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身元保証人な主様と寄り添う人々、滞在権を得た私

「ありがとうございます」


 頬へのキスを受けた時とはまた違う鼓動が、全身を揺らす。

 お礼で良かったのか。言いなおしたものの、謝罪が正解だったんじゃないか。ぐるぐると頭の中で回る、選択への不安。すごく怖い。ヴィッテの感性はおかしいと叱られるんじゃないかって。

 シーナさんは瞬きを繰り返し、やがて、くしゃりと笑ってくれた。それにつられ、私は頬の肉を突っ張らせた。裏のないと思えた笑みが、嬉しかった。


「いやいや。それだけ、幸せそうに眺めて、宝物みたいに扱ってもらったなら、こっちがお礼を言いたいくらいさ」

「うむ。ヴィッテの笑顔はとても愛らしかった。が、すっかり俺がしたこと、忘れているだろう」


 ぎゃっ! 折角、幸せ気分になっていたのに。唇を尖らせた弟君の言葉で、現実に引き戻されたじゃないか。

 弟君の一連の動作は、間違いなく、私の嫌な記憶を払拭するための行為。それは充分に理解している。

 が、だが、しかし。


「坊ちゃんときたら、また。漆黒の君のスマートさを分けてもらったら、いかがですかね」

「俺は自分に正直がモットーだ!」


 主張するのが居た堪れないような容姿ではあるが、年齢だけを切り取るならば、私だって十八の娘だ。年頃の娘さんとやらだ。弟君の優しさからのキスとはいえ、子どものように無邪気な笑みで「わーい!」と喜ぶわけにはいかない。

 いや、あれか。貴族で十八ともなれば、適齢期といえよう。少なくとも、私の国では。商家をはじめとした家業を持つ家や庶民では、女性がそこそこ仕事を得ていたので、二十代半ばが婚期であったが。

 この国の婚姻事情の詳細までは知らないけれど、社交界で頬への接触は普通の挨拶程度なのだろう。うん、そうか。

 色々考えたモノの。結論は、私は私というものだった。


「忘れてはおりませんし、忘れられませんよ」

「そうか、良かった。今後、自分で頬へ触れたり、近づかれたりする際、ヴィッテが思い出すのは、俺のキスということになる。まぁ、フィオーレでは頬へのキスは挨拶でもある。あまり深く考えなくていいぞ」


 えぇ、そうでしょうね。人間、前向きなのより後ろ向きな感情や記憶が残るとはいえ。まともに恋愛どころか、身内以外の男性と最低限の触れあいだけだった私には、強烈過ぎる経験。あの声は殺人級だと思う。弟君の性格もあいまって。

 しかし、挨拶ということは、フィオーレで暮らすにあたって、同様の機会に遭遇する可能性があるのだろうか。

 考えただけで、疲労感が半端ではない。

 弟君が「させはしないがな」と、漆黒の君とステラさんさながらに黒い笑みを浮かべたのは、見なかったことにしておく。うん。さすが王都、と意味不明な納得で終わらせよう。


「俺は役得で。あぁ、だが、下心には気をつけるんだぞ。ヴィッテは男女の関係は鈍そうだからな。だから、キスはどの箇所であれ、全部拒否するのがお勧めだ」

「はぁ。鈍いというよりは、不意打ちでしたし。悪意はともかく、下心を向けられる覚えがございません。変な仕事の紹介や一夜の相手探しには気をつけますが。私みたいにあからさまなオノボリさん的地味女に目をつけたり、特殊な趣味の方がいらっしゃったりするかは別として」


 一応、無事に海を渡ってきた身だ。物珍しげに声をかけてくる男性も、牙を剥いて撃退した。それに、全くの初心な箱入り娘ではない、つもりだ。自分はともかく、姉関連で耳年増というか。

 うん。この数日で、ちょっと自信、なくなったけど。とはいえ、自分の容姿に関しては、卑下や皮肉ではなく、人生上の客観的な意見だ。

 現実的な事情は知ってますよーな主張だったのだが、なぜかがっつりと肩を掴れてしまった。弟君とシーナさん、両者に。はしたないと叱られるとは思いながらも、勝手に首が横に倒れていた。


