光に、思わず目を瞑ってしまった。
恐る恐る、瞼を上げていく。どっどっどと跳ねる心臓。鼓動が耳まで揺らしている気がした。指が震えているのがわかる。
「わぁっ!」
指紋がつくなんて配慮も忘れ、透明度の高いガラスにへばりついていた。最高級の透明さえ、わずらわしいほど、視界に広がる色彩に惹きこまれる。
すごい、すごい!! これが、花の都フィオーレ!
青い空を踊り舞う、色豊かな花びらたち。桃色や薄い黄色い花だけじゃない。一見すると空色にまぎれてしまうような青い花も、存在を消すことなく煌いている。儚いのに、自ら光を纏っているように見える花たちに、瞳の奥が熱くなった。
「淡いのに、強い」
幻想的な光景を強めているのは、美しい街並みだ。
馬車が走るのは、人通りはあまり多くないし、道幅もそこまで広くないことから、中央通りでないのがわかった。
なのに、とても綺麗。太陽の光をうけた石造りの道に葉の影を落としている樹は、等間隔で道の端に植えられている。間には、これでもかというくらい愛らしい花々が咲き誇っているのだ。残念ながら、私は花の名前までは知らないが、目に楽しい。
「どうだい? 息を呑むような美しい光景と街並みだろ」
「はい! すごいです、私、生きてて良かった! って、実感できるくらい、嬉しいです、この街にこれて!」
興奮が止まらない。窓に額をこすりつけていると、すれ違いざまの少女に、可愛らしく笑われてしまった。
街に見合った蜂蜜色の髪をふわりと弾ませた少女の優しい笑いに、恥ずかしくなった。それでも、頬は緩み続けてしまう。いっそ、田舎者と蔑んでくれたらよかったのに。なぜか、あの少女の微笑みが目に焼け付いて、切なくなった。人の優しさが、自分の醜さを助長する気がして、苦しかった。
私はバカだ。本当に愚かだ。異国の地にまできて、人の目に、愚かな自分の色を押し付ける。
俯いていると、ふっと柔らかい風が頬を撫でてくれた。
「風も、優しいのですね」
「フィオーレの風はな、人の心をうつすのだよ」
横を見上げると、弟君が窓を開けてくれたのだとわかった。続いて、ぎょっと目が見開いた。
私を助けてくださった方の屋敷は、小高い丘の上にあった。街からは外れていたが、豊かなのは見て取れた。馬車に案内されたのは裏庭だったので、正面の仕様は不明だが、それでも装飾や作りからかなり高位の方なのは想像できた。
高位な身分の人は、普通、馬車の窓などは開けない。どこから狙われているのか、悪意をぶつけられるかわからないから。
「えと。よいのでしょうか」
呆気にとられて弟君を見上げてしまう。弟君はなんでもないように首を傾げつつも、「うん?」と穏やかに目を細めただけだった。
ついっと流れ込んできた花びらと風。
また、ずくんと胸が鈍く鳴った。泣きたくなって、唇を噛むことでなんとか耐えられた。
「今日は風が気持ちよいからな」
伸びをした弟君につられ、私も息を吸い込んだ。
ちょうどパン屋の前を通ったのか、焼きたての良い香りがした。目を閉じていると、花の甘さや人々の声が鼻腔やら耳をくすぐってくる。幸せな香り。
街灯から屋敷、建物からなにまで花をモチーフにしたように美しい都。けれど、優しい空気が、現実だと教えてくれる。
「香りが全身を巡ります。なんて……優しいにおい」
いかん、いかん。へにゃんと崩れたのを自覚して、慌てて頬を叩く。
と同時に突風が舞い込んできて、髪が踊った。
「ひとつ、聞きたかったのだが」
「はい、私でお答えできる内容なら何でもお尋ねください」
今日はまたステラさんが見事にハーフアップで整えてくださったので、流した部分が風に遊ばれる。
決して長いとは言えない先を、ついっと掴んだ弟君。
これまで見せていた軽い調子ではなく、暗さを灯した瞳の色に。息を呑んだ。
馬車の背もたれにぶつかった背が、痺れをもたらした。
「ヴィッテは最後まで屋敷の主の名を尋ねなかったな」
「恩知らずと思われましたか?」
「いや」
