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過去から睨む子爵と頬へ触れる弟君、動揺する私

「あの、本当に、申し訳ありません。お洋服を、汚してしまって」


 私の汚い気持ちが混ざった涙で濡らしてしまって、ごめんなさい。しかも、昨日の主様を笑えないくらい、ひどい鼻声だ。

 どれだけ泣いていたのかはわからない。けれど、枯れた喉と痛む瞼から、ソレ相応の時間ではないかとは予想がついた。私は愚かだ。人生を改めようと渡った地で、早速、醜態を晒している。

 同時に、やけにすっきりもしている。

 泣きすぎて霞がかった頭と違い、心の真ん中は晴れ渡った空のようだから、たちが悪い。泣いてわめいて。いつもなら罪悪感にさいなまれるのに。どういう理由わけか、今に限って黒い感情は襲ってこない。

 赤の他人の前であるのに。おまけに、命の恩人ではなく、弟君。

 それでも、この髪を滑る優しさには、覚えがある、気がした。


「いや。先ほども言ったが、オレ――兄の自己満足なのだ。ヴィッテが気に病む必要はない。ただ……」


 左頬に指先が触れた瞬間。自分でさえも驚くほどに、身体が跳ねてしまった。

 やめて。本能で感じられるの。手をあげたまま困ったように微笑んでいる目の前の男性は、私に害なんて及ぼさない。嫌がることなんてしない。

 頬を殴ってなんて、いない。

 わかっているはずなのに、あの日、生まれて受けた拳の衝撃は、私の中に刻まれている。

 大丈夫、大丈夫。ただ、成人男性の力限りの拳で殴られただけ。平手ではなく、グーパンだ。相手にも感情があって、私は身内として甘んじて受けるべき苦痛だったのだから。

 違うのですと謝る私に……弟君は、


「うん。わかってるぞ」


 と笑いかけてくれた。

 ただ、ただ。陽だまりみたいな笑みで。それに、また。熱い物が落ちていく。止まれと瞼を閉じても、醜い嗚咽と熱い塊は止まってはくれなかった。

 ごめんなさい。私は汚いの。いつだって自分の保身ばかり考えていた。そんな私は受け入れてもらっちゃいけない。


「俺自身の自戒として聞いてくれ。たぶん、ヴィッテは今、自分を慈しんでくれた人たちに対して、ひどい仕打ちをしている」

「ひどい、仕打ち?」


 思わぬ言葉に、はっと顔があがった。

 それでも、堪えられない涙は落ち続ける。弟君がわずかに微笑み。目元に口付けてきた。けれど、反応は出来ない。心地よさに、瞼を閉じただけ。男性からのものというよりは母様の慈しみを思い出して、切なくなった。


「そうだ。ヴィッテが自分の存在を拒むというのはつまり、君を愛してくれた両親や周囲を否定することに他ならない」

「ちがっ! 私は――」


 客観的な、客観的だと思っている事実を言いかけて、全てを飲んだ。

 弟君の言わんとする内容を、理解してしまったのだ。感じてしまった。だれも私に告げなかった、考えをぶつけられた。お腹の底では思っていたかもしれない、こと。

 向けられているのは、寂しげな眼差し。彼自身が『自戒』と口にしたように、弟君は自分を私に重ねているのだろう。だから……同情や哀れみじゃないから、吐き出せた。

 まるで傷の舐めあいみたいじゃないか。

 左頬を摩りながら、唇を噛んだのは一瞬で。すぐ、思い直した。弟君と私には決定的な違いがある。

 理解している者と否定し逃げている者。

 頭ではわかったいるのに、心が追いつかない。自信が持てたら、変われるのかな。


「左頬、どうしたのか聞いてもよいか?」

「坊ちゃん、察するのが紳士ですよ。わざわざ傷を開くようなこと、お尋ねになるもんじゃ、ありませんって」

「一回開ききってしまったら、良いじゃないか。大体、黙ってお互い聞き分けのよいふりは好かん。行き倒れの経緯や悲しみ、それに幸せと感じる心は聞いた。俺は、ヴィッテが苦しんでいる内容も、ちゃんと知りたいのだ」


 溜め息混じりに諌めてくれるシーナさん。弟君はむすりとしたものの、私だけを真っ直ぐ見つめてくる。

 弟君は昨晩の吐露を、聞いているのだろう。別段、隠すこともないし、助けてくださった方の身内だ。知ってしかるべき。

 でも……どうして、私の中の苦しみまでにも手を伸ばしてくださるのか。だって、重いだけじゃない。同情や興味本位の色が伺えないから、余計に不可解なのだ。いっそのこと、坊ちゃんの道楽や暇つぶしだと感じられれば、こちらも割り切れるのに。