「ヴィッテ! そーいう問題じゃないのだぞ! 大体、ヴィッテは自分をわかってなさ過ぎるのだ。あぁ、とてつもなく心配になってきた! キスした後の可愛さといったら、俺じゃなければ、即、手篭めにされていたぞ。いや、泣いても笑っても可愛いがな!」

「ヴィッテ嬢ちゃん。フィオーレは王都だし、王様の統制や特権騎士団や騎士団、それに魔術士団のおかげで治安もいいが、その分、色んな人が集まっているからね!」


 なっなんか、正面と側面から早口で捲くし立てられて、正直ちょっとよくわからない。主に、弟君の言葉が。呆然とするしかない。

 え、なんだろ。特殊な趣味って部分に過敏な反応を頂いたのだろうか。確かに王都となれば、様々な趣味の人間も集まっていそうだしね。うん。華美な令嬢に飽きてって人もいるかもしれない。都会の方からしたら、私みたいな田舎娘が物珍しく映るのも道理だ。人とは常に刺激を求める生き物。商売柄、あとお付き合いから学んだ教訓だ。


「あらあらあら。まぁまぁ」


 すぱーん、ずごーんなんていう、小気味よい音が調理場に響いた。朝の空気によく共鳴する。

 私の肩を掴んだまま、頭を垂れている弟君の頭頂部からは、煙が見えそうだ。

 弟君の後ろに立つ人は、耳に聞こえた優しい声とは裏腹な表情だ。私が思うに、このお屋敷の関係者の皆さんは、主従というよりも家族、しかも庶民のそれに近い。屋敷の仕様や家具からいって、ハイクラスのものだとわかるのに。


「ステラさん?」

「はい、ステラでございますよ。ヴィッテ様に襲い掛かる悪人は、このステラが鮮やかに退治しますわ」

「え、いや、こちらは主様の弟君で。といいますか、ステラさんの綺麗な御手が、大丈夫ですか?」


 どうやら、ステラさんのチョップが綺麗に決まったらしい。弟君の頭部に置かれたままのステラさんの手が、全てを物語っている。

 私より、ステラさんの華奢な手の方が心配だよ。


「あらあら、ヴィッテ様ってばお優しいんだから。ステラ、感動のあまり――坊ちゃんを踏みつけたくなりますわ」

「繋がってないだろうが!」


 いやいや! 後半、明らかに声のトーンが下がりましたよね! 女神の歌声さながらの美声が、バリトンのごとく!! ステラさん、お腹に親父妖精飼ってるんじゃないかってくらいの声が出ました?!

 驚愕に固まった私に気付いてくださったようだ。ステラさんはたくし上げたスカートを下ろし、にこりと笑みを浮かべてくれた。美脚も素敵でしたが、いかんせん、踏みつけ先が……です。


「全く。わたくしを仲間はずれにして、ご自分はヴィッテ様とお茶ですか」

「ステラは朝食をヴィッテと伴にしただろうが。で、例のものは?」

「こちらですわ。漆黒の君より、たった今、お預かりして参りました」


 もしかしなくても、私、珍獣扱いなのだろうか。

 これだけのお屋敷――家柄なら、庶民との交流や会話は珍しいかもだしね。私は、それでもとっても嬉しい。自分の存在が、自分が好きだなぁって思える人たちに認めてもらえるんだ。これ以上の幸せはない。

 お二人の遣り取りに、にやついていたのを見られていたのだろう。顔を合わせた弟君とステラさんは、ちょっとだけ気まずそうに互いの視線を逸らした。


「さすが、あいつだな。仕事が速い。ヴィッテ、この書類に目を通して、署名を頼む」

「あっ、はい。滞在権の申請ですね」

「うむ。やはり、かなりの語学力だな」


 ステラさんが持ってきたのは、どうやら私の王都滞在権の申請書らしい。

 上質な紙で作られた書類に、視線を落とす。内容としては、単なる旅行者ではなく定住を望む者向けの申請書のようだ。

 旅行者と滞在者では、仕事に就く上の条件が異なる。旅行者には、表向きなのかも知れないが、日雇いでも賃金が発生する仕事に携わる権利は与えられない。かといって、定住権を得るにはそれなりの就労実績と年数が必要なのだ。その間の段階――いわゆるお試し期間と言うやつだろう――が滞在権の取得。滞在権には、詳細は通知されていないが何かしらの条件が必要だと聞いている。