弟君の視線もだが、問いに困ってしまった。
とはいえ、私としては理由があっての行動だ。
屋敷の主様が名を伏せたり、屋敷を出るまで馬車のカーテンを引いていたのには、いくつかの予想がついていた。だから、寂しいなと思いながらも、ステラさんたちとの連絡手段も確かめなかったし、働いてからお礼にも訪れたかったが屋敷の場所も確認しなかった。屋敷の主のお気持ちを、私なりに考えてみたのだ。
「屋敷の皆さん、弟君のお名前をはじめ、主様や漆黒の君のお名前を口にされませんでした。お言葉のやり取りから考えても、常なら二つ名などでお呼びになる関係とは考えられなかったのに。であれば、理由はひとつでしょう。私に家名ならびに個人名を知られるのに差し支えがあった」
心の中でだけ断っておくが。屋敷の皆さんが、私がどうにかしようとしているから黙っていたのではないのは承知している。
逆だ。触れた優しさから、そう思った。
高位の主様の足かせ――他者に利用されないためのお心遣いなのだと。あれだけお優しい方々だ。一端だけで関わった私を弱みとして握られても、間違いなく心を痛められる。漆黒の君もステラさんも、心優しい主様や弟君を慕いつつも危惧されているに違いない。
だから、私からは尋ねなかった。
「すみません、ちょっと意地が悪かったですね。私、ちゃんと、主様にも、弟君にも、周りの皆さんにも、感謝しているのです。だからこそ、私、皆さんの邪魔になりたくなかったのです」
「だれも、邪魔なんて、思ってない」
「はい、心得ております。だから、私のわがままなんです。きっと知りえる機会もあったけど、でも、今の私にはそこまでの勇気はなくて。ごめんなさい」
子どもっぽくて良いやと練りだした謝罪。情けない私に、弟君は何度か唇を弾ませ、結局つむんでくれた。ごめんなさい。聞いてやんわり拒否されるのが怖かった。距離を言い訳にして、目を逸らしたのは私。
「新居、わくわくします」
「生家の住み心地に及ばぬとは思うが、大家は優しいし、風通しは良いと聞いている。期待してくれていいぞ」
卑怯なのはわかってる。でも、どうしていいのかわからないの。唐突に逸らした話題にも、弟君はきちんと反応してくれて。それがまた、呼吸を乱す。
大家さんが弟君の懇意ならば、直接会えなくとも、いずれ感謝を示す機会はあると思えた。距離があって遠くとも、自分を端に認知してくださる存在がいてくれる。それだけでも、今の私にとっては贅沢な待遇なのだ。
「思慮が足りないのも考え物だが。君……ヴィッテは、もう少し人に甘えること覚えるべきなのかも知れないな」
「私は、充分に自分勝手であつかましいです。わざわざ言わせないでください」
今の私が人に甘えていないと取れる方が問題と思う。
だって、私はずるい。遠慮なくいっそのこと傲慢になれれば……きちんと身を引ける純粋な少女なら美談にもなった。
であるのに。腰引けながらも、結局は甘えてしまっているのだ。これ以上、醜い状況はあるだろうか。最終的には好意に擦り寄ってしまう自分が大嫌い。しかも、可愛くない。
「弟君や主様は、優しさに漬け込まれないかが心配です!」
「ありがとう」
つっけんどんに言い放ったのに、お礼を言われた理由がわからなくて。弟君を見上げたのに、泣きそうに微笑まれて。
私は瞬くしかなかった。
馬車が角を曲がった。その衝撃に踏ん張っていると、肩に大きな掌が触れた。
「ほら、あれが花の都の象徴、特権騎士団、騎士団、魔術師団。それに王宮の魔法陣だ」
圧巻の一言だった。
王宮を正面から見る形になったのだろう。中央にそびえる王宮。その手前を守護するように立ち並ぶ塔。それよりなにより。その上に凛然と輝く魔法陣。
王宮の上空にひときわ大きな紫の魔法陣。手前には三つの少し小さな魔法陣が浮かんでいる。空に浮かぶ魔法陣に、呆気にとられてしまう。
ただ口を開けて見とれる私に、弟君は何も言わなかった。その代わりにと、小さく、笑ってくれた。