 過去の痛みよりも、強いけど優しい瞳への困惑が勝る。


「命に関わるほどの暴力でも、その、性別的に、らっ乱暴されたという訳でも、ないのです。シーナさんは聞かれてますか? 私が行き倒れていたのは、私の幼馴染――子爵の息子だったのですが、彼がいち商家の娘である姉と、駆け落ちして。お怒りになった幼馴染のご両親に、故郷を追い出されたからなんです」


 夜の食事を終えたのは遅い時間だった。片付けや朝食の準備に追われていたであろうシーナさんは、私の存在は知っていても、詳細までは聞く時間はなかったかも。

 だいぶ端折ってしまったが、ざっと説明をする。

 妙に神妙な面持ちで小さく頷いた様子から、ご存知だったのを把握した。


「母が他界した日、部屋に子爵様が乗り込んでこられて。私にお怒りをぶつけられ――頬を打たれたのです」

「そりゃ、大の大人、しかも男に叩かれたなら、こんなか細い女の子がショック受けないはずがないさね! 怖かったろうに」


 ぱんぱんと、太ももを叩いて顔を真っ赤にしてくれたシーナさんに、また涙が溢れそうになった。自分のために、腹を立ててくれる。哀れみではなく、見下しでもなく。

 母様が亡くなられてから国を出るまでの間も、私のことを助けてくれた人たちもいた。けれど、あの時は、感謝よりも申し訳なさが勝っていた。私なんて助けて、子爵に目を付けられたら大変と。そうしてまで助けてもらう価値は、自分にないと恐縮しきりだった。たった一人の親友にさえ、私のことは忘れてと手紙を残して去ったのに。

 今、思うと、もっとありがとうと言えば良かった。結局、あの時の私は、皆を心配しているふりをして、自分の心の負担を減らしたかっただけなんだ。

 遠い異国の地で、この屋敷で、ようやく懺悔を抱けた気がした。


「そうです、ね。父は厳粛な人間でしたが、怒っても思い通りに行かないことがあっても、決してだれにも手をあげたりなんてしない人でした。私が恐ろしく感じているのは、叩くという行為もですが、それよりも、子爵様の感情とお顔で」

「感情?」

「はい。全身を震わせ、目から血が走り、落ちてきそうな目。口の端についた泡。私の存在にだけ向けられる殺意と侮蔑。それに、私を舐めまわすような視線。ありとあらゆる報復を吐き出す声。今でも、時折、耳の奥でなるの。叫びに近い、獣の咆哮のような音が。流れ込んだ粘着質な声が、体の中に、住んでいるみたいで、気持ち悪い」


 恐怖を音にする度、身体の震えが大きくなっていく。節々が痛い。がちがちと鳴る歯を必死に動かすのがやっとで、敬語を使えない。でも、苦しいはずなのに、出始めた言葉は止まってくれない。

 私が行き倒れたのは、何も空腹だけではない。悪夢を見ては跳ね起きていたからだ。旅の疲れだけではなく、母がみまかって以来の疲労もあったと思う。最初こそ心配して、寒いのかと毛布を貸してくれた船の人も、段々とうんざりとし苛立ちが目立つようになる。当然だ。慣れている人にだって船旅だけではなく、陸地でも馬車旅は辛い。

 ならばと、可能な限り寝ないようにするか、振動で目が覚めやすい馬車の中での転寝に押さえておいた。

 睡眠不足は、精神の安定と健康を奪うと、身を持って知った。


「ヴィッテ」


 凛とした声調で名を呼ばれても、私は顔をあげるのはかなわない。歯を食いしばる姿はきっと見られたものじゃない。辛くないのに。いっぱい眠ったから、もう元気なのに。こうして起きている自分からしたら、気に病んでいないのに、いつまでも鬱々とこびりつく意識に腹が立ってしょうがない。

 動かない私を諌めるのでもなく、調理場の空気は変わらない。


「ヴィッテ、俺を見てくれるか?」


 てっきり、強引にあげられると考えていたのに。空気を振動させたのは、お日様みたいなお願いだった。

 考えるより先に、はっと上を向いていた。私の前にあるのは、弟君の笑顔だった。いや、笑顔よりも微笑みに近いのか。でも、微笑みというほどの淡さではない。表現しようのない様子に、どくどくと心臓の動きが激しさを増す。気持ち悪くないけど、苦しい。

 視線があって、どれくらいの時間、そうしていたのだろう。


「左頬、触ってもいいか?」

「うぇ?! 触るのですか? えと、拒むほどのものでもありませんが」

「よし、ありがとな!」


 なぜ、お礼を。

 戸惑った私を察したのだろう。弟君は触れる前に、満面の笑みを浮かべた。ほぅっと見とれている間に、少し荒れた指先が頬を撫でた。綺麗に見えても、剣を握っているのがわかる感触。貴族のたしなみなのだろうか。