 事前に調査していたとはいえ。こうもあっさりと滞在権の書類を差し出されると、躊躇ちゅうちょしてしまう。


「よいのですか? 私のような得たいの知れない人間に、滞在権など」

「あぁ。むしろ、こちらが勝手に調査したと睨まれるべきだろう。旅券や家名から、我が血筋の者に魔法通信で連絡をとりヴィッテの身の上やら家柄を調べさせた結果ゆえの提供だ。子爵に潰されたとはいえ、アクイエラ家の評判や実績はかなりのものだな。妙な噂が流されてはいるようだが、話の出所や流れから風評と判断して問題なかった。本質として当主の人柄もあわせて商売絡みの悪評もない。立派な――尊敬に値する人物だったのだな。ヴィッテの父上は」


 やはり、父様は偉大だったのだ。ぐっと息を呑んだ。いや、父様は偉大などという言葉を好まないだろう。父様は、ただただ自分の仕事に誇りを持ち、最善を尽くす人だった。

 娘の私でさえ、清廉潔白すぎるかと思われた父様。愚直と揶揄やゆする貴族もいたが、もっとずるくなれば、王室御用達も夢ではないと言われていた。でも、そうしなかった。

 あぁ、嬉しい。自分の身分証明というよりもなによりも、大好きな父様が、異国の地で誉められた。


「父様は本当に素晴らしかったの。私の大好きな父様。仕事が大好きで、誇りを持っていて。それに関わる全ての方を大切に思ってた」


 子どもの私から見ても、父は仕事人間だった。でも、冷たいだけの仕事人間じゃなかった。母様を愛し、娘たちを慈しみ、家業に携わる方や家人を守ってくれる人だった。自分の欲しいものなど飲み込んで、他を優先する人だった。たまに高い樹やら家具やらを購入し母様に叱られていたが、結局は父様が欲したものだからと呆れ笑っていた。というか、母様が一番愛用していた気がする。

 先ほどもだが。興奮のあまり敬語を使えない私を不敬と諌めるのでもなく、耳を貸してくださるお二人の好意に甘えてしまう。気持ちが止まらない。


「でもね、家族をおざなりにしてたんじゃなくってね。言葉数は少なかったけど、ちょっとでも時間があれば、私の疑問に答えてくれたり、ピクニックに連れて行ってくれたり、したの。厳しいけど、いっぱい愛情をくれた。父様だけじゃなくて、皆が誉められたみたいで……。ありがと、ございます。ほんとに、ありがとう、ございます」


 熱い。目が、焼けるように熱い。けれど、ついさっきまでの物とは違い、どこまでも喜びに溢れている。

 父様だけではなく、仕事に関わっていた全ての人が受け入れられた気がしたのだ。誉めるなんて言葉じゃなくって、もっと感謝が伝わる言葉を知っていたなら良かったのだけれど。私の語学力での限界が悔やまれる。


「……君は、ヴィッテは。寄り添う者たちに、身の上を事細かに、人の耳に入れたくなかったであろう風評まで暴かれたのに。怒りを覚えるのではなく、礼を述べるのか」


 はらはらと頬を伝う涙。私、一生分の水分を、昨日今日で流しきったんじゃないのかと思える量を流している。

 でも、眼前で不可思議だと眉を寄せている弟君もステラさんも、横でどこか優しげにお菓子を切り分けているシーナさんも。私には、彼らの方が不思議だ。

 流れる涙もそのままに、首を傾げてしまう。


「どうして、ですか?」

「表ではヴィッテ様のお気持ちを耳にして微笑みながら、裏では知られたくなかったであろうことを含め、内密に探っていたのですわよ?」

「知られたく、ないことですか? どうでしょう。私の場合は、あまりに私が愚か過ぎて嫌われないかと言う危惧を指しているのでしょうかね」


 真剣な面持ちでご自分のエプロンを掴んだステラさん。

 行き倒れてた私ですしね。当然だと思うのです。本人が家出じゃないって言ったって、罪を犯して逃亡している可能性だってあるしね。そういう人間に見えたなら、悲しいけど。でも、この屋敷の人たちは、だから私の身辺調査をしたんじゃないってわかるんです。姉に愚かだと言われ続けた私だが、前向きな、人を好きだなって思った気持ちは信じたい。たぶん、理由があっての調査。口に出来るほど、可愛くないのが惜しまれる。

 どこか他人行儀だとか一線引いているのが腹立たしいとは罵られたことがあっても、目前の方たちのように苦味を醸し出されることはなかった。皆さんが傷つく必要なんて、これっぽっちもないのにね。

 へらっと笑った私に、皆さんは押し黙ってしまいました。


「私への対処は当然です。なのに、弟君――このお屋敷の皆さんは、身元の証明だけではなく、私の父様を誉めてくださった。家を潰したと、娘の身すら落とした愚かな経営者と罵られても致し方がないのに、本当の父を見てくださった」


 言葉にして、思い至った。国を去る際、かけられた同情の言葉を。

 年頃の娘に業を追わせるなど、当主は情けないというものだ。父様は悪くない。だって、まさか。愛した娘の一人が財産を全て持って逃げるなど、思い至らないのが普通だろう。姉は家業に貢献していたのだし。


「娘の私にとって、これ以上の喜びはありません。それに、これは完全に個人の想いですが、アクイエラ家に縁を持ってくださった方々、全ての方への感謝を改めて感じられたんです」


 ぱちくりと、瞬きを繰り返す弟君とステラさん。

 はっ! 嬉しくて、つい申請書を抱きしめちゃってました。上質で厚みがあるとは言っても、国に届ける書類だ。机に置き、おっちらと皺を伸ばす。


「ヴィッテの涙は、綺麗だな」

「はい?!」


 目元を拭ってきた親指の感触に、悲鳴をあげそうになる。

 が、弟君の体温より、言葉の方に咳き込んでしまった。咳き込んだのは、自分の喉からあがった悲鳴の代わりに出た、へんてこな声のせいだけれど。

 まじまじと弟君を眺めて、あぁと掌を打った。


「すみません、大変失礼な声をあげてしまって。あれですね、拾って頂いてから嬉し泣きばかりで。私、普段はめったに泣かないんですよ?」

「あ、うん。まぁ、今はそういうことにしておこう」

「確かに、昨日から泣きっぱなしで、説得力はないかもですが……」


 曖昧に頷いた弟君が恥ずかしくて。らしくもなく、もじっとしてしまった。しかも、苦笑交じりに微笑まれてるし。

 さっさと書類を記入してしまおう。今日は住居を探したり、最低限の家具も入手したりしたい。あまり高くない賃貸であれば、しばらくの家賃に困らないくらいの所持金はある。が、都会の相場は不明だ。宝石類を換金出来る場所なんかも把握しておきたいんだよね。


「えーと、結構な枚数が、ありますね」

「大した内容は記述されていないがな。ようは王都に害を及ぼす気がないという意思確認だ」


 ポイントを定めつつ、二通りほど目を通して、署名を終える。普通に暮らす分には特に気を張る必要がなさそうだ。内心でほっと息を吐いた。

 問題があるとすれば、ひとつ。滞在権の段階では、保証人の有無によって就労条件が変わって来るようだ。あわよくば、今までの家業の手伝いの経験を活かし、事務職につきたかったのだが。幾ら王都といえど、文字の読み書きや書類を取り扱う仕事を募集している機関は絞られるだろう。全部とは言わないが、おそらく、そちら関連は保証人有り、の部類なのは想像に難くない。

 まっ、頑張るしかない。仕事にありつけたらめっけもんと考えるようにしよう。


「署名、出来ました。役所はどちらになるか、教えて頂けると助かるのですが」

「手続きはステラが責任を持って行うよ」

「そういう訳には」


 渋る私を余所に、弟君はさっと机から書類を持ち上げてしまった。

 咄嗟に、奪い返そうと腕が伸びた。が、私の行動虚しく、書類は高い場所でひらひらと揺られている。


「本当はご案内さしあげたかったのですけれど。ヴィッテ様は、これから色々ございますでしょ? 機会があれば、その折にご一緒いたしましょう」

「では……お言葉に甘えて。お手数ですが、よろしくお願いします」

「あぁ、それと。保証人にはこの屋敷の主がなるから」


 今度こそ、悲鳴があがった。ついでに、腰もあがった。

 ステラさんのお誘い、きっと叶う機会は訪れないかも。これまで相手方の素性が一切明かされなかったことから。でもきっと、ステラさんからのアプローチがあれば嬉しいな、なんて考えた直後だ。