「だって、ヴィッテが怖がったのは、俺が突然触れたからだろう?」

「う、え、なんで」

「あいつが言ってたのを思い出したんだ。髪に触れる前に一瞬びくついていたが、ちゃんと目を合わせてたら、大丈夫だったってな」


 漆黒の君は、私の感情の機微まで把握していたのだ。いえ、上から目線なつもりではないのです、とだれにでもなく語る。

 そっと自分の髪に触れると、漆黒の君が撫でてくれてた感触を思い出しそうになり、ぐっと下唇を噛む。人の顔色を伺うのに慣れた私には、最初、漆黒の君は優しい言葉の裏で、人を定めているように感じられてしまった。けれど、彼の『気持ちを頂戴する』という言葉と笑みに、一気に陥落した。僭越せんえつ過ぎるし、立場の比はないが。

 そんな空気を纏わざるを得なかった方だと思った。おそらく、私とは対極の意味で。


「遅れを取ったと、すごく悔しいな。でも、いい。あいつのおかげで、たぶん、俺はヴィッテに嫌われない解決策がわかったのだからな。さっきは嬉しすぎて興奮してしまったが。今度は大丈夫だ」


 あぁ。この人は、どうしたって私の胸をえぐってくる。なんて……前向きな人なのだろう。弟君の笑顔は嬉しそう、というよりも。悪戯に成功した少年の笑みだ。つられて、私の口の端も、わずかに緩んだ。愛想笑いではなく、つられ笑いだと嬉しい。

 弟君の解決策には、心当たりがある。突然強く触れられると混乱するのだが、目を合わせて、相手を認識してからなら、さほど強張ることも過去に震えることもない。なので、私は可能な限り、相手と目を合わせるようにしている。


「嫌い、なんて」

「では」


 とはいいつつ。好きとか嫌いとか。そういう問題じゃないんですと口にするのは恥ずかしくて。つい視線を逸らしてしまった。

 弟君が触れているのとは反対の方。つまり右側に視線を落としていると。視線の端に、薄紫色の髪が映りこんできた。また頭を抱きしめられるのかと、恐怖とは別の感情から、一瞬強張る。が、爽やかな柑橘系の香りが鼻腔をくすぐってきて、心が落ち着いた。って――!!


「ヴィッテの中に、穢れた声などないよ。俺に全部引き抜かせて」

「なっなっなな!!」

 

 頬が熱い。耳は、もっとで、火が出そうなくらいだ。今しがた弟君の唇が触れていた頬に指を添えると、ありありと柔らかさが蘇ってきて。今度は全身が燃えていく。炎に包まれてしまいそうだ。

 喉から飛び出る声が形にならない! というか、男性に、まるで耳に流し込まれるように囁かれたのは、自慢じゃないが、生まれて初めてだ!

 加えて、手の甲へのキスならまだしも。頬だよ、頬!

 あまりのインパクトに、はげ親父貴族の声など、反対側から吹き飛ばされていった!

 これも、魔法だというのか。

 息を止めて羞恥に震えている私を、弟君は爆笑ではなくどこか艶めいた微笑みを湛えて見つめているから。さらに、呼吸が出来なくなる。


「あちゃちゃ。坊ちゃん、ヴィッテ嬢ちゃんには刺激が強すぎますよ」

「ショック療法という奴らしいぞ? 俺がオクリースに受けた治療は、もっと恐ろしいものだったがな……」

「おっしゃりたいことはわかりますが。ほら、ヴィッテ嬢ちゃん、紅茶、お飲みよ。息、止まってしまっているよ」


 ショックで心臓が止まるかと思いましたよ。本当に。

 弟君が青い顔で震え出し、私から視線が外されて。やっとこさ空気が体内に入ってきた。

 シーナさんから差し出された紅茶を、申し訳ないと思いながら、一気飲みする。お上品なカップはあっという間に空になってしまい。シーナさんが笑いながら、今度は果実水をグラスに注いでくれた。

 ごくごくと喉を鳴らしてようやく。このガラスコップ、色つきのカットグラスじゃないかと気がついた。おぉ!! 綺麗! 確か、東洋の品だった記憶がある。


「綺麗だろう? おじさんの一番上の娘が、東方に嫁いでねぇ。里帰りの際にくれたんだよ」

「東洋の『キリコガラス』ですね! 青が、空と海をまぜたみたいで、きれい……」


 ほぅっと。両手に包んだガラスの色に、感嘆の息が落ちる。窓のある方へ向き直り、遠くはあるが光へ翳すと、いっそう不思議な色を纏うグラス。

 うっとりと、光とガラスが生み出す色に見とれていたが。これはシーナさんの大切な品なのだというのを思い出し、慌てて、けれど細心の注意を払って衝撃がないよう机に戻した。


「しっ失礼しました。大切なグラスをお借りしてしまって。ごめ――」


 申し訳なさに体が縮んだ。謝らねば、と勢いよく頭を下げて、言葉を飲み込む。

 違う。私はさっき、何を後悔したのか。

 同じ勢いで顔をあげると。切れた言葉にだろう、シーナさんが心配げに眉を垂らしていた。




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