 どう考えても、おかしい。というか、そこまで迷惑はかけられない。


「あの、本当に、そこまでして頂く理由が、ございません」


 へっぴり腰で情けない声。だが、構ってはいられない。

 同じく立ち上がった弟君から書類を奪い返そうと、必死にジャンプする。当然のように、長身の弟君がさらに上に伸ばしている高さに、届くわけがないんだけど。諦めるわけにはいかず、ひたすらジャンプを続ける。

 目標物を左右に揺らしている方からは、爽快な笑い声が飛び出てますけどね。


「何を言うか。出来ることに限りはあるが、命を拾ったものとして当然の責務だ。異国の少女をぺいっと王都に投げ出したとあれば、我が――兄上の名に傷がつこうというものだ。なので、お互い様ということで、お節介を受け取ってくれ」

「そうだよ、ヴィッテ嬢ちゃん。フィオーレで生きていこうと思うんだったら、図太くならないとだ。門出祝いだととらえて、受け取っておきなって」

「遠慮深いのは美徳かもしれませんけれど、女性には強かさも必要でしてよ。身を守るためには、巻き込めるものは巻き込んでしかるべきですわよ」


 ぺいって、可愛い表現ですね。

 大人三人に捲くし立てられて、私はそんなあほな感想しか抱けなかった。さっきまでは慌てふためいていたはずの思考回路が、だんだん自分が間違っているんじゃないかと塗り替えられていく。

 おまけに、目の前の三方は、超絶笑顔だ。シーナさんは違うって信じてたのに! と叫びそうになるが、このお屋敷で働かれている方だ。同類に決まっているのだ。笑顔で押し切るタイプ……私のたった一人の親友と似ている。私はこの手の人間には、昔からめっぽう弱い。

 くらりとめまいが起きて、両手を机につく。惨敗、降参、反省のポーズ。反省は、もちろん何だかんだと甘えてしまう自分に。

 

「ナニトゾ、ドウゾ、ヨロシク、オネガイ、イタシマス」

「よしきた! 今日からヴィッテはオレの特別だ!」

「坊ちゃま。調子に乗るのは、おやめなさいまし」


 私にとって特別な存在ほしょうにんじゃあ、ないんですか、とか。保証人は主様であって弟君ではないのでは、とか。むしろ、弟君の耳を引っ張っているステラさんは、睨んでても綺麗だな、とかとか。

 色々突っ込みたい部分はあるし、今日一日でやらなければいけない作業はごまんとあるのだけれど。この街で暮らせるのだと思うと、自然と鼓動が早くなってくる。胸が躍る。


「ヴィッテ」


 高らかに名を呼ばれた。凜と気高い鈴がなるようで、それでいて、陽だまりみたいなあったかい声。私の胸に、すっと染みこんでくる。

 顔を上げた先には、微笑を湛えた皆さんがいた。いてくれた。

 私が向き直ったのを確認してから、弟君が手を差し伸べてきた。大きくて剣を持つ人の手。

 ちょうど、窓の外からは鐘の音が響いてきて。目の前の優しい手を掴んだ瞬間、全てが消えてしまうのではと恐ろしくなった。夢が覚めて、私は暗い屋敷の中で、薄い毛布にくるまって一人で震えているんじゃないかって。


「は……い」


 お菓子の甘い香り、紅茶の安らぐ匂いも、朝の少し寒いけど心地よい空気も、確かに感じられているのに。

 出しかけた手をわずかに引くと。幻ではない強さで、手を引っ張られた。とんとぶつかった硬さ。慌てて顔を上げると、優しく細められた金の瞳とかちあった。


「ようこそ、花の都フィオーレへ! 街の一員として、ヴィッテ、君を歓迎するぞ! 我が愛する街フィオーレが、君にとって幸福の導となるのを、心から祈っているよ」


 眼前の笑顔。弟君自身が、まさに祝福の花なのだ。そう思った。



お屋敷編終わりです。

区切りまで来たので、感想欄を解放してみました。